▽▷△超短編!大どんでん返し▼▶︎▲ 夏川草介「不運な患者」

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第26話
夏川草介
「不運な患者」

 広い廊下をいくつもの白衣が足早に通り過ぎていく。壮年の男性、若い女医、明らかに研修医らしき青年……、次々と吸い込まれていく先は、廊下の突き当りにある大きなドアだ。頭上の「手術中」と書かれた表示灯は、赤い不気味な光を放っている。時刻は九時半。もちろん夜の九時半である。

 御子柴は、人が通るたびに立ちあがって一礼する。相手の反応は様々だ。戸惑い顔をする者、無視する者、黙礼を返す者から、露骨に不快気な顔を見せる者。最後のタイプの医者の中には、「患者も可哀そうだよな」と聞えよがしな独り言をこぼしていく者さえいる。

 言い訳のしようがない……。

 それが御子柴の率直な思いである。

 消化器内科医になって八年。これまでも順風満帆であったわけではないのだが、大腸カメラの最中に大腸穿孔、つまり大腸に穴を空けてしまって、患者がそのまま緊急手術になった事態は、初めてであった。

 患者の名は、竹田登美子、六十二歳の女性。胆のう癌の手術予定であった患者で、今日の午後、術前の大腸カメラの検査があった。その検査中のトラブルであった。

 御子柴にも言い分はある。腸管に癒着があったこと、大腸憩室という粘膜の弱い部分が多発していたこと、そして当直明けで昨日の朝から眠っていなかったこと。しかしどれも医者の都合で、患者の側に立ってみれば言い訳以外の何物でもない。手術室に運ばれていく竹田さんの、困惑顔が残るばかりだ。

「せめて睡眠不足さえなければって言い訳はなしだぞ、御子柴」

 ふいに降ってきた声に、顔を上げれば、立っていたのは上級医の田沢である。もともと色白の田沢がいつも以上に顔色悪く見えるのは、緊急の医療トラブル検証会議に呼ばれてきたからだ。患者のそばを離れるわけにはいかない御子柴に代わって、田沢が出席してくれたのである。

「すいません」という御子柴に、「いいさ」と田沢は隣に腰を下ろす。手術室の廊下に並んで座る顔色の悪い医者ふたり。いかにも陰気な構図だ。

「検査でも手術でも、手技を学ぶ人間には必ずこういう事が起こる。一度のミスも犯さずに一人前になった医者はいない。まあ、今回は患者も運が悪かったのさ」

 運の悪さ。そんな風に考える強さを、御子柴はまだ持っていない。

「先生も経験があるんですか?」

「俺か? 俺だって修羅場は知っているが、ただの大腸カメラで穴を空けたことはないな」

 疲労ゆえの率直な返答が、まともに御子柴を打ちのめす。

「落ち込むなよ。外科は、大腸と一緒に、胆のうも手術してくれるんだろ。一回の手術で済めば上等だ。とにかく、これ以上トラブルが重ならないよう祈ろうぜ」

 田沢の言葉には真実味がある。うまくいかない患者に限って、しばしば不運が重なるものなのだ。

「執刀は、あの腕のいい砂山先生だ。信じて待つしかないだろう」

 田沢がつぶやいたところで、ふいに手術室のドアが開いて、まさに話の渦中の外科医が飛び出してきた。色黒で大柄な砂山の、ただならぬ様子に、御子柴が弾かれたように立ちあがる。

「どうしましたか、砂山先生」

「竹田さんのご家族はどこにいますか?」

「デイルームに」と応じた途端に、砂山の背後にいた若手が駆け出していく。

「何かあったのですか?」

 御子柴の震える声に、砂山が応じる。

「卵巣腫瘍が見つかりました」

 予想外の単語であった。

「卵巣?」

「大腸穿孔部の裏側で、子宮筋腫の陰に隠れるように、癌を疑う小さな卵巣腫瘍が見つかりました。術前のCTでも認識できていなかった病変です。この際ですから胆のう癌と、まとめて手術にいきます」

「つまりダブル・キャンサー(二重癌)?」

 大きくうなずく砂山に、思わず知らず、御子柴と田沢は顔を見合わせる。

「こんな言い方が正しいかわかりませんが」

 砂山が頭を掻きながら、しぶく笑った。

「大腸穿孔のおかげです。胆のうだけ手術していれば気づかなかったのですから」

 では、と一礼した砂山は、足早にデイルームの方へ歩き去った。たちまち静寂が戻ってくる中で、御子柴は、戸惑いを隠せぬまま上級医を振り返った。

「大腸穿孔のおかげだそうです」

「聞こえていたさ」

 田沢が肩をすくめて答えた。

「どうやら幸運な患者だったらしい」

 立ち尽くす二人の内科医をからかうように、天井の照明が小さく一度、瞬いた。


夏川草介(なつかわ・そうすけ)

1978年大阪生まれ。信州大学医学部卒。2009年『神様のカルテ』で第10回小学館文庫小説賞を受賞。同書は10年本屋大賞第二位、映画化、大ヒットシリーズに。他の著書に『本を守ろうとする猫の話』『勿忘草の咲く町で 安曇野診療記』など。

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