◇長編小説◇藤谷 治「ニコデモ 風は思いのままに吹く」連載第13回

◇長編小説◇藤谷 治「ニコデモ 風は思いのままに吹く」連載第13回
ことの顚末を悟ったニコデモは、漂白する魂にその肉体を運ばれて、思わぬ場所に辿り着く。

「ニコデモ 風は思いのままに吹く」連載一覧


 椰子(やし)の葉ずれ、鳥の羽ばたき、猿の咆哮(ほうこう)といった遠い音は、もう耳慣れてしまって、聞こえていても無音と同じだった。聞くべき音、聞こえてこなければならない音、聞こえてくるのを待っている音は、どこからもしてこなかった。三月とは思えない湿気の中で、誰もが弛緩(しかん)していた。

 ナリタ・セッシュウ── Narita Scessue ──は午前の歩哨(ほしょう)を終え、宿舎の中庭に置かれたベンチに腰かけて昼食を搔きこんだ。テーブルを挟んだ向かい側では、ウィルがいつものようにもぞもぞと小説本を声に出して読んでいる。その声もまた、兵士たちにとってはただ、耳に入ってくるだけの音だった。

 ウィルも人に聞かせるために朗読をしているわけではなかった。ハンブルクの港湾労働者の息子だったウィルは、仏蘭西語がいつまでたっても心もとないと言って、セッシュウに自分の発音を聞かせ、おかしなところがあれば直してもらいたがった。部隊の中にはベルギイ人や瑞西(スイス)人、仏蘭西人さえいくらでもいるのに、わざわざ日本人のセッシュウに仏蘭西語を習おうとしているのは、おかしな話だった。それはウィルにも判っている。彼はただ、セッシュウの近くにいるための口実に、仏蘭西語の小説本を使っているだけなのだ。

 アルジェリアからこの仏印にセッシュウを連れてきたのもウィルだったし、そもそも彼がセッシュウに出会ったのもアルジェリアだった。砂漠の中に有刺鉄線を張り巡らせた駐屯地にセッシュウが配属されたその日から、ウィルはこの表情に乏しい東洋人にしつこいほど話しかけ、慣れない生活を手助けした。セッシュウは彼の厚意を黙って受け、時には笑顔で感謝した。やがてウィルはセッシュウの寝ているベッドに潜りこんできて、猛(たけ)り立った股間を背中に押し付けるようにまでなった。セッシュウはしばらくされるがままになっていたが、それ以上を求めてズボンの中に手を入れてきたウィルに振り返ってはっきりと拒絶した。狂暴になるかもしれないと恐れたが、ウィルは素直に手を引っこめただけでなく、判ったよ、君の嫌がることはしない、僕を許してくれ、男にこんな気持ちになったのは初めてなんだと涙声で答えた。しかしそれからもウィルはしばしばベッドに入ってきて、セッシュウのシャツの背中を臭く湿らせた。ウィルがあからさまな執着を示したために、他の兵士や上官たちからセッシュウは護(まも)られているのでもあった。筋骨たくましく大柄なウィルは、華奢(きゃしゃ)なセッシュウよりもずっと無垢(むく)な少年の顔をしていた。

 ウィルが何度尋ねても、セッシュウは入隊以前の身の上を語ろうとはしなかった。セッシュウがそれまでの自分を語ったのは、徴兵所の担当官に対してだけだった。Scessue という名前を彼に付けたのも、同じ担当官だった。本名の姓と同じ頭文字でなければならないのだが、日本人らしい名前でSから始まるものといえば、映画俳優のセッシュウ・ハヤカワしか思いつかなかったのだ。「セッシュウ」は姓というよりむしろ名ではないかと思ったが、名付けられた男は黙っていた。担当官は名のほうはとうとう考えつかなかったらしく、Nari でどうだと尋ねてきた。男は Narita がよいと答え、新しい名前が決まった。姓が名のようであるなら、名を姓のようにすればいいと、とっさに思ったのでもあったし、「セッシュウなり」ではあまりにも滑稽だと感じたからでもあった。もっとも男にとっては、新しい名前が滑稽であろうとどうであろうと、本当は構わないはずだった。もとの名前を捨てられれば、何でもよかった。

 徴兵所を訪れる前に、男はすでに自分の持っていたものをずいぶんと捨てて来ていた。身の回りにあったものは殆(ほとん)ど売り飛ばしてしまい、すべてをまとめると、その金を二十枚の金貨に換えた。男はそれを一束の楽譜の中に隠し、木箱に収めて両親のもとへ送った。あとにはいくばくかの小銭と身分証明書、それにその時身にまとっていた服と靴だけが残った。男はそれだけを持って、巴里(パリ)のはずれの徴兵所へ向かった。

