◇長編小説◇藤谷 治「ニコデモ 風は思いのままに吹く」連載第5回

◇長編小説◇藤谷 治「ニコデモ 風は思いのままに吹く」連載第5回
神童・ニコデモは、欧州最優等の学府と呼ばれるピリエの地で学問の修得に励んでいる、はずだった。

「ニコデモ 風は思いのままに吹く」連載一覧


 

 ピリエ国での生活は修道僧の如(ごと)しで苦行を重ねておりますが、世間の風に曝(さら)されることもなく純粋なる学究の世界に埋没できるのは幸甚であります。また勉学に次ぐ勉学で息が詰まるということもなく、宿舎食堂にあるピアノを夕食前の二時間ほど自由に使える許可を得て、気儘(きまま)に弾き鳴らしております。前期口頭試験ではウラジーミル・ポルトフ博士の金融論およびマルセル・ベルナール博士の欧州経済学にて優等の成績をいただきました、というニコデモの手紙は皆噓であった。ニコデモは修道僧の暮らしもしていなかったし口頭試験も受けていなかった。宿舎の食堂にピアノはなく、ピリエに住んでさえいなかった。

 ピリエ大学の宿舎に入って半年もしないうちにニコデモは象牙の塔の暮らしに耐えられなくなった。学業は優秀であり、彼にとって日々の講義はさして難しくもなかったが、その退屈さは身を削られるようだった。市場経済の歴史について独り言を呟いているだけの教授や、黙って黒板に数式を並べるだけの教授、自著を朗読して講義を終えてしまうような教授ばかりだった。共産主義をひたすらののしる教授の講義は最初のうちこそ面白く感じたが、どうやらその教授は共産主義がどんなものか、よく知らない様子だった。

 学生のうちには欧州人でなければ人ではないと言わんばかりの者もいたが、多くはニコデモに社交的な友情を示した。全学の中で最も優秀な学生であることが、人種への偏見を超越してもいた。彼を自宅に招いたり夕食を共にするような学生はいなかったが、ニコデモはどうとも思わなかった。それまでの長いあいだ、父親の家の中で友人のいない暮らしを続けていたのだから。

 孤独は気にならなかったが、ピアノがないのはひどく苦しかった。ピリエ大学のピアノは大講堂の演壇に死蔵されていて、その天鵞絨(びろうど)の覆いが外される気配はなかった。何百何千の学生の内に音楽を嗜(たしな)む者が一人もいないわけでもなかろうに、あのピアノを使わせてほしいと申し出る学生が一人もいないのは不思議であった。申し出ても使用の認可がおりないのかもしれない、だとすれば入学して間もない新参者の自分が何を求めても手が届くとは思われなかった。

 大講堂のピアノの蓋が開かれないのは、欧州が再び戦争に向かっているからだった。

 純然たる象牙の塔を標榜(ひょうぼう)しているピリエ大学はもとより、ピリエ国全体が、欧州に漂う戦争への気配をあってなきが如くに振る舞っていた。欧州の方でも、ピリエのような目立たぬ、地政学的にも戦略的にも特別な利点のない小国に、大した外交的関心を払っている様子はなかった。

 それでも気配はピリエの日々の中に、人々の中にはっきりと巣食っていた。それは陰画のようなあらわれ方をしていたために、気がついていないのはニコデモだけだった。ピリエ人も欧州各国から来た者も、日々の会話や振る舞いのうちに、他国を非難したり、自国の優越を誇示したりしないよう、過敏なほど慎重になっていた。ピリエでは愛国心や戦意の高揚、あるいは反戦の主張が、ピリエの気風にふさわしくない、下品で非学問的な態度と見なされていたのである。

 そして自国や郷土の誇示として最たるものが音楽であった。どの国の者であっても、口をついて出てきそうな歌は故郷の歌であり、国で歌われていた流行歌は、自国の戦意を高揚させたり、他国を軽蔑したり揶揄(やゆ)する歌ばかりだった。故郷にいた頃には考えもなく調子のいい旋律を楽しんで高歌放吟していたそれらの歌が、異国で異国人と交わる中では身近な他人への侮辱となり、学究の徒にとっては語るに足りないと見なされている時局の問題に発展しかねないものとなった。音楽は学友に向けた危険な銃口にも等しいと察してからは、知性を重んじる者の口からは一切発せられなくなったのである。

 浮薄な流行歌などではなく、学問的に考究されるべき音楽、厳粛で数学的な、古典的音楽でも事情は変わらなかった。いやある意味では伝統的に尊重されている音楽の方が、しばしば国粋主義的であった。独逸(ドイツ)はバッハ、ベエトオヴェン、そしてなかんずくヴァグナアの音楽こそ音楽の王であると信じて疑わなかった。伊太利(イタリア)は自国こそ音楽の祖であり、バッハに霊感を与えたのはヴィヴァルディであり、音楽の真の王たるオペラの牙城であり、他国の楽劇など取るに足らぬと誇っていた。仏蘭西(フランス)にとってはクープランからベルリオーズに至る確固たる音楽的伝統を持つばかりか、二十世紀の音楽はドビュッシイ氏、フォーレ氏、そして今も華麗なる新作を発表し続けているモーリス・ラヴェル氏がすべてを凌駕(りょうが)して最先端の未来を支配しているのは自明の理であった。そしてどの国の者も、その矜持(きょうじ)を人に語ることはなかった。矜持を語らぬことが彼らの矜持であった。

 こうして音楽はピリエから消えた。

 欧州を知らず、欧州に根を持たず、しかし欧州の音楽を愛するニコデモに、これは途方に暮れるような苦しさだった。まず周囲の人々が音楽に背を向けている態度の由来が理解できなかった。ピリエでの日を送るにつれて学友たちと二人きりで語り合っている時などに事情を聞かされ、欧州に戦機が漂っていることにさえ気がついていなかったニコデモは驚愕(きょうがく)し、また失望した。

「すでに欧州はさきの戦争によって疲弊したではありませんか。今も疲弊しているのではありませんか。それをなぜまた破壊の道へみずから進もうとするのですか」とニコデモが問うと、

「経済の失政さ」と答える者もあれば、

「覇権を狙う独裁者に心酔している人間が欧州中にいるのですよ」と答える者も、

「人類はもともと平和を望まない動物なのだ。本性では永遠に続く暴力の劫火(ごうか)を求めてやまないのだ」と渋面を作る者もいた。


「ニコデモ 風は思いのままに吹く」連載一覧

藤谷 治(ふじたに・おさむ)

1963年東京都生まれ。2003年『アンダンテ・モッツァレラ・チーズ』でデビュー。主著に『いつか棺桶はやってくる』(三島由紀夫賞候補)、『船に乗れ!』(本屋大賞ノミネート)、『世界でいちばん美しい』(織田作之助賞)、『燃えよ、あんず』などがある。

滝沢カレンさん 第3回 インタビュー連載「私の本」vol.10 
◎編集者コラム◎ 『警視庁レッドリスト』加藤実秋