◇長編小説◇白石一文「道」連載第24回

◇長編小説◇白石一文「道」連載第24回
またしても、信じられないことが起こった。功一郎は、混乱する。

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 二〇二一年十一月一日月曜日。

 揺れに先に気づいたのは渚だった。

「あなた、地震」

 という声で功一郎は目を開けた。最初は目が回っているような感じだった。意識が鮮明になるにつれてゆらゆらと部屋全体が揺れているのが分かった。急いで半身を起こす。

 渚はすでにベッドを降り、立ち上がっていた。

 さらに大きな揺れが来たのは、渚の姿を見上げた直後だった。

 ガタガタと建物全体が軋(きし)みながら震える。

 廊下の方でドアが開く音、足音、そして声が聞こえた。

「ねえ、地震だよー」

 碧の大声だった。

 渚が寝室を出る。功一郎も布団を剥いであとを追った。揺れは続いているので足下が不確かだが、それでも歩けないほどではない。

 最近では滅多にないような強い揺れだった。

 パジャマ姿の碧が明かりの灯った廊下にいる。渚と二人で中腰になって片手は壁に添えていた。天井を見上げると二階がみしみしと音立てて左右に揺れているのが分かる。

 築二十年ほどの家屋で、ぎりぎり木造家屋の新耐震基準を満たしている。震度6強の揺れにも何とか倒壊は免れるはずだ――そんなことをふと自分に言い聞かせるほどの揺れだった。

 一分程度で揺れはおさまった。

 碧が無言のままリビングの方へと戻っていく。すぐにテレビの音が聞こえてきた。アナウンサーが地震のニュースを伝えている。

 功一郎も渚も続いてリビングに入った。

 震源は福島県沖。マグニチュードは6.1。最大震度は福島県浜通りで震度6弱。東北地方の三陸沿いが大きく揺れたようで、岩手から宮城、福島の沿岸部にかけて5強、5弱の数字がずらりと並んでいる。

 この近所だと茨城県南部が震度5弱、柏や松戸など千葉の東葛地域から関東にかけては軒並み震度4の数字がテレビ画面の地図上に表示されている。

「4より強かった気がするよね」

「5弱はあったんじゃない?」

 東京育ちで地震慣れしているはずの渚と碧が、「結構凄かったね」と二人で口々に言い合っている。

「ところで、携帯の緊急地震速報は鳴った?」

 割って入るように功一郎が訊ねる。二人ともきょとんとした顔を見せる。

 ――しまった……。

 ここが〝前の世界〟ではないことを功一郎は忘れていたのだった。

 なぜか分からないが、この世界では〝前の世界〟のようなスマートフォン用の緊急地震速報システムが普及していないのだった。

 功一郎も前回、あちらへと移った当座、大きめの地震のときに突然スマホが震え、「地震です、地震です」というけたたましい警報音が鳴り出して度肝を抜かれたものだった。

「ごめん。寝ぼけてた」

 言葉を濁すと、渚も碧もあっさりスルーしてくれる。

 時刻は午前五時を少し回ったところだ。地震発生は午前四時四十八分とアナウンサーが繰り返している。

「もう大丈夫そうだね」

 功一郎が言うと、碧がテレビを消した。

「あとちょっと寝ようか」

 渚を誘ってリビングを出る。

 午前七時に功一郎は起床した。地震があったせいか渚はまだぐっすりと眠っている。碧も先ほど「今日は午後出社だから遅くまで眠る」と言っていた。

 シリアルにヨーグルトと蜂蜜をかけた簡単な朝食をとり、功一郎は八時前に家を出る。今日は日勤で、仕事終わりは午後五時だが、そのあと久しぶりに竹橋の本社に顔を出すことになっていた。

 社長の堀米正治から「折り入って話がある」と呼び出しを受けていたのである。

 渚の方は結局、今月からタック・アートフラワースクールの講師として仕事に復帰することになった。エミリーの提案通り、西船橋駅前の教室で毎週金曜日、週一回から始める予定だ。

 三年ぶりの授業は今週五日金曜日と決まっていた。この日は功一郎は休みを取って車で柏の葉キャンパスの駅まで送り、帰りは西船橋に迎えに行くつもりでいる。そのときエミリーにも挨拶をしようと思っている。

 八時半過ぎに工場に着き、管理監室で事務作業をする。メールの返事や書類の作成、それにフジノミヤ食品の七工場から上がってきた品質管理に関する日々のレポートのチェックなどを行う。

 日勤の日は、午前中は大体そうやって過ごし、生産ラインを回ったり会議を主催したりするのは昼食が終わった午後からと決めている。職制上、役員待遇の管理監である功一郎はこの我孫子(あびこ)工場の最上席者だった。そういう意味ではシフトも含めて仕事上の自由度は高い。ただ、だからこそ自らのわがままを通さないよう心がけているし、渚が元気になってきたここ半年くらいは、工場長や各部門の責任者たちに自分の都合を押しつけることのないよう注意してきた。

 レポートのチェックを早めに済ませ、必要な指示を各工場の品質管理担当者にメールで伝えると、功一郎は作業を一旦止めて、今朝の地震の情報を集めることにした。

 まだ時間も経っていないので、第一報を超えるような情報はほとんど見つからないが、それでも、今回の地震がやがて到来する関東直下型地震や三陸沿岸を大津波が襲う東北大地震の前兆かもしれないという地震学者の見解が早くもネット上で散見された。

〝今の世界〟では二〇一一年の「東日本大震災」は起きていない。

 だが、日本列島の地下でせめぎ合っている四つのプレートが生み出す歪みは現在も刻々とその大きさを増しているのは間違いなかった。実際、東日本大震災以外の大地震、たとえば一九九五年の阪神・淡路大震災や一九二三年の関東大震災などはこの世界でも〝前の世界〟と同じように発生しているのだ。

 だとすれば、十年の時間差をつけて「東日本大震災」が起きる怖れは充分にある。

 福島県沖を震源とする今朝の大きな地震がその前兆である可能性も否定はできなかった。

〝前の世界〟では東北の太平洋沿岸を巨大津波が襲い、あろうことか福島第一原子力発電所がメルトダウンに至る大事故を引き起こしてしまった。向こうではさまざまな偶然が重なって関東圏に人が住めなくなるような破滅的な被害は免れたが、しかし、〝今の世界〟での原発事故が果たしてそうした偶然に恵まれるかどうかは未知数だ。

 ――仮に被害がもっと甚大なものになってしまったら……。

 今朝の地震を経験して、功一郎はその危険性に初めて気づいたのである。

 パソコンの画面には今日の地震を伝えるヤフーニュースが表示されている。その画面を眺めながらしばし物思いにふけった。

 ――早く独立して、関西にも拠点を持っておいた方が安全かもしれない。

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白石一文(しらいし・かずふみ)

1958年福岡県生まれ。2000年『一瞬の光』でデビュー。2009年『この胸に深々と突き刺さる矢を抜け』で山本周五郎賞、2010年『ほかならぬ人へ』で直木賞を受賞。近著に『ファウンテンブルーの魔人たち』『我が産声を聞きに』。

◎編集者コラム◎ 『鴨川食堂しあわせ』柏井 壽
乗代雄介『パパイヤ・ママイヤ』