◇長編小説◇藤谷 治「ニコデモ 風は思いのままに吹く」連載第10回

◇長編小説◇藤谷 治「ニコデモ 風は思いのままに吹く」連載第10回
ついに、アンティヌッティとの契約に応じたニコデモは、そのまま彼女と一夜を明かした。

「ニコデモ 風は思いのままに吹く」連載一覧


 

 そしてベッドから起き上がって服を着終えた時から、ニコデモの生活は一変した。靴紐(くつひも)を結び終えてもいないうちからノックの音がして、三つ揃えの背広を着たやせぎすの男が入ってきたかと思うと、楽譜出版社の者だと自己紹介し、アンティヌッティと親し気に挨拶を交わした。楽譜出版社の男はニコデモの楽譜を見て驚嘆し、これは仏蘭西(フランス)じゅうで歌われることになるでしょうと褒めそやした。ただし前夜のアンティヌッティと同様、前奏と間奏が必要であること、表題と仏蘭西語の歌詞も重要であることをニコデモに向かって説いた。アンティヌッティは即座に立ち上がってピアノの前に座り、さらさらと安直な前奏と間奏を即興で作り上げ、ニコデモに採譜(さいふ)させた。男はその場で楽譜を浄書して会社に持ち帰り、作詞家に依頼して、楽譜を花売り娘と兵隊の恋の歌に仕立て、『花の歌』という題をつけて印刷に回した。自作の表題と歌の文句をニコデモが知ったのは、出版社の男から試し刷りを見せられた後だった。

 家庭用のピアノで伴奏し、令嬢が歌うために楽譜を売る時代は、とうに終わっていた。今や中流以上の家庭にはレコード再生機やラジオが普及しており、誰もが評判の音楽家の演奏を客間やカフェーで楽しんでいた。それでもアンティヌッティは、まず楽譜から売ることを選んだ。「フォルネウス」での新作披露もしなかった。楽譜の売れ行きは悪くないとニコデモは聞かされたが、アンティヌッティや楽譜業者の言っていたような評判にはなっていないようだった。ニコデモは安堵(あんど)と、秘かな不満足を覚えた。

 これがアンティヌッティの深慮遠謀だったとしたら、恐ろしい千里眼だった。若く無名な歌手が、頭角を現す機会を鵜(う)の目鷹(たか)の目で探しながら、楽譜店にやってくることを見越していたことになるのだから。ジュヌヴィエーヴ・アッレがその歌手だった。楽譜が売り出されて一週間と経たぬうちにアッレはニコデモを探して楽譜業者に問い合わせ、「フォルネウス」にやって来た。酔っぱらいや用心棒、半裸の踊り子たちやそのヒモの視線をものともせず、アッレは『花の歌』を歌いたいとニコデモに直訴した。とにかく歌わせてくれという願いをバレットの婆さんとアンティヌッティは聞き入れ、喜劇役者の歌と女たちの下品なカン・カンの合間に酔客を前にアッレは歌い始めた。アンティヌッティがピアノで伴奏をつけた。客たちはお喋りも女を口説くのも、ワインに口をつけるのさえ忘れて聴き入り、歌が終わると紳士のように拍手を送った。涙を流している客も少なくなかった。

『花の歌』はジュヌヴィエーヴ・アッレの持ち歌になり、アッレはカルチェラタンの小さなジャズクラブで毎夜これを歌った。たちまち評判になり、半年もしないうちにアッレはバスティーユのナイトクラブ「ヴァルハラ」に専属歌手として引き抜かれた。契約の条件としてアッレはニコデモをピアニストにすることを求め、ニコデモは「フォルネウス」と「ヴァルハラ」を毎日のように行き来するようになった。楽譜は飛ぶように売れた。

 そしておそらく、それは巴里で楽譜などという悠長な贅沢(ぜいたく)品が飛ぶように売れた、最後の機会であっただろう。年が改まると、人々は荒(すさ)んできた。欧州各国に対する独逸(ドイツ)の侵攻は凄まじく、仏蘭西も無傷ではいられないだろうと、人々は憂鬱に苛立(いらだ)っていた。戦争は避けられないだけではなく、欧州の自由と平和のためには戦争を避けてはならないと、人々は語り合っていた。音楽は求められており、アッレとニコデモに仕事は絶えなかったが、世間の出来事に恐ろしく鈍感なニコデモでさえ、客がかつてのように楽しんでいないのを感じた。客席に座った人たちは、目の前で照明を浴びている寸劇や裸体や歌声に、つかのま日々の憂さを忘れて大笑いしてやろうとさえ、もはや思っていなかった。彼らは押し黙ってただ舞台を見ていた。逃れるべき憂き世の辛苦は酒瓶の底まで滲(し)みこんできていたのだ。客は老人や流れ者、商売女ばかりになった。若い男たちは兵隊になって北へ運ばれていったとのことだった。

 それまでの生活では夢にも見なかった金が、ニコデモに入ってきた。食にも住まいにも欲のないニコデモは、入ってくる金を眺めているしかなかった。ただ服装だけは整える必要があった。『花の歌』の作曲者としてあちこちで名前が挙がり、上流階級の人々から食事や観劇に招待されたり、新聞記者の質問に答えるようになっていたからである。初めのうちは当惑していたニコデモだったが、やがて迎えの車に乗りこんだり、シャンデリアの下でシャンパンを飲んだり、人々に遠くから指さされることに慣れていった。楽譜の表紙に求められる署名の文字は、日を追うごとに装飾が多くなった。

