◇長編小説◇藤谷 治「ニコデモ 風は思いのままに吹く」連載第8回

◇長編小説◇藤谷 治「ニコデモ 風は思いのままに吹く」連載第8回
「音楽のすべて」を学ぶべく、十余年にわたってアンティヌッティに師事していたニコデモは、どうしても自身の曲を生み出すことが出来なかった。

「ニコデモ 風は思いのままに吹く」連載一覧


 墺太利(オーストリア)が独逸(ドイツ)の一部分になったあたりから、アンティヌッティはニコデモに向かってはっきりと、作曲を促すようになった。

「なぜ書かないの?」アンティヌッティはあどけなさを装うように、きょとんと目を丸くして言った。「今のあなたなら、どんなものでも作れるのに」

「ご存知でしょう」ニコデモはアンティヌッティの無邪気を演じる態度に、機嫌を悪くして答えた。「書かないのではありません。書けないのです」

「それは噓よ」アンティヌッティは笑顔で言った。「私は知ってる」

 それは春になる前の、まだ肌寒い頃だった。春になると、独逸はさらにチェコスロバキアの独逸側にある地方を欲しがっている、という話がニコデモの耳にさえ伝わるようになった。新聞を読まないニコデモは、そういった話を踊り子や給仕や、夫が手広く商売をしている女客の口から聞くだけだったが、あっちの口が戦争が起こると言ったかと思えば、こっちの口は独逸があの地方を諦めたようだと言い、仏蘭西(フランス)軍は独逸とは比較にならないほど強いんだと聞かされたり、英吉利(イギリス)なんかと手を組むようじゃ仏蘭西も終わりだと聞かされたりした。夏になると人々は、チェコスロバキアのために仏蘭西と英吉利は独逸を相手に戦争をするだろうと口をそろえるようになった。

「オペラやシンフォニイを作らなくてもいいの」その頃になるとアンティヌッティはまたニコデモの作品を欲しがった。「むしろ、ちょっとした流行歌みたいなものの方が、あなたには書きやすいかもしれない」

「私は書きたいのです」ニコデモはできるだけ穏やかに答えた。「この長い年月、ずっと何か作ってみたいと思ってきました。しかしできないのです。和音ひとつ、思い浮かべることができないのです」

「いいえ、あなたは素晴らしい旋律を持っている」アンティヌッティはこの時も言った。「私は知っている」と。

 秋になり、チェコスロバキアに住む独逸人たちがこぞって荷物をまとめ、独逸に避難をしているという話が、ニコデモの耳にも届き始めた。仏蘭西の首相が英吉利の首相とともに独逸の総統と会談する手はずが整ったとも聞いたが、その話を教えてくれた「フォルネウス」の用心棒は、話し合いなんかしたってあの独逸の悪党を止められるものかとも言った。その日は踊り子の稽古を終えれば帰宅する予定だったが、ニコデモはアンティヌッティに、これから私の部屋に来ないかと誘われた。レッスンの誘い方ではなかった。

「どんなものでもいい、来週までに一曲作って」アンティヌッティの言葉は遠慮会釈もなかった。

「できません」ニコデモもきっぱりと答えた。「十年以上かけてできなかったものが、どうして一週間でできるものですか」

「できるの」アンティヌッティは、同じことを三度言った。「私は知っているの。あなたがこの一週間で、ここに自分で書いた楽譜を持ってくることを。一週間もいらないかもしれない。私が明日持ってきてと言ったら、明日持ってくるでしょう。その方があなたにとっては気が楽かもしれない」

「どういうことですか。あなたは何をおっしゃっているんです」

「今のあなたは、ありとあらゆる音楽を知っている」アンティヌッティは問いに答えず語った。「巴里(パリ)でもこの国でも、世界中どこを探しても、あなたほど音楽を知っている人はいない。それをあなたは知っている。それなのにあなたは、ちっぽけな部屋と汚らしいキャバレーと、このむさ苦しい部屋を行ったり来たりするだけの人生を送っている。誰からも認められず、誰にも知られることなく、水を飲み残飯を食べて、女の裸踊りに伴奏をつけて生きている。あなたを知っているのは、上品な顔をして親や旦那の金でいい暮らしをして、退屈しのぎに男を探して夜をうろつき回っている女たちだけ。その女たちも、夢中になるのはあなたの見た目が美しいから。あなたという音楽家の、本当の値打ちを知っている人は、この広い地球上にたった一人、私がいるだけなんですよ」

