◇長編小説◇藤谷 治「ニコデモ 風は思いのままに吹く」連載第6回

◇長編小説◇藤谷 治「ニコデモ 風は思いのままに吹く」連載第6回
巴里に魅了され、彼の地で音楽を学ぶ決意をしたニコデモは、アンティヌッティに師事するつもりで、彼女の仕事場を訪ねる。

「ニコデモ 風は思いのままに吹く」連載一覧


 それを聞くとアンティヌッティの唇が、頰の上で大きく広がった。瞳がじっとニコデモを見た。まるで催眠術をかけようとしているみたいに。ニコデモは動じなかった。

「いいじゃない」アンティヌッティは言った。「私のところに来なさい。なんでも教えてあげる。今じゃないけどね。仕事中だから。ピアノを返して」

 再びピアノの前に腰かけると、アンティヌッティは何事もなかったかのようにラグタイムを鳴らした。揺り椅子の老婆がしわがれ声で何か叫ぶと、踊り子たちはニコデモをチラチラ見ながら、ラグタイムに合わせて踊り始めた。ニコデモはあられもない女たちの姿や視線にしばらくは耐えていたが、アンティヌッティはもうニコデモに一瞥(いちべつ)も与えなかった。ニコデモは誰にともなく会釈をしてその場を去った。

 それからニコデモは週に一度か二度、多い時には三度ほど、モンパルナスにあるアンティヌッティの下宿部屋に通った。四つ辻(つじ)の車道までテーブルを出しているカフェから、その裏手にある部屋までのほんの四、五間(けん)を歩くうちに、犬の糞(ふん)やドブ泥、画家や詩人の嘔吐(おうと)したもので靴を汚さずにいられたことは一度もなく、カフェからも二階三階からも昼間から怒鳴り声や歌声、女の嬌声(きょうせい)や叫び声がひっきりなしに聞こえていた。道行く人たちは誰も彼も貧しく、鼠(ねずみ)色の上着やコール天のズボンに油絵の具がこびりついていたり、レストランで食事をしている人の様子を路上から悲しそうに眺めたりしていた。

 裏路地の暗い建物の四階がアンティヌッティの部屋だった。周囲の環境に較(くら)べると清潔で、古風な印象のある室内には、通路を横になって通らなければならないほど本棚が並べられてあり、そこに大きな革張りの古い書物がびっしりと詰まっていた。本棚を抜けると寝室を兼ねたピアノの部屋があり、エラール社製のアップライトピアノと安物のベッド、それに書き物机が、本棚の隙間を埋めるパズルのようにして置かれていた。この部屋の本棚に入っているのは上から下まですべて楽譜だった。ピアノの楽譜ばかりではなく、総譜(スコア)もあれば室内楽も、歌曲の伴奏譜もあった。五線紙にペンで音符の書かれた自筆譜も紙挟みに綴(と)じてあったり、棚へ乱暴に押しこんであったりした。

 最初のレッスンで、アンティヌッティはニコデモに尋ねた。

「音楽のすべてを知りたいと言っていましたね。すべてとはどういうことですか? まだ作曲をしたことはないんでしょう?」

「限りがないということです」ニコデモは考えていたことを言った。「ここまでで終わり、これを達成するまで、ということは、お考えにならないでいただきたいのです。この世にありとあらゆる音楽の秘奥を、私は知り尽したい。先生がお持ちの知識を、すべて私に伝授してください。先生の智慧(ちえ)を汲(く)み尽したら、私はまた新たな師を求めに行きます」

「心配御無用」アンティヌッティは首を振った。「新たな教師を探すことにはなりませんよ。じゃさっそく始めましょう。このあいだあなたが弾いた即興……」

「お待ちくださいアンティヌッティ夫人」ニコデモは言った。「まず、レッスンに支払うべきお金を教えてください」

 するとアンティヌッティはにっこりと笑った。「あなたから金は受け取らない」

「どうしてですか?」ニコデモは驚いた。

「だって」アンティヌッティは言った。「あなたは私が求めていた人だから」

 その言葉の意味を訊(き)く以前に、こちらを見つめるアンティヌッティの笑顔の気味悪さと酷薄さが、ニコデモから口を利く気を失わせた。

「このあいだあなたが弾いた即興の変奏曲だけど」アンティヌッティは何事もなかったかのように話を続けた。「作品がないのなら、あれから始めましょう。もう一度弾ける?」

「あんなもの」

 ニコデモは自分であの変奏曲を、拙劣な猿真似としか評価していなかった。ろくに憶(おぼ)えてもいなかった。記憶しているのはアンティヌッティ、というよりデ・デのラグタイムの旋律と、それを自分がどの作曲家の作風を真似して変奏を加えたかということだけだった。そんな創意工夫のないものをもう一度、あの独創のかたまりのようなラグタイムの作曲者の前で披露するのは気が引けた。