 夏が終わり、戦争が始まった。独逸軍はポーランドに侵攻し、仏蘭西軍は国境に十五個師団を送った。今にも独逸軍がやってくるのではないか。巴里は怯(おび)えて瓦斯(ガス)マスクを備え、戦闘機から灯りが見えないように、重たい布のカーテンで窓を覆った。

「フォルネウス」は店を休むことになった。灯火管制のためでもあり、とうてい商売になどならないためでもあった。ニコデモにとっては好都合だった。交友が上品になっていくにつれ、あの下卑た店の仕事は邪魔になっていたのである。「フォルネウス」は暫時休業ということになっていたが、二度と開かれることはなかった。店を閉めた本当の理由に、ニコデモは気がつかなかった。ほかの誰が見ても、バレットの婆さんが逃げ出したことは明らかだったのに。彼女がユダヤ人であるのは見紛(みまが)いようもない周知の事実だった。

 独逸軍はいつまでたってもやってこなかった。それどころかどうやら、戦闘すらろくに起こっていないらしいという話が伝わってきた。「ヴァルハラ」に客が戻ってきて、映画館やパーティの余興にも呼ばれるようになった。年が明け、春になった。突如として独逸軍は国境を越えてきた。仏蘭西軍は鉄砲を構えたが、戦車の大群で攻めてきた独逸軍には敵(かな)わなかった。尾羽打ち枯らした兵隊たちが、汗と汚れで重たくなった軍服を着て何も見ていない目をただ開いて、裏町をぶらつくようになった。六月に巴里は空襲された。黒い戦闘機が腹から爆弾を落とすのを見た人もいた。破壊され爆風とともに飛んでくる煉瓦(れんが)や硝子(ガラス)に恐慌しながら、目の前で人が瓦礫(がれき)に押し潰されるのを見殺しにするほかなかった人もいた。戦争が目の前で始まっただけでなく、耳を疑うような報知がもたらされた。仏蘭西政府が巴里を離れ、トゥールに逃げ出したという。人々は荷物をまとめて南へ向かう列車に乗ろうと駅に押し寄せた。道路には自家用車やトラック、タクシーやバスがひしめきあい、南を向いたままぴくりとも動けなくなっていた。警笛や怒号、子どもたちの泣き声が人々の苛立ちをさらに募らせ、道の真ん中で燃料の切れた車の運転手は、後続の車から降りてきた男たちに殴られていた。

 ニコデモとアッレもまた巴里を離れた方がいいのではないかと考えた。劇場はもちろんカフェーもレストランも開いていないところにいても仕事のあてもなく、いずれ侵攻してくるに違いない独逸軍が、何をしてくるか判ったものではない。彼らが荷造りを始めようとしているところへ、アンティヌッティがやってきた。ほかの楽士たちはどこへ行こうと構わないが、アッレとニコデモはこの街を出てはいけない、再びホテルや劇場が開くまで待たなければいけないと、アンティヌッティは静かに主張した。

「巴里の劇場はもう開きません」アッレは言った。「独逸軍に取られてしまうか、爆撃を受けて破壊されるか、どちらかでしょう」

「彼らは巴里を破壊しません」アンティヌッティは落ち着いていた。「彼らはこの街に憧れてやって来るんです」

「しかし我々に憧れているわけじゃない」ニコデモは言った。「殺されるかもしれないじゃありませんか」

「そんなことにはなりません」アンティヌッティは知っていることを言うようだった。「あなた方はノートル・ダムやミラボー橋と同じ、巴里の名物なんですから」

 去る者たちが去り、残った者たちがうずくまるように扉を閉ざした金曜日の朝に、太鼓の音とオートバイのエンジン音、そして整然とした無数の軍靴が大通りに鳴り響いた。軍服に汚れのある者、ヘルメットの紐を外している者、表情に疲れの残っている者は一人もいなかった。兵隊たちは駅周辺の接収済みのホテルへ部隊ごとに次々と収まっていき、三色旗を外して鉤(かぎ)十字を掲揚した。

 すぐに食料などは配給制になった。食卓に肉料理が出る日は限られるようになり、どの家庭でも庭で野菜を育て始めた。ただでさえ食べ物が足りない上に、巴里の外では戦闘で農民たちが殺され、生き残った農民は独逸に連れ去られ、北部の鉄路では鉄橋が破壊され、畑の青菜と巴里の胃袋をつなぐ道は絶たれていた。食料に限らずすべてのものが凄まじい勢いで値を上げていった。


「ニコデモ 風は思いのままに吹く」連載一覧

藤谷 治(ふじたに・おさむ)

1963年東京都生まれ。2003年『アンダンテ・モッツァレラ・チーズ』でデビュー。主著に『いつか棺桶はやってくる』(三島由紀夫賞候補)、『船に乗れ!』(本屋大賞ノミネート)、『世界でいちばん美しい』(織田作之助賞)、『燃えよ、あんず』などがある。

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