「あなたの知識にはとうていかないませんよ」とニコデモは口を挟んだが、アンティヌッティは「話をそらさないで」と相手にしなかった。

「あなたがこんな不遇の中にいるのは、ただあなたが無欲で潔癖だからではありませんよ。あなたが知られていないのは、あなたが何も世界に示さないからじゃありませんか。あなたほどの音楽家が、自分はこういうことのできる人間だと、世界に向かって名刺の一枚も出さないでいるのは、謙遜を通り越して馬鹿というものです。あなたの気の小ささ、臆病などというものは、もう理由にはなりませんよ。あなたのような偉大な才能が、ただこのみっともない裏町の一隅で朽ち果てていくのは、才能に対する罪悪です。あなたがあなた自身を踏みにじっているんじゃありませんか」

「マダム」ニコデモは長く沈黙して考えたあと、口を開いた。「私がそれをこの長の年月、自分に向かって問いかける夜がなかったなどと、まさかお思いではないでしょう。確かにあなたはよくご存知だ。私がこのままではいられないと、毎夜いても立ってもいられない思いで苛立ち、寝入ってさえもその焦燥に苦しめられ、何かを成したいという胸の張り裂けそうな野心によって目を覚ますことを、あなたは知っている。

 しかし私の苛立(いらだ)ちを晴らすのは、実に容易なのです。それもあなたには判(わか)りきっているのでしょう? 私が自分の焦燥から解放されるには、ただ、私が自分の音楽を作ればいいのです。それだけのこと、ただそれだけで私の心は軽くなるのですよ。しかしそれができないのです。何度も何度も、数えきれないほど私は試みました。一人になれる時間を増やし、夜が明けるまで霊感を待ち、ついには、霊感などに頼ろうとするから手が動かないのだと、闇雲(やみくも)に音符を並べさえしました。しかし私の努力が私を満足させたことは一度もなく、その努力が音楽の欠片(かけら)をすら生み出せたことはないのです。あなたがどんなに私を高く評価してくださろうと、私は決して私の望みをかなえることはできないでしょう」

 それからニコデモとアンティヌッティは、長いこと沈黙してお互いの目を見つめていた。ニコデモは蒼白(そうはく)となり、アンティヌッティは微笑(ほほえ)んでいた。

「来週までに、などと、教師が生徒に宿題を出すようなことを言ったのは間違いでした」やがてアンティヌッティは言った。「今すぐあなたに音楽を作らせてあげましょう」

 それは一体、というニコデモの言葉を聞かず、アンティヌッティは立ち上がって廊下の向こうの部屋に消えた。ニコデモは入ったことはなかったが、そこには台所があるに違いなかった。すぐにアンティヌッティは、小さな緑色の硝子(ガラス)瓶と杯、それに銀のフォークを持って戻ってきた。

「これを、飲みなさい」

 アンティヌッティは杯の縁にフォークを水平に置くと、そこにポケットから取り出した角砂糖をのせ、緑色の瓶に入った液体を、角砂糖を溶かしながら杯の中に入れた。液体も緑色に輝いていた。

「これはなんですか」


「ニコデモ 風は思いのままに吹く」連載一覧

藤谷 治(ふじたに・おさむ)

1963年東京都生まれ。2003年『アンダンテ・モッツァレラ・チーズ』でデビュー。主著に『いつか棺桶はやってくる』(三島由紀夫賞候補)、『船に乗れ!』(本屋大賞ノミネート)、『世界でいちばん美しい』(織田作之助賞)、『燃えよ、あんず』などがある。

岸田奈美さん 第1回 インタビュー連載「私の本」vol.12
岸田奈美さん 第2回 インタビュー連載「私の本」vol.12