◇長編小説◇藤谷 治「ニコデモ 風は思いのままに吹く」連載第11回

「私はすぐ行かなければなりません」アッレは言った。「伝言があります」
「元気だったのか」
そう言いながらニコデモは、この女が警察に尾行されたのではないかと恐れた。ことによると、ここに匿(かくま)ってくれなどと言い出しはしないか。
「少しも元気じゃありません」アッレは表情なく言った。「でも、ご心配なく。私のいちばん苦しい時は終わりました。伝言が終わったら、すぐに行きます」
「何を言っているんだ」
ニコデモはドアをさらに開き、アッレを部屋の中に入れた。女と鉢合わせしたら面倒なことになるかもしれないが、独逸人に見つかるよりはましだろう。
「伝言があるんです」アッレは廊下から動こうとしなかった。「これ以上、誘いに乗るのはやめなさい」
「君の言っていることは、ひと言も理解できない」ニコデモは笑おうとしたが、笑顔が作れなかった。「これから来る人のことを言っているのなら、彼女はただ、僕の肖像画を」
「あなたは音楽を、みずからの栄誉、利益、盛名のためにもちいないと誓いました。それは天上のためにあるものなのに」
ニコデモは凍りついたようにアッレを見つめたまま動かなくなった。
「あなたにも判るでしょう。あの音楽はただ、人々の心を慰めるだけのものではありませんでした。かつてあの音楽は、冬に春風を届け、荒地に実りをもたらし、あなたや、あなたにあの音楽を教えた人を、窮地から救ったのです。今やあの音楽にそんな力はありません。あなたがあの音楽の力を、いくらかの金に換えてしまったのです。その金の上にあなたは今、腰をおろしているのです」
ニコデモの脳裏に一瞬、坊主頭の少年の姿が浮かんだ。しかしそれは閃光(せんこう)のようにたちまち消えてなくなった。
「あなたは誘いに乗ってしまった」アッレは言った。「飲むべきでない酒を飲み、忌むべき契約に署名してしまった。そしてあなたは音楽を、栄誉と利益と盛名のためにもちいてしまった。その代償にあなたが何を支払っているかも気づかずに」
「僕が何を代償にしているんです」
「あれの嘲笑です。あれは永遠にあなたをあちこちへ転がして、もてあそび続けようとしているのです。撞球(どうきゅう)の玉のように」
「あれとは何です」
「あなたに酒を飲ませ、契約に署名させた、あれです。あれはめったにあなたのそばを離れないから、今夜のようにあなたが女性と逢う時を選ばなければなりませんでした」
「君はデ・デのことを言っているのか」
「あの女がなぜデ・デと呼ばれているか、あなたは知りもしないで彼女をそう呼んでいる。デ・デとは Dea Diabolos、女神の悪魔ということです。みんな知っているんです、彼女が何かを」
「確かに彼女には、それくらいの能力と魅力がある」ニコデモは言った。「しかし文字通りの悪魔ってわけじゃないでしょう」
まぜかえそうとするニコデモの言葉を、アッレは聞いてもいないようだった。
「私にはあれに打ち勝つ力なんかない」アッレは言った。「だからあれが来る前に、私は行かなければなりません。伝言が残っています」
「いや、待ってくれ。待ってくれ」
「あなたが音楽で手に入れたものを、今すぐすべて捨てなさい。そして元いた場所に戻りなさい。さもないと」
「すべてだって?」ニコデモは目を開いて、アパルトマンの中を指さした。真面目に取り合える話ではなかった。「このすべてを、今すぐにだって?」
「そうです」
「そんなことは無理だ」ニコデモは叫んだ。「それに元いた場所というのはどこです。ピリエに戻れと言うのですか。まさか、日本のことではないでしょう」
「時間がないのです」
アッレには、ニコデモの動揺などまったく伝わっていないようだった。終始無表情で、ただその瞳だけが強く訴えかけていた。
「私たちはこの世界で勝利したことがありません。しかしこれほどの敗北はかつてないことです。あなたの栄誉と利益と盛名は、敗北している私たちを踏みにじって、彼らの勝利に乗じたために得られたものです。そのすべてを今すぐに捨てて、元いた場所に戻るのでなければ、取り返しのつかないことが起こります。あなた一人が苦しむのではないのですよ。そうなったら私たちには、どうすることもできない。あなたは一人で償いを続けなければなりません、この世界であなたが、再び音楽を奏でるまで」
「取り返しのつかないこととはなんです」不可解な言葉が続いて、ニコデモは苛立った。「償いとはなんです。再び音楽を奏でるとは」
「今すぐすべてを捨てるのでなければ、もうあなたは音楽を奏でることはない」アッレは言った。「だから、今すぐ音楽で得たものを捨てて、元いた場所に戻りなさい」
「そんなことはできない」ニコデモは言った。「音楽で得たものを捨てれば、僕は何もかも失ってしまう」
「それでも、あの音楽が最後の力を失うよりはましです。取り返しのつかないことが起こります。音楽で得たものを捨ててください、今すぐに」
「いやだ!」ニコデモは叫んだ。
「もう一度だけ言います。音楽で得たものを捨てなさい」
「何度訊(き)かれても、答えは同じだ。僕は捨てない」
アッレはニコデモを見つめた。
「あなたは音楽に見離されました」アッレは言った。「償いが成就される時まで、あなたは再び音楽に出会うことはありません」
その時アパルトマンのドアベルが鳴った。ニコデモは思わず音のした室内に目をやり、すぐまたアッレに向き直ろうとした。だが今廊下に立っていたアッレの姿は、どこにもなかった。
もう一度ドアベルが鳴った。画家が来たのだろうとニコデモは、首をかしげながらドアを開いた。しかし上がってきたのは画家ではなく、アンティヌッティだった。
「誰か来たの」
濃い緑色のコートのボタンをはだけて、腰に黒くて細い革のベルトをつけた紫のワンピースの中で太腿の線をあらわにしたアンティヌッティは、混迷から解放されていないニコデモにとって、驚くほど官能的に見えた。
「女が」
ニコデモは自制してそう答えた。アッレが来たなどと言えば穿鑿(せんさく)されるだろう。たった今消えうせたばかりだなどと言えばなおのことだ。
「そう?」アンティヌッティは訝(いぶか)しげにニコデモを見た。「あの絵描きの女の子は、来られなくなったみたいだけれど」
「何があったの」ニコデモは知らないうちに、アンティヌッティの様子をじっと見つめていた。
「さあ」アンティヌッティは肩をすくめた。「そんな話を、さっき小耳に挟んだだけ。ユダヤ人なんですって」
こともなげなアンティヌッティの口調にも、ニコデモは冷たい欲情を覚えた。
「なんでも知ってるんだね」ニコデモは言った。「今までいた女も、誰だか知ってるんじゃないか」
アンティヌッティは答えず、ただ肩をすくめた。
「アッレだよ」ニコデモはそう言って、アンティヌッティの様子をうかがった。「ジュヌヴィエーヴがさっきまでここにいたんだ」
「まさか」アンティヌッティはそう言って不意に言葉を切り、にやにやと笑った。
「まさか?」ニコデモは笑わなかった。「どういうことだ、まさかとは」
「なんでもない」
「まさかっていうのは、そんなことはありえない、っていう意味だ」ニコデモは言った。「彼女がここに来られるわけがないって、君は知ってるんだ」
「隠してたわけじゃないの」アンティヌッティは言った。「私もさっき知ったばかりよ。そのために来たんだもの」
「何があったんだ。君は何を知っているんだ」