◇長編小説◇白石一文「道」連載第19回

◇長編小説◇白石一文「道」連載第19回
あの日、功一郎が助けた女性・霧戸ツムギが、碧の会社のイメージキャラクターを務めるという。深夜、電話が鳴る。

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 二〇一九年八月七日水曜日。

 日付が変わった深夜零時過ぎ。

 ベッドサイドテーブルにいつも置いているスマートフォンが鳴った。ちょうど寝床に入ったところで眠ってはいなかった。隣の渚(なぎさ)は、たまに起きる偏頭痛で、ロキソニンを飲んで早めに就寝していた。

 なので音量は絞っていたのだが、急いで身体を起こしてスマホを手に取る。

 着信表示は「山本(やまもと)さん」だった。

 着信音を消すために受信ボタンをタップし、渚が眠っているのを確かめてから立ち上がってスマホを耳に当てる。

 こんな夜中に一体どうしたのか?

 六月に会ったきりで、これまでやりとりは一度もない。彼女からは何もなかったし、功一郎(こういちろう)の方も連絡したことはない。

 ただ、お盆休みもいよいよ近づき、今日、明日にでも電話しようかと思ってはいた。そうした思いを先取りして電話を寄越したのだろうか?

「もしもし」

 寝室のドアをそっと開けて廊下に出ながら口を開く。

「もしもし」

 霧戸(きりと)ツムギが、ひび割れた声で返してくる。

「こんな夜分に申し訳ありません」

 一瞬、電波状態のせいかと思ったが、声自体が震えているのだと察する。

「どうしたんですか?」

 だが、霧戸は何も答えない。

 ずいぶんと長い沈黙のあと、

「私、どうしていいか分からなくなって……」

 ぼそりと言った。

「それで、こんな時間なのに、つい唐沢(からさわ)さんに電話してしまいました」

 どうしていいか分からなくなって──頭の中で彼女の言葉を反芻し、

 ──まさか……。

 不意に背筋に冷たいものが走った。

 ──まさか、もう、やってしまったのか?

〝前の世界〟での事件はお盆休みに起きた。だが、〝今の世界〟ではそうではないのかもしれない。

 一週間くらいの時間的「ずれ」なら充分にあり得るだろう。

 ──すでに犯行に及んだあと、「どうしていいか分からなくなって」発作的に〝いのちの恩人〟である相手に電話をしてきたのか?

 功一郎はめまぐるしく頭を回転させる。

 このまま放っておけば、彼女は〝前の世界〟と同じように戒江田龍人(かいえだりゅうと)の部屋のベランダから飛び降りて死ぬだろう。

 こうやって連絡をくれた以上、まさか見殺しにするわけにもいかない。

 だが、だからといって自分が現場に駆けつければ、世間を震撼させる殺人事件に否応なく巻き込まれてしまうことになる……。

 ──どうする?

 こんなことなら、もっと早くこちらから連絡すればよかった。

 ──いや、ともかく事実確認をすべきだ。まだ、彼女が戒江田を殺したと決まったわけではないのだ。

 強く自分に言い聞かせた。

「霧戸さん、いまどこにいるんですか?」

 先ずは彼女の居場所を確かめよう。

「いま、赤坂のANAホテルのお部屋にいるんです」

 予想とは違う答えが返ってきた。

 殺害現場も〝前の世界〟とは違うのか?

「お一人ですか?」

「はい」

「何かあったんですか?」

「実は、さっきこの部屋に彼氏がやってきて……」

 ──やはりやってしまったのか……。

 ホテルのベッドか床に血を流して倒れている戒江田龍人の姿が脳裏に浮かんだ。

「それで?」

 意を決して訊ねる。

「必死で追い返したんですけど、彼氏のしようとしたことがあんまりひどくて悔しくて。それで私、頭がどうにかなりそうで……」

 そのあとはもう嗚咽で言葉にはならなかった。

 だが、いま彼女は確かに「必死で追い返した」と口にした。

 ──よかった。まだ手遅れではなさそうだ。

 功一郎は、胸を撫で下ろす。

 ただ、こんな電話が来るようでは一刻の猶予も許されない状況ではあろう。

「分かりました。とにかく、いまから僕がそっちに行きます。赤坂のANAホテルですね。ロビーに着いたらその携帯に電話します。恐らく三十分くらいだと思うので、それまで部屋にいてください」

「すみません。ご迷惑をおかけして」

 霧戸ツムギは、思いのほかすんなりと功一郎の来訪を受け入れた。

 よほど切羽詰まっている上に頼れる人間もいないのだ。なるほど、あんな大事件に発展したのだから周囲にまともな相談相手がいなかったのは間違いないと思われる。

 多少強引にでも電話番号を交換しておいてよかったと思う。あのときの「私、唐沢さんのことを信用しているので」という彼女のきっぱりとした物言いが耳朶(じだ)によみがえってくる。

「迷惑なんかじゃありません。僕も、ちょうどあなたに連絡しようと思っていたところでした。じゃあ、その件も含めて詳しい話はあとで」

 そう言って功一郎の方から通話を打ち切った。

 書斎代わりの和室で急いでスーツに着替える。ネクタイは上着のポケットにねじ込み、内ポケットの財布の中身だけ確認した。

 寝室に顔を出すと、渚がベッドでちょうど半身を起こそうとしているところだった。さすがに話し声と物音で目を覚ましてしまったのだろう。

「どうしたの?」

 功一郎の服装を目にして訝しげな声を出す。

「ちょっと会社に行ってくるよ。いま吉葉(よしば)君から電話が入ってね。高崎の工場でまたトラブルが起きたらしいんだ」

 着替えながら考えていた嘘がするすると口をついて出る。

「会社で対応策を練って、そのまま朝一の新幹線で高崎に行くかもしれない。車は置いていくよ」

 水曜日は、アートフラワースクールだからプリウスは渚が使うことになっている。

「たいへんね」

 ベッドから降りようとする渚を手で制止した。

「見送りなんていいから。教室もあるんだし、きみはゆっくり休んでくれ」

「ごめんなさい」

 渚が姿勢を元に戻す。まだ頭痛が続いているようだった。

「痛みが残っているのなら、もう一錠ロキソニンを飲めばいいよ」

「ありがとう」

「じゃあ」

 そう言って寝室のドアを静かに閉める。


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白石一文(しらいし・かずふみ)

1958年福岡県生まれ。2000年『一瞬の光』でデビュー。2009年『この胸に深々と突き刺さる矢を抜け』で山本周五郎賞、2010年『ほかならぬ人へ』で直木賞を受賞。近著に『ファウンテンブルーの魔人たち』『我が産声を聞きに』。

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