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第27話
乙一
「小説‐電話が逃げていく」

 電話が滑るー!
 生きてるみたいに手から逃げるー!


 私の電話は、いわゆるスマホで、板状の外観をしている。そいつで電話をかけようとするのだが、何故だかつるりと滑って逃げてしまう。床に落下する前に、バレーでレシーブをするみたいに手ではじく。さっきからずっとそのくり返しだ。結果として、お手玉をする人みたいになっている。

 画面を指で触れて、ロックを解除し、電話番号を入力したかった。すべての操作をするためには、しっかりとスマホを握りしめて固定しなくてはならない。しかし、力をこめてつかもうとすると、摩擦係数が0にでもなったみたいに、するりと逃げていく。スマホの洗練されたデザインのせいだろうか。余計なでっぱりがないため、指に引っかかる部分がないのだ。

 今朝までは普通に操作ができていた。気がついたらこんな状態になっていたのだ。


 電話が滑るー!
 どうしたらいいのー!?


 しばらくお手玉状態でがんばっていたが、ついに私のスマホは床に落ちてしまう。衝撃で壊れてやしないだろうか。故障していたら、修理費用のことで義理父から嫌味を言われるに違いない。夫の父親は口が悪いことで有名だ。平気で人を傷つけるようなことを言う。結婚十年目なのにまだ子どもができないことは私だって気にしているのに。どうしてあんな人から、夫のようなやさしい性格の人間ができたのだろう。ちなみに夫の母親はすでに亡くなっている。将来、義理父を介護するのは私なのだろうか。今から気が重い。

 私は床に四つん這いになり、画面を上にして落ちたスマホを、おそるおそる指先でつついてみた。ロック解除画面が表示される。良かった。故障はしていないようだ。このままスマホを操作しよう。指先を画面に触れさせて、ロック解除をするための暗証番号を入力しようとする。

 しかし、私の指先は画面上をつるりと滑って、あらぬ方向へと行ってしまう。皮膚と画面が触れるか触れないかという距離だったので、タッチセンサーが反応し、他の数字を入力する。スケートリンクを暴走するアイススケーターのように私の指は画面上を滑走し、さらなる誤入力を引き起こす。


 止まれー!
 私の指ー!


 左手でがっちりと右手首をつかみ、人差し指の暴走を止めた。しかしすでに遅かった。スマホには、暗証番号を何回も間違うと、しばらくの間、使用できなくなる機能が備わっている。私のスマホは、ロック解除ができない状態に陥っていた。

 早く電話をかけなくてはいけないのに。どうしてこうなった。玄関先で私は頭を抱え込む。その時、チャイムが鳴り響いた。

 ピンポーン。

 玄関は磨りガラスのはまった引き戸だったので、外に立つ人影が確認できる。私は咄嗟に息を潜め、物音を立てないように気をつけた。磨りガラス越しに見える輪郭と色味から、郵便局員らしいとわかる。印鑑が必要な配送物でもあったのだろうか。何度かチャイムが押される。私が居留守を使っていると、玄関の引き戸に不在票らしき紙片が差しこまれた。磨りガラス越しに見えていた人影が遠ざかり、居なくなる。私は心から安堵した。

 玄関を開けて応対するわけにはいかなかった。もしもそんなことをしたら、郵便局員の視界にこの光景が入ってしまう。郵便局員は奇異な目を私に向けることだろう。どうして四つん這いになって床に落ちたスマホと対峙しているのかと。そして、玄関の内側に倒れて横になっているこの男性はどうしたのかと。もしも顔見知りの郵便局員だったら、倒れている男性が義理父であることも察するだろう。身体を揺すって、まだすこし息があることを確認するかもしれない。そうなると都合が悪いのだ。中途半端な状態で助かってしまうと後遺症が残って大変だから。

 先ほど、脳梗塞らしき症状で、玄関で義理父が倒れた。意識は失っていたが、胸は上下しており、呼吸は続いていた。命を助けるために、一刻も早く救急車を呼ばなくてはいけない。それはわかっているのに、私の手から電話が滑り落ちてしまうという謎の現象のせいで緊急通報ができないでいたのだ。本当に、どうしてそんな現象が発生したのかわからない。

 ひとまず心を落ち着けるために私は麦茶を飲むことにした。それから玄関のところに戻ると、義理父は息をしなくなっていた。

 家の中は静まりかえり、外の道を横切る自転車の音や、ランドセルを背負った小学生の通りすぎる音が、かすかに聞こえてくる。

 私は義理父に向かって手を合わせると、スマホを拾って夫に電話をかけた。


乙一(おついち)

1978年福岡県生まれ。96年『夏と花火と私の死体』でジャンプ小説・ノンフィクション大賞を受賞し、17歳でデビュー。2003年『GOTH リストカット事件』で第3回本格ミステリ大賞を受賞。『ZOO』『銃とチョコレート』『箱庭図書館』など著書多数。『くちびるに歌を』(中田永一)など別名義でも活躍。

翻訳者は語る 大谷瑠璃子さん
◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第85回