◇長編小説◇藤谷 治「ニコデモ 風は思いのままに吹く」連載第12回

◇長編小説◇藤谷 治「ニコデモ 風は思いのままに吹く」連載第12回
悪夢のような一夜、ニコデモはある人物を幻視する。それは、かつての小僧、鈴木正太郎の最期だった。

 来る日も来る日も重苦しい天から雪の降り続く中に、それが天だとばかり思っていた雲が切れて青空から日が射す半日、あるいは一日がある。そんな時、清春は哲次と一緒に店の用足しを済ませると、村のはずれの凍った沼のほとりに寄り道することがあった。畑の上に積もった新雪に足を取られながら、雪だるまを作ったり雪玉を投げ合ったりして遊び、くたびれると身体から湯気を上げながら濃い灰色の氷に覆われた沼を前に並んで腰をおろした。哲次にとって清春は生真面目で一本気な兄だった。海軍に入って軍艦に乗りたいと思っていることは知っていたが、弟にそういう話をすることは滅多になかった。清春自身も本物の軍艦を見たことはなかった。二人が見たことのあるのは馬とか牛とか、山とか、鍬(くわ)や橇を使って働いている大人たち、それに雪と氷ばかりだった。海さえ知らなかった。立派な詰襟の軍服を着て軍艦に乗って大海原に乗り出し、米軍の艦隊に向けて大砲を撃ちこむ姿を、清春がニュース映画を思い出しながら夢想しているのを、哲次はよく知っていた。

 しかし晴天の下に凍(い)てついた沼を前にした時の清春は、そんなことをひと言も語りはしなかった。弟と笑い合いながら、実のある話もしなかった。

 その代わりに弟の横で沼と青空を見つめながら、歌を歌った。

 
 花よ、花咲けよ、花は花咲くもんだなし。
 ・・・・・・・・・・・・・・・
 

 お父っさんが口ずさんでいた歌を、清春は晴れた日に、哲次しかいないところでだけ歌った。哲次も覚えている、おかしな節の歌だった。けれども哲次は一度も、一緒になって歌ったことはなかった。兄貴と声を合わせようと口を開くと、決まって涙声が出そうになってしまうから。

 

 横浜の平沼(ひらぬま)に住んでいた老夫婦のもとへ、荷物が届いた。横二尺縦一尺ほどの木箱で、どこの国のものとも判らない消印や何かの貼り紙、それに検閲印が捺(お)してあり、差出人の名前は西洋の文字で書かれていた。

「あの子からですよ」

 老妻は目を潤ませて夫を見た。

「開けなくていい、そんなもの」

 老いた夫はそう言ったが、妻は開いた。

 西洋の大判の楽譜が、びっしりと詰めこまれていた。どれも使いこまれた跡が残っていて、表紙がよれていたり、頁(ページ)の右上が折れて黒ずんでいたりした。

 老婆は涙をこぼしながら、一冊一冊、箱から取り出していった。

「なんでそんなもんが届いただろう。このご時世に」

 夫は独り言のように言った。

 木箱を空にして、老婆はため息をついた。手紙を探していたのだ。楽譜をもとに戻そうとしてふと思いつき、老婆は楽譜の背表紙を持って、ぱらぱらと振ってみた。手紙が中に差し挟まれているかもしれないと思ったのである。

 すると、楽譜の中でもとりわけ大部な、ベエトオヴェンのソナタの一冊から、重たい紙包みがぼとりと畳の上に落ちた。老いた夫はその音を聞いて寄ってきた。しかし、

「読まなくていい、そんなもの」と言った。

 紙包みは固く糊付(のりづ)けしてあって、老婆は剃刀(かみそり)で慎重に封を開いた。中には綿が詰まっていて、綿の中にはきらきらと輝く、大きな金貨が二十枚入っていた。

 老婆はさらに綿を探って、肩を落とした。手紙はなかった。残りの楽譜を丹念にめくってみたが、無駄だった。

 楽譜にはところどころ書き込みがあった。仏蘭西(フランス)語らしく、老婆には読めなかった。それでもそれは、息子の書き文字だった。老婆はその文字を指で撫でた。

 老人は金貨を紙包みの中に戻し、それを手に持ったまま、黙って思案していた。

「これも一緒に持って行きましょう」老婆が言った。

「持って行けるもんか、そんな重いもの」老人がそう言うと、

「持って行きます」老婆はきっぱりと答えた。夫婦になって、初めて夫に歯向かったのだった。「ほかのものと一緒に、長野に送ります」

 老夫婦は老婆の妹の嫁ぎ先を頼って、信州の元善町(もとよしちょう)に疎開することが決まっていた。荷造りもあらかた終えて、数日後には汽車に乗ることになっていた。

「何もかも持って行くわけにいかないだろう。金もかかるし」

 妻の反抗に驚いた老人がそう言っても、老婆は、

「お金ならそこにあるじゃありませんか」と言って譲らなかった。「郵便にできないなら、私が長野まで背負って行きます」

 楽譜はほかの荷物と共に信州へ運ばれた。

 老夫婦が元善町の屋敷の離れで窮屈な暮らしを始めてから一年ほどすると、横浜はひどい空襲を受け、もと住んでいた平沼も焼け野原になった。ほどなくして戦争が終わり、物価が高騰した。新円切り替えが行われると、それまで失意の中にあった老人は、実業家としての熱意を取り戻した。二十枚の金貨が純金であるのが明らかになると、老人はそれを元手に土地を買い、事業を始めた。

 老夫婦は信州に並ぶものなき分限者(ぶげんしゃ)となって、天寿を全(まっと)うしたということだ。

 だが老婆は最期まで、あの時に送られてきた楽譜の書き込みの文字を撫でていた。目が見えなくなってからも、老婆にはどの頁のどこにどれくらい我が子の文字があるか、すべて判っていた。

(つづく)
連載第13回


「ニコデモ 風は思いのままに吹く」連載一覧

藤谷 治(ふじたに・おさむ)

1963年東京都生まれ。2003年『アンダンテ・モッツァレラ・チーズ』でデビュー。主著に『いつか棺桶はやってくる』(三島由紀夫賞候補)、『船に乗れ!』(本屋大賞ノミネート)、『世界でいちばん美しい』(織田作之助賞)、『燃えよ、あんず』などがある。

◇長編小説◇藤谷 治「ニコデモ 風は思いのままに吹く」連載第11回
◇長編小説◇藤谷 治「ニコデモ 風は思いのままに吹く」連載第13回