 レジオン・ネトランジェレのことを、男はどこで聞いていたのだったか。働いていたキャバレーの客からだったか、バンドの西班牙(スペイン)人楽士が辞める時だったかもしれない。当時は自分に関わりのあることとも思わなかったので聞き流していたが、それでもそこが仏蘭西軍でありながら国籍不問で兵士を募集している部隊であり、そこでは強制的に名前を剝奪され、それまでの経歴も所持品も没収されて、まったくの別人として生きることを求められるという話は耳に残った。今やそれは、男がこの世にただ一つ求めていることだった。すべてを剝ぎ取られ、今とはまったくの別人になるということが。

 平時であれば男のような弱々しい体軀(たいく)の持ち主など、相手にもされなかっただろう。だが独逸(ドイツ)にくみしていた仏蘭西政府は瓦解しつつあり、自由仏蘭西軍は植民地を守るために兵隊を求めていた。犯罪歴がなく、病気を持たず、仏蘭西語に堪能であることが確かめられると、男はただちに他の屈強な男たちと共にトラックに乗せられ訓練所に連れて行かれた。財布や身分証を没収され、下着と制服を支給された時には、男はもうナリタ・セッシュウだった。

 走るのが速く、二十分ほどならさして速度を落とすこともなく走れるのには自分でも驚いた。整列や敬礼もすぐに覚えた。しかし腕力はまるでなかった。懸垂で身体を持ち上げられず、指導官に背中を棒で殴られた。健脚も重いものを担ぐとまるでだらしなくなった。匍匐(ほふく)前進をしていると、顔に泥団子をぶつけられた。泥まみれになった顔に張り手が飛び、口の中が血だらけになった。同じような制裁を受けて、耐えきれずに逃げ出す者も少なくなかった。

 無線機の操作、応急救護、そして小銃や手榴弾(しゅりゅうだん)の扱いを、短期間のうちに習得しなければならなかった。セッシュウは頭を使うことはできても、実際に銃を構えると身体が震えた。毎日果てしなく殴られ、罵倒された。それでもセッシュウの表情が大きく変わることはなかった。筋肉は鍛えられたが、射撃の腕は上がらなかった。そのままアルジェリアに配属され、輸送補給を担当した。アフリカ北部では枢軸国軍との大きな戦闘の果てに数百名の兵士が殺され負傷兵も多く、歩兵連隊が編制し直されたばかりだった。疲弊しきってぼんやりしている者や、逆に興奮し常に息が荒く涎(よだれ)まで垂らしている兵隊の中で、新参者たちは狼狽(ろうばい)を押し隠さなければどんな陰惨な扱いを受けるか判らなかった。着任して間もなくウィルにまといつかれたセッシュウは運が良かった。苛立(いらだ)った古参兵たちにちょっかいを出されても、ウィルが彼の前に立ちはだかってくれた。セッシュウは感謝したが、その言葉と態度は、落とし物を拾ってくれた時の感謝と大差はなかった。

 アルジェリアでは戦闘がなかった。枢軸国軍は降伏していた。伊太利(イタリア)は休戦した。しかもセッシュウたちが派兵されてから少しすると、連合国軍がノルマンディから仏蘭西に上陸したという報知が届いた。残っているのは北アフリカに侵攻してきた独逸軍だけだった。

 大量の捕虜を収容するのは仏蘭西軍の役目だったので、多国籍の部隊は下働きのようなものだった。セッシュウは港から本部や各駐屯地をトラックで往復する日々を送った。日増しに増えていく徴兵されたアフリカ人に仏蘭西語を教える任務も与えられた。アルジェリア人兵士たちは戦うために仏蘭西本国に送られた。


「ニコデモ 風は思いのままに吹く」連載一覧

藤谷 治(ふじたに・おさむ)

1963年東京都生まれ。2003年『アンダンテ・モッツァレラ・チーズ』でデビュー。主著に『いつか棺桶はやってくる』(三島由紀夫賞候補)、『船に乗れ!』(本屋大賞ノミネート)、『世界でいちばん美しい』(織田作之助賞)、『燃えよ、あんず』などがある。

◇長編小説◇藤谷 治「ニコデモ 風は思いのままに吹く」連載第12回
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