◇長編小説◇藤谷 治「ニコデモ 風は思いのままに吹く」連載第2回

◇長編小説◇藤谷 治「ニコデモ 風は思いのままに吹く」連載第2回
旅の途中、ニコデモは、同行していた少年を船着き場で見失ってしまう。途方に暮れた彼はある行動をとった。

「ととさまと開拓に出た、会津の組の者がよっぱいるなし」

「そうか。それならいい。元気でな」

「ありがとなし」

 小僧は頭を下げながらも、うつらうつらしていた。ニコデモが廊下に戻ると、婦人は斜め向かいの部屋の前に立っていた。

「こちらです」

「いや、私は小樽へは行きません。ここで宿を見つけます」

「私の船は新潟を明日の朝に出ます。船は今夜どこにも行きません。あなたはここに泊まりましょう。あなたは言いました」

「私はここに泊まらせていただくなどと、申した覚えはありませんよ」

「あなたは言いました。お礼は充分にいたします」

 婦人は微笑(ほほえ)んで扉を開いた。諸国への旅のうちには、このようなこともたまさかあった。ニコデモは婦人の部屋に招じ入れられた。

 すでに別れの言葉を交わした小僧と再び顔を合わせるのは気まずかったので、夜の明けきらぬうちにとニコデモが服を着ていると、婦人が引き留めた。

「このまま私の国に行きますか。私と共に暮らしますか。船の外はこの世、地獄の嵐です」

「判(わか)っています。しかし私は家に戻り、あらためて旅に出なければなりません。このままあなたの国になど行けば、私の行方を知る者は誰もいなくなります。親はさぞ恐ろしく思うことでしょう。世界中を探さなければならないのですから」

「あなたが私の船を出てしまえば、私とあなたは二度と再び会うことはできなくなるでしょう。私は哀しい」

「それは私にとっても身を切るより辛いことです。手紙を書きましょう。私は日本を離れてピリエの国に行きます。親元を離れれば、私は自由になるかもしれません」

「私の国は日本から遠く、ピリエからも遠いのです。このまま私の船に乗っていれば、きっと幸せになります」

「その幸せから私は遠ざからなければならないのです。私の求めることではありません。あなたはただ、私に充分なお礼を求めているだけだと思っていました」

「昨夜の私はそうでした。今の私は違います。こんなに悲しい報いを受けるのなら、お礼など、この海に捨ててしまうべきでした。あなたにもう一度会えるでしょうか。私はただそれだけを求めています」

「きっと会えます。私もまたあなたに会いたいのですから」

 婦人はニコデモを抱擁する腕を離そうとしなかった。夜着を涙で濡らしている婦人は、怒り、難じているように見えた。

「あなたは会いたいと言って、しかし私の名前を尋ねません。あなたの名前を教えてもくれません」

「私の名前はニコデモです」

「私の名前はリリスです」

 リリスは夜着のまま乗船口までニコデモを見送った。ニコデモは上野行きの切符を買うと、汽車が来るまで待合所で眠り続けた。

 

 帰郷したニコデモは再び自室で勉学に励み、六月二十日に横浜から出航する船に乗った。亜細亜(アジア)諸港を巡って赤道に迫り、ラッカディブからこの世に海のほか何物も残されていないかのようなアラビア海を渡り、阿漕(あこぎ)な商売と敬虔(けいけん)な回教の祈りの同居する中東を通り抜け、運河から眩暈(めまい)のする地中海に至り、欧州列強国に挟まれたピリエ国の港に到着したのは、それから七週間ののちのことであった。

 小さな湾に各国大小の船が犇(ひし)めき、湾を見下ろす小山の頂上には、希臘(ギリシア)神殿を彷彿(ほうふつ)とさせる巨大なエンタシスの柱(ピリエ)が聳(そび)えていた。太古にはパルテノンにも劣らぬ大伽藍(がらん)が建立されていた山が神の怒りに触れて海中に没し、聖者のしがみついた一本のみ残されたというその柱は、とうてい人のしがみつける程度の太さではなく、小山に比しても大きすぎて、今にも港へ向かって真っすぐに倒れてくるのではないかと恐ろしい錯視を、数百年のあいだ人々に与え続けていた。ピリエの国が発展著しい欧州で取り残され、他国への鉄路も乏しいのは、この大柱の威圧によるものだと説く書物すらあった。この港で下りた日本人はニコデモただ一人で、他の者たちは皆ジェノバやマルセイユから陸路にて独逸(ドイツ)、仏蘭西(フランス)、英吉利(イギリス)へ向かうのだった。

 しかしピリエは貧しい国ではなかった。諸国から等閑視されているのでもなかった。欧州最優等の学府を誇るのがピリエだった。倫敦(ロンドン)や伯林(ベルリン)と異なりピリエには歓楽や政治の魔手が及ばないので、ピリエ大学に学ぶ者は修道僧のごとくひたすら勉学に励む。科学また医学、経済学、史学、政治学や地理学、天文学の分野で、ピリエ大学の学徒に敵(かな)う智者はおらぬとまで言われていた。一方で学生時代に禁欲的な研鑽(けんさん)を強いられるがために、修学ののちは、たれもがたちまちに解放されて大学はおろかピリエの国をも顧みることなく、ある者は故国へ戻り、またある者は他国へ雄飛して自由闊達(かったつ)におのが知力を発揮するようになる。それでピリエはいつまでも象牙の塔よりほかに誇るべきものを持たぬままに取り残されるのでもあった。

 ニコデモは寄宿舎に入って荷をおろし、大学で経済学や経営学を学んでいるはずであった。横文字の難解な専門書を日に何冊も読み、講義に出席して優等な成績を修めているはずであった。それだけでは息が詰まるであろうから、趣味の音楽も余暇には学び、講堂のピアノを弾いているはずであった。そのようなことが月に一度父母に届く手紙にきちんと書いてあった。父母がその手紙を信じない理由はひとつもなかった。このまま勉学に励めば、息子はいずれ一流の知識を持ち合わせた素晴らしい実業家として父を継ぐであろうことに、皆が疑いを容れなかった。

(つづく)

連載第3回

 


「ニコデモ 風は思いのままに吹く」連載一覧

藤谷 治(ふじたに・おさむ)

1963年東京都生まれ。2003年『アンダンテ・モッツァレラ・チーズ』でデビュー。主著に『いつか棺桶はやってくる』(三島由紀夫賞候補)、『船に乗れ!』(本屋大賞ノミネート)、『世界でいちばん美しい』(織田作之助賞)、『燃えよ、あんず』などがある。

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