◇長編小説◇藤谷 治「ニコデモ 風は思いのままに吹く」連載第2回

◇長編小説◇藤谷 治「ニコデモ 風は思いのままに吹く」連載第2回
旅の途中、ニコデモは、同行していた少年を船着き場で見失ってしまう。途方に暮れた彼はある行動をとった。

「ニコデモ 風は思いのままに吹く」連載一覧


 とうとう半ば常軌を逸したニコデモは、船着き場に積み上げられた大きな木箱の上によじ登り、たったひとつ残された小僧の形見を歌い始めた。

 花よ、花咲けよ、花は花咲くもんだなし。
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 ニコデモは純粋に歌った。自分が音楽の才に秀でていることも忘れ、人前で高歌放吟する恥ずかしさも、小僧の歌に珍しい美しさを覚えたことも離れて、無心に歌い続けた。

 すると海の向こうが一面の靄(もや)に覆われた。道行く幾多の人々は皆、ほうけたようにぶらぶらとなり、あたりが花々で満たされ、音という音が消えうせた。海上の雲が分かれて光が射しこみ、そこから色とりどりの薄い衣を纏(まと)った十六人の女がゆっくりと近づいて来て地上に降りた。

 女の一人がニコデモに告げた。「あなたの音楽は愛されました。願いは聞き届けられましょう」

 ニコデモは畏(おそ)れて身体(からだ)を動かすこともできなかった。

「あなたの音楽はまことの音楽、まことの美です。まことの美はすべて天上に属するものです。あなたは天上に愛されました。あなたの願いを聞き届けるかわりに、これからのあなたは、みずからのために音楽をもちいてはなりません。みずからの栄誉、利益、盛名のために音楽を奏でることはなりません。それを誓いますか。誓えばあなたは、天上にあなたの座を得ることになりましょう」

 ニコデモは答えた。「誓います。私はもっとも貧しい、もっとも惨めな一粒の砂に過ぎません。しかしそれでも私は、天上の美に奉仕する者です。向後けっして自分の栄誉、利益、盛名のために、自らの音楽を用いないと誓います」

 その言葉を聞いて十六人の女は頷き、ゆっくりと天上に消えていった。雲が閉じ、花々はいつの間にか消え、人々は今の光景を驚きながら語り合い、遠く近くからニコデモを指さしていた。

 近くにいた商人が言った。「素晴らしい歌声だ。ぜひもう一度私のために、今の歌を歌ってください。ここにある金をすべて差し上げましょう」

「歌いません。私は誓いを捧げました」ニコデモは答えた。

 もう一人の商人が言った。「では私のために歌ってください。たった今、船からおろした積み荷をすべて、あなたの蔵に納めます。蔵がなければ作りましょう」

「お志はありがたいが、私は利益のために歌うことはありません」ニコデモは答えた。

 また別の商人が言った。「私の家にいらっしゃいませんか。嫁入り前の娘がおります。あなたがただ一曲歌ってくだされば、お礼に娘を差し上げましょう」

「あなたの娘さんは私の音楽の対価ではなく、私の音楽は娘さんの対価ではありません。私が求めるものはほかにあります。それは間もなくかなえられるでしょう」

 すると大きな船の船着き場からおおい、おおいと大声をあげ、手を振る小僧が見えた。ニコデモが駆け寄ると、小僧は真っ白な西洋の婦人と手をつないで笑っていた。ニコデモは思わず小僧を両腕で抱きしめた。

「あなたはこの子のお兄様ですか」

 と、婦人は西洋語で尋ねた。ニコデモは津川(つがわ)の宿帳を思い出さないではなかったが、ここでは人を欺くべきでなく、またその必要もないと思い返して答えた。

「いいえ。ただこの子の親戚から旅の同伴を頼まれただけです。私は東京の学生です」

「そうですか。それで私は理解しました。この子は私の船に来ました。そしてお願いをしました。彼はたった一人で私の船に乗ろうとしているのです。小樽(おたる)にどなたかがいるらしいのです。その人に彼は会いたいのです。彼には船が必要です。そして私はそれを許可しようと思います。もし、この子の願いが正当なものであるのなら」

 ニコデモはまず、小僧を連れ戻してくれたことを感謝し、これまでの事情を婦人に語った。小僧の事情まで包み隠さず打ち明けたことで、おのずから小僧がこの港へ来た目的も語ることになった。婦人は複雑なその話を注意深く聞き終えると、大きく頷いて言った。

「理解しました。私の船は神戸から来ました。そして明日の朝に函館へ向かいます。それから小樽に行きます。小樽から私の国へ帰ります。私の船はとても大きいのですから、この子を乗せるのは造作もないことです。あなたは今だけこの子の親のようなものですね。どのようにお考えですか」

 ニコデモは答えた。「そうしていただけるなら非常にありがたいと思います。こんなにも都合よく、小樽行きの船が見つかるとは思いませんでした。お礼は充分にいたします」

「ではそのように」

 小僧はことの次第をすっかり呑(の)みこんだ様子で、嬉しそうにニコデモの手を引っぱって、婦人の船まで連れて行った。客船を少し小ぶりにしたばかりの、洋館のような船だった。船長と船員、それに老執事が婦人を迎えた。彼らに指示を与える婦人の言葉は、ニコデモの知らない国のものだった。

 階段を上がると廊下の両脇に扉が四つあり、手前の一室が小僧に与えられた。ようよう役目を終えたニコデモは、嬉しそうに寝台に腰かけた小僧に言った。

「小樽に着いたら会津(あいづ)に手紙を書くんだぞ。必ずだぞ。僕も書くから」

「旦那さん、ありがとなし」

「小樽にお父さんがいなかったらどうする。知り合いはいるのかい」

 


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藤谷 治(ふじたに・おさむ)

1963年東京都生まれ。2003年『アンダンテ・モッツァレラ・チーズ』でデビュー。主著に『いつか棺桶はやってくる』(三島由紀夫賞候補)、『船に乗れ!』(本屋大賞ノミネート)、『世界でいちばん美しい』(織田作之助賞)、『燃えよ、あんず』などがある。

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