 ニコデモのためらいを見透かしたアンティヌッティが言った。

「だって、ほかに何があるというの、あなたに」

 自尊心を汚(けが)す口調だった。だが彼女の言う通りだった。その不躾(ぶしつけ)な物言いが、音楽のすべてを知り尽したいというニコデモの野心を却(かえ)って焚(た)きつけた。なぜなら「ほかに何がある」という言葉には、ニコデモがすでに優秀なピアノ演奏の技術を持ち、音楽に関するある程度の知性もあることを、アンティヌッティがすでに認めているという含意もあったからである。

 ニコデモはうろ覚えの変奏曲を弾いた。アンティヌッティはそこから、ニコデモが真似のつもりで作ったモオツァルトやリストの音楽について、彼らの実際の変奏曲の楽譜を解析しながら教授していった。最初のレッスンは四時間に及んだ。ニコデモは幾らかでも支払おうと財布を出したが、アンティヌッティは笑いながらも頑として受け付けなかった。

 アンティヌッティはニコデモに課題を出し、その課題の難しさに応じて、三日後までに、二日後、あるいは明日までに仕上げてくるようにと言ってニコデモを待った。キャバレーの稽古や舞台に遅れようが、レッスンの途中でドアをノックされようが平気だった。むしろニコデモの方が彼女の仕事を心配した。するとアンティヌッティはニコデモをミルチャ通りの稽古場や、ピガールにある「フォルネウス(Forneus)」というキャバレーにまで連れて行った。フォルネウスは稽古場に増して不潔で暗くて騒々しい場所で、狭い舞台に白塗りの喜劇役者や黒塗りの歌手が、裸同然の女たちの踊りの合間に現れて、どうしようもない奇術や冴えないテノールを披露していた。丸テーブルに陣取った客たちの目当ては踊り子たちだったが、稽古場ではあんなにずぼらで野蛮で、全身吹き出物だらけの女たちが、楽屋で白粉(おしろい)を塗り大きな羽根飾りのついた衣装を着て舞台に立つ時には、男たちの性夢に現れる妖女のように堂々と淫蕩(いんとう)な魅力をほとばしらせるのを、ニコデモはあっけにとられてただ眺めた。

 しかもそんな中でさえアンティヌッティは、ニコデモに与えた課題を舞台稽古の合間や休憩時間に披露させた。それは軍歌を主題にした四声のフーガであったり、グレゴリオ聖歌につける分散和音であったり、黒人霊歌のドニゼッティ風編曲であったりした。女たちはニコデモの生真面目な音楽を手を叩いて笑い、楽士は即興でトランペットを吹き、黒塗りの歌手はピアノに合わせて歌ったりした。ニコデモは屈辱を感じた。しかしキャバレーの連中が加える音や歌声が、ニコデモの楽譜に活気を与えているのも確かだった。アンティヌッティは表情一つ変えずに楽譜を直し、複雑な和声学や旋法を教えた。

 ニコデモの音楽に関わる知識が飛躍的に増しているのは明らかだった。アンティヌッティの課題は常に、古来から伝わる音楽と現代の多彩な音楽、そして欧州に限らない、アフリカや中東、そして亜細亜(アジア)の音楽を、同時に教えるものだった。もしニコデモが同じ学習を、大学や音楽院でしていたら、教授たちはニコデモの学びようの速さ、理解の能力に驚嘆していたことだろう。だがニコデモは知識を常にこのようにして身につけていたので、自分では自分の能力を測りかねた。アンティヌッティはこの日本人の聡明さに驚く様子を決して見せなかった。

 これらの経験をニコデモは、父母にまったく伝えなかった。音楽の勉強とピアノの練習の合間に、月に一度ほど送る郷里への手紙には、相変わらずピリエ国で法学や商学を修めているかのような噓を書き続けた。書き終えた便箋は二重の封筒に入れた。最初の封筒には両親の住まいの住所を書き、それを大きな封筒に収めると、ピリエにいるデュドネの息子へ宛てて、申し訳ないがいつものようにこれをそちらからピリエに送ってくれ、また日本からの来信があればこちらへ送ってほしいと伝えた。こうしてニコデモは巴里(パリ)に移ってからもしばらくのあいだ、裕福な家からの潤沢な仕送りを受け取っていたのである。


「ニコデモ 風は思いのままに吹く」連載一覧

藤谷 治(ふじたに・おさむ)

1963年東京都生まれ。2003年『アンダンテ・モッツァレラ・チーズ』でデビュー。主著に『いつか棺桶はやってくる』(三島由紀夫賞候補)、『船に乗れ!』(本屋大賞ノミネート)、『世界でいちばん美しい』(織田作之助賞)、『燃えよ、あんず』などがある。

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