◇長編小説◇藤谷 治「ニコデモ 風は思いのままに吹く」連載第3回

気がつくと鈴木正太郎(すずきしょうたろう)は、またしても雑踏の中にいた。
昨日のことはすべてがぼんやりしていた。詰襟を着た東京の学生さんや、西洋人の女が乗せてくれた大きな船のことを忘れたわけではないが、その一切が天から下りてきたあの女たちと同じく、ほんとうのことではないようにしか思えなかった。自分がどうしてこの真昼の小樽(おたる)にたどり着いたものか、語って語れないことはないが、決して語れないような気もしていた。
小樽は新潟にひけをとらない大きな町で、正太郎はうろたえた。人通りに面食らってると掏摸(すり)になんもかも盗(と)られるぞと伯父から注意されたのを思い出し、できるだけ表情を硬くして歩いた。小樽は初めてだった。幼い頃に父親と弟(しゃで)を見送りに、伯父や若松(わかまつ)の人々と共に新潟まで船に乗ったことがあるだけで、大きな町を一人で歩くのも初めてだった。
臍(へそ)の上で固く締めた胴巻きの中に財布と一緒にしまってあった葉書を取り出すと、行き当たりばったりに店の中へ入ってそこにある住所を示し、ここに行くにはどうしたらいいかと尋ねた。煉瓦(れんが)造りの立派な建物に入るのは勇気がいった。しかしただ通りを歩いている大人は怪しい、流れ者かもしれない、店で働く者なら胴巻きの中に手を入れたり盗みを働いたりはしないだろうと用心したのだった。若松からここまで、宿に泊まっても船に乗っても、財布を取り出すということはついに一度もなかったが、正太郎はそれに思い至らなかった。腹も減っておらず、背中の風呂敷包みの中には西洋の握り飯のような食べ物が入っているのも念頭になかった。葉書に書いてある父親の住所だけで頭の中はいっぱいだった。
最初の店では客でないと知るとそっぽを向かれた。次の店では子どもの来るところじゃないと追い返された。三軒目の店には親切なおじいさんがいた。
「おめ、会津(あいづ)か」老人は正太郎を店の隅に寄せて尋ねた。「そうかそうか。よし、おらがあんべ良くしてやっがら」
「会津の人でごぜえやすか」
「いやあ、おらは磐前(いわさき)で、国は違うけんど、今はおんなじ福島県だもんな」
老人は店の主人に尋ねたりなどして住所を調べた。色内町(いろないちょう)から線路を渡って畑の手前あたりだという。老人は略図を書いて渡した。正太郎はお辞儀をしてその店を出た。
しかし行ってみると、そこは人の住むところではなく、硝子(ガラス)格子の集会所だった。表に看板が掛けてあり、北海道開拓会津団小樽部と書いてあった。格子の向こうに男が三、四人座っていた。正太郎は中に入って尋ねた。
「鈴木市兵衛(いちべえ)の住まいは、ここではねえですか」
男たちは皆いっせいに正太郎をじっと見つめた。それから一人が「おめ誰だ」と尋ねた。市兵衛の息子だと答えると、男たちは目を見合わせた。正太郎は父からの葉書を男たちの前に差し出した。
「市兵衛さんの住まいはここでねえ。幌内(ほろない)だ」男が言った。「おめ、どっから来たんだ」
「若松からでなし」
「一人でか」
「んだ」
「市兵衛とこの子かあ」別の男が声をかけた。「したっけ亀次郎(かめじろう)の兄(せな)だなし」
「うんだあ」正太郎は弟の名前が出てきた嬉しさに、これまでの心細さがいちどきにほどけて、涙が出そうになった。「おらん家(げ)のこど、知っとりやすがよ」
「知っとるも何も、おらぁ、あんちゃをうぶうとったが。若松んおったころ」
正二郎はその男に縋(すが)りつかんばかりに言った。
「ととさんと亀次郎は、今どこさおるがよ。教えてくんつぇえ」
「幌内だ」正太郎をおぶったことのあるという男の顔は、心なしか締まった。「幌内のどのへんかは、おらも知らねえ。おめ知ってるか」
「いや」訊(き)かれた男が首をふった。「だけんじょ、幌内部の大竹(おおたけ)さんなら判(わか)るべ」
男たちは正太郎を座らせ、茶菓子を出して落ち着かせ、そのあいだにあれこれと相談をした。疲れていた正太郎には人の話に耳を傾ける余裕はなかった。茶を飲み菓子を食べると、眠気と闘わなければならなかった。
「おい、正太郎」知らぬうちに居眠りしていたらしく、正太郎は揺り起こされた。「ええが、こっがら幌内までぁ、汽車で半日もかかんねえがらな。したっけ、会津団の幌内部ちう所さ行って、大竹さんちう人にこれを見せろ」
男はそう言って、手紙の入った封筒を渡した。
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