▽▷△超短編!大どんでん返しSpecial▼▶︎▲ 森見登美彦「新釈『蜘蛛の糸』」

超短編!大どんでん返しSpecial

第1話
森見登美彦
「新釈『蜘蛛の糸』」


 一生懸命のぼった甲斐があって、さっきまで自分がいた血の池は、今ではもう暗の底に何時の間にかかくれて居ります。それからあのぼんやり光っている恐ろしい針の山も、足の下になってしまいました。この分でのぼって行けば、地獄からぬけ出すのも、存外わけがないかもしれません。カンダタは両手を蜘蛛の糸にからめながら、ここへ来てから何年も出したことのない声で、「しめた。しめた」と笑いました。ところがふと気がつきますと、蜘蛛の糸の下の方には、数限りもない罪人たちが、自分ののぼった後をつけて、まるで蟻の行列のように、やはり上へ上へと一心によじのぼって来るではございませんか。しばらくカンダタは茫然として、それらの罪人たちを見下ろして居りました。

 そのとき、カンダタの胸に浮かんできたのは、大泥棒として数知れない人々を苦しめてきた生前の思い出でありました。しかし、カンダタとて大泥棒に成りたくて成ったわけではございません。誰もが他人の命を喰らってでも生き抜こうとしている乱世にあって、いとけない子どもの頃に身ひとつで荒野へ放りだされたカンダタは、それよりほかに生き延びる術を知らなかったのです。その罪業によって地獄に堕とされ、血の池地獄や針の山を這いまわっているうちに分かってきたのは、ほかの罪人たちも自分と同じような者たちであるということでした。かつて自分が小さな蜘蛛一