◇長編小説◇藤谷 治「ニコデモ 風は思いのままに吹く」連載第9回

◇長編小説◇藤谷 治「ニコデモ 風は思いのままに吹く」連載第9回
これは自分の作品ではない──。そう断じるニコデモと、アンティヌッティとの対話は続いていた。

「ニコデモ 風は思いのままに吹く」連載一覧


「それは恐らく、真面目な話なんでしょうけれど、でもごめんなさい、笑っちゃう」

 そう言いながらアンティヌッティは笑みを浮かべた。しかしそれは決して嘲弄しているようではなかった。

「約束をしたんです」やがてニコデモは言葉を絞り出した。けれどもさすがに、天上に座を得るために、とまでは口に出せなかった。

「約束ね」アンティヌッティは言った。「約束は大事です。私も約束は守るようにしてる」

 そしてアンティヌッティは息を吸った。

「あなたはこの十年以上もの年月、いったい何をしていたんです」叱るような、嘆くような口調だった。「ありとあらゆる音楽の技法を学んで、知識を詰めこんで、ピアノの前に座り続けて、あげくの果てに手に入れたものといったら、キャバレーの残飯とボロ部屋の家賃、それに安っぽい女たちとの安っぽいお楽しみだけじゃないの。あなたは自分が、こんな境遇に朽ち果てて構わないような音楽家だと思っているの? あなたはいったい、何のためにこの十何年をこんなところで過ごしてきたんですか。そして私は何のために?」

 アンティヌッティは立ち上がって、ニコデモの隣に座り直した。

「私には判(わか)っていたんです。あなたが、これまで私の出会ったどんな学生よりも優秀で、才能にあふれ、そして野心に満ちている、って。あなたの顔をひと目見て見抜きましたよ。だからこそ私は今まで、ひたすら教え続けていたんです。あなたほど音楽への強い情熱に駆られている人間はいません。そのためにあなたは、私と知り合うはるか前から、親を欺いて暮らしていたんじゃありませんか。今だって日本の家族を捨てて平気な顔をしていられるんじゃありませんか。あなたは音楽家として大成するためなら、ほかのものはどぶに捨てても構わない。人を人とも思わない。あなたと一夜を過ごした女たちの中には、あなたに真心の愛を捧げた人だっていたんですよ。あなたはそんなことにさえ気がつこうとしなかった。他人の真心が音楽の勉強には邪魔だと、知らないうちにわきまえていたからです。そんなにまでして音楽に身も心も捧げてきたのはどうしてですか。一流の、世界一の音楽家になるためではないのですか? 私は知っているんです、あなたが本当に求めているのが何かを」

「私が何を求めているというのです」ニコデモは目を見開いてアンティヌッティを見た。「私が求めるのは、ただ」

「あなたが求めるのは、ただの証明でしょう?」アンティヌッティはにっこり笑った。「あなたが自分の才能も知識も棒に振って、野心を押し殺して、固いパンをかじりながら貧乏暮らしを続けていれば、何かいいことがあるってことを証明したいだけでしょう? それがなんだか私は知らないし、あなたが知っているとも思わない。私に言わせれば、あなたはなんにも証明なんかできないと思う。少なくとも、生きているあいだはね。よしんば証明できたにしても、そんな『いいこと』なんて、どうせ大したもんじゃないに決まってる。

 だけどね」

 抵抗しようと口を開いたニコデモを、アンティヌッティは喋(しゃべ)り続けて制した。

「だけど、この楽譜を印刷して売りに出したあとに、あなたに約束されているものは目に見えているじゃありませんか。これは売れる。あなたの懐には、入りきらないほどのお金が飛びこんでくる。ただのお金じゃありませんよ。それはお金の形をした、あなたへの喝采なんです。あなたの才能への賛辞です。あなたにはそれを受け取る権利があるんですよ。そしてひとたびそれを受け取れば、もう世界はあなたのものです。何を求めても得られるようになるでしょう。あなたに呼ばれてやってこない人間はいなくなる。男だろうと女だろうと、あなたの前にひれ伏して、あなたの召使になれるのなら、大喜びで飛んでくるようになるんです。見てごらんなさい!」

 そう言うとアンティヌッティは、立ち上がって窓を開いた。それまでカーテンが閉まっていたわけでもないのに、ガラス窓を開いただけで目を刺すような凄(すさ)まじい光が部屋の中まで押し寄せた。窓の外は、いつものようなうらぶれて厭(いや)な臭気の漂うモンパルナスの裏通りではなかった。手を伸ばせば届くようなところにあるはずの向かいの建物が、透き通ってその向こう側が見えていて、その向こう側の建物も、さらにその先にある建物も、すっかり透き通って、巴里(パリ)が地平線の彼方(かなた)まで見晴るかせていた。透明な仕切りにしか見えない建物の中で、人々が働いたり眠ったり、愛し合ったり笑ったりしていた。普段通りで見かけるような亡命者や放浪者や失業者といった、みすぼらしい人間は一人も見当たらず、誰もが明るく着飾っていて、しかもなぜか、皆がニコデモに向かって挨拶を送っているような、こちらへ来いと誘いかけているようだった。

「そこから見えるすべての人が、あなたの音楽を待っているんですよ」

 そう言うアンティヌッティの言葉にニコデモは振り向いた。つい今までとは打って変わって、アンティヌッティの部屋の中は外に較(くら)べてひどく暗い、じめじめして惨めな場所に見えた。

「みんなが待っている。あなたも本当は、喉から手が出るほど求めている! 生きているうちには決して手に入らないものなんかより、これはずっと確かな、目の前にあるものなの。あなたが絶対に必要としているものでもある。だから」

 アンティヌッティはどこからか、筒状に巻かれた大きな紙を取り出し、机の上に広げた。そこには細かい文字でびっしりと、何かが書き連ねてあった。


「ニコデモ 風は思いのままに吹く」連載一覧

藤谷 治(ふじたに・おさむ)

1963年東京都生まれ。2003年『アンダンテ・モッツァレラ・チーズ』でデビュー。主著に『いつか棺桶はやってくる』(三島由紀夫賞候補)、『船に乗れ!』(本屋大賞ノミネート)、『世界でいちばん美しい』(織田作之助賞)、『燃えよ、あんず』などがある。

◎編集者コラム◎ 『荒野の古本屋』森岡督行
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