◇長編小説◇藤谷 治「ニコデモ 風は思いのままに吹く」連載第11回

◇長編小説◇藤谷 治「ニコデモ 風は思いのままに吹く」連載第11回
独逸軍の侵攻により、巴里は風前の灯。ある晩、ニコデモは思わぬ人物の来訪を受ける。

(なぜこんなものを僕は見ている?)

 男の苦しむ姿は長く、呻いて震え、目を見開いたりまたぎゅっとつぶったり、骨の浮き出た胸で弱々しく呼吸したり、口の中で何かを呟いたりするのが、何度も繰り返されるばかりだった。一度だけ、くたびれ果てた様子の看護婦がやってきて、男の頭をあげ、小さな水差しで水を飲ませた。こぼれた水が襦袢に染みていった。

 看護婦が去ってからも、男の口はぱくぱくと動いていた。だんだんと呻くこともできなくなってきたのかと、ただ見ているだけのニコデモは思った。だが男は呻いているのではなかった。

 男は歌を歌っていたのだ。

 
 花よ
 花、咲けよ
 花は
 

 息をするのさえ苦しい中で、男は懸命に歌い続けようとした。だがそこまでだった。身体のどこかから襲ってくる痛みに、男は唇を嚙(か)んだ。苦しみの長い時間が過ぎ、男の目が見開かれた。

 
 花よ
 花咲けよ
 花は
 花咲くもんだなし
 

 苦しんでいるこの日本兵は、ニコデモが会津(あいづ)から新潟までをともに旅した、あの小僧だった。

 ニコデモは全身で叫んだ。男に駆け寄って抱きしめなければいけないと思った。だが声は響かず、身体は動かなかった。

 ようやくニコデモは悟ったのだ。取り返しのつかないこと。自分一人が苦しむのではないこと。かつて自分や、自分にあの音楽を教えた小僧を、窮地から救ったあの音楽に、もはやその力が失われていること。自分があの音楽の力を、いくらかの金に換えてしまったこと。

(待ってくれ!)ニコデモは声にならない声で叫んだ。(違うんだ! そうじゃない、僕は知らなかったんだ。もう判った! やめてくれ!)

 男はもう歌えなかった。けれども唇は動いていた。その唇がどんな声をあげようとしているか、その声に託しているものがどんなに切実か、知っているのはこの世にニコデモただ一人だった。

(俺がこいつをこんな目にあわせたわけじゃない。戦争のせいだ)ニコデモは無理にもそう思おうとした。(歌を歌って人の命が助かったためしはない!)だがそんな強弁は気休めにすらならなかった。身動きのできない自分が、全身を鎖で縛りつけられているように思えた。

 暗かったその部屋の中が、いっそう暗くなっていった。ただなぜかニコデモが見つめている男の顔だけが、月明かりのような淡い光に照らされていた。呼吸する胸の動きは弱くなり、しかし不意に大きく息を吸いこむこともあった。唇は動き続けていたが、もう声は出ていなかった。

 長い時間の果てに、男は目を瞑(つむ)り、長く弱々しい息をひとつ吐いた。もう動かなかった。誰も見ていなかった。ただニコデモと、どこからか射してくる光だけが男を看取(みと)った。

 それからすべてが暗闇になった。

 暗闇の中に厭(いや)な臭気が漂いはじめた。ニコデモは全身を汗で濡らしながら目を覚まし、身体を起こすと、よろよろと歩いて窓を開いた。晩秋の爽やかな冷気が部屋の中に満ちた。ニコデモは窓枠に両手をついてうなだれ、こみあげる吐き気を懸命にこらえた。

「夢だった……夢だった……」

 声に出して自分に向かって言い聞かせても、あの男の苦悶(くもん)は脳裏から拭うことができなかった。耳にあの男の歌声が、目にぱくぱくと弱く動いていた唇の動きがこびりついていた。突っ伏していると、涙が胸を射貫くようだった。ニコデモは浴室に駆け込み、ざぶざぶと頭から水をかぶった。せめて外見だけでも冷静に見えるように振る舞えればと思ったが、鏡に映ったのは憔悴(しょうすい)しきった自分の裸体だった。前日のうちにメイドが用意した、まっさらな白いシャツに白いズボンをまとっても、気分は少しも晴れなかった。

 デ・デはどうしただろう。ニコデモはそれまでアンティヌッティのことをすっかり忘れていた。浴室を出て寝室に戻ると、そこには何か黒い灰のようなものが、ちらちらと風に舞っていた。ニコデモはベッドを覗きこみ、そこにあるものを見て絶叫した。

 それは死体とはいえないものだった。ミイラですらなかった。そこに横たわっていたのは、黒くて細長い消し炭のようなもの、かろうじて人間の形をしている真っ黒な灰の塊だった。枕の上に広がった蜘蛛(くも)の巣のような金髪と、笑っているような剝き出しの白い歯は、それがまぎれもなく昨夜まで抱擁していたガブリエラ・アンティヌッティの肉体であることを示していた。窓から風が吹き込むと、黒い塊から少しずつ灰が剝がれて、部屋の中を舞うのだった。灰は次第に量を増して部屋中に漂い、風にあおられて細かい塵(ちり)となり、やがて窓の外に流れ出て、陽光の中で消えていった。

 ニコデモは床に尻をつき、言葉にならない声で絶叫しながら必死で灰を払い、殴られた子どものように絶叫し続けた。

(つづく)
連載第12回


「ニコデモ 風は思いのままに吹く」連載一覧

藤谷 治(ふじたに・おさむ)

1963年東京都生まれ。2003年『アンダンテ・モッツァレラ・チーズ』でデビュー。主著に『いつか棺桶はやってくる』(三島由紀夫賞候補)、『船に乗れ!』(本屋大賞ノミネート)、『世界でいちばん美しい』(織田作之助賞)、『燃えよ、あんず』などがある。

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