◇長編小説◇白石一文「道」連載第21回

第五部
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二〇二一年二月十二日金曜日。
前日が「建国記念の日」で休診だったこともあり、休み明けの病院は患者たちで混み合っていた。慈恵(じけい)医大柏(かしわ)病院の各科外来はB棟の一階と二階に分かれているが、精神神経科は内科や小児科などと同じく二階にある。
内科の広い待合ロビーは患者たちでごった返している。
ずらりと並んだ長椅子もほとんど埋め尽くされていた。といっても、一月七日に一都三県に発出された緊急事態宣言がいまだ継続中なので、マスク姿の患者たちはそれ相応の距離を保って着座している。それもあって、椅子に座れない人たちが周辺に散らばり、まるで満員電車のような様相を呈しているのだった。
渚(なぎさ)がいつも通院している精神神経科の診療受付は、その内科の待合ロビーの前を通ってさらに奥に進んだところにあった。
一つ手前が眼科で、こちらも常に混雑しているのだが、B棟の一番端っこに位置する精神神経科は休日明けでもそれほどの人数ではなかった。
精神神経科は外来だけで、専門の入院病床はない。外来診療時間も午前中のみで、そのうえ診療科の性質上、飛び込みの患者はほとんどいないためほぼ全員が予約済みの患者たちなのだ。
そんなわけで、月に一度の診察も予約時刻に合わせて顔を出せば、長めに待たされたとしても三十分程度で済むのだった。
渚の主治医の小針(こばり)俊直(としなお)医師は診療部長であり、慈恵医科大学の教授でもある。気分障害、つまり鬱病や躁(そう)鬱病の専門家だ。
痩身長躯で、白髪交じりの髪にメタルフレームの眼鏡。眼鏡の奥の瞳はいつも温かみのある光を宿している。しばし対峙しているだけでささくれだった気持ちが平らかになるような、そういう精神科にうってつけの佇(たたず)まいのお医者さんであった。
年初には全国での一日の感染者数が六千人を超え、特に増加傾向が著しい首都圏では破局的な医療崩壊の発生が危惧されたが、一月七日の東京、千葉、埼玉、神奈川の一都三県への緊急事態宣言発出の効果もあったのか、一月後半から徐々に感染者数は下がり始め、二月に入るとピーク時の四分の一ほどになっていた。
昨日の感染者数は全国で一六九〇人。東京は四百三十四人で、功一郎(こういちろう)たちの住む千葉県は百二十七人だった。
まだまだ油断できる数字ではないが、さほど混み合っていない精神神経科を訪ねるくらいのことはできると思われた。これまでも緊急事態宣言が発出された直後の診察はキャンセルしていた。代わりに功一郎か碧(みどり)が小針医師と電話でやりとりし、それをもとにした処方箋を松葉町の家まで送って貰って最寄りの薬局で薬を入手していたのだった。
というわけで、十二日は今年に入って初めての受診でもあったのである。
病院には功一郎が付き添った。精神科の都合上、診察室にまで一緒に入ることはできないが、代わりに診察後、功一郎が別途小針医師の話を聞かせて貰う仕組みになっている。
ところがこの日は、診察を終えたところで小針医師が、まだ渚のいる診察室に招き入れてくれたのだった。
「お待たせしました」
そう言って、医師は自ら折りたたみ椅子を開いて、功一郎の分の場所を渚の隣に作ってくれる。
「ずいぶんと回復されているようですね」
明るい声で言った。
「そうですか?」
「ええ」
功一郎は隣へと顔を向ける。渚が笑みを浮かべてこちらを見返してきた。
確かに年明けから、彼女を包み込んでいた薄(うっす)らとした霧のようなものが次第に晴れてきているのを功一郎も碧も感じていた。
「睡眠の問題もかなり改善していますし、薬を少し減らしてみようと思います」
「先生、本当ですか?」
「はい」
小針医師が力強く頷く。
小針医師に診て貰うようになってもうすぐ二年になるが、彼の方から減薬の話を持ち出してきたのは初めてだった。いままで何度か功一郎の方からやんわりと求め、そのたびに、
「唐沢(からさわ)さん、あんまり薬を悪者と思わないでください。いまだってそんなに沢山のお薬を出しているわけじゃありませんから。いつも話している通りで、鬱病というのは焦らずにじっくりと付き合うのが回復の一番の近道でもあるんですよ」
と拒まれてきたのだった。
その小針医師の方から薬を減らすと提案してきたのだから、渚の回復は本物と考えて間違いなさそうだった。
「先生、ありがとうございます」
功一郎は隣の渚をもう一度見てから、正面の医師に向かって頭を下げた。
処方箋を受け取り、病院の近くの薬局で薬を貰う。そのあいだ渚は薬局の駐車場に駐めた車の中で待たせていた。薬が出てくるまでの間に碧にラインをする。
回復が順調で、ついに薬を減らすことになったと伝えると、
〈おめでとう!〉
というポップアップスタンプが続けて三種類も送られてきた。
〈今日は、お祝いに何か美味しいものを作ります〉
というメッセージに、
〈じゃあ、買い物は僕たちで済ませてきます。何を買ってくればいいか食材のリストをお願いします〉
と返信した。
病院からだと松葉町までの帰り道にモラージュ柏というショッピングモールがあり、そこにヤオコーが入っていた。ヤオコーは埼玉県発祥の食品スーパーだが、その品揃えの良さに定評があった。功一郎たちは柏に来てヤオコーの存在を初めて知り、あっと言う間にヘビーユーザーになったのだった。
モラージュ柏でたっぷり食材を仕入れ、帰宅したのは正午過ぎ。
お昼はヤオコーの調理パンで三人とも簡単に済ませ、夜勤明けの功一郎は一階の寝室に入った。渚もさすがに疲れたのか功一郎と一緒に隣のベッドに横になっている。
碧はリモートワークなので自室での仕事に戻っていた。
功一郎が起きたのは午後四時過ぎだった。一睡もせずに渚の病院に付き添ったので三時間ほどの睡眠では足りなかったが、なんとなく目が覚めてしまったのだ。
隣のベッドを覗くと渚が気持ちよさそうに眠っている。彼女もあのまま寝入ってしまったらしい。
音を立てないように布団を畳み、功一郎は一階の寝室を出た。長い廊下を歩いてリビングダイニングルームのドアを開ける。
美味しそうな匂いが廊下まで漂っているので、碧が料理をしているのはすぐに分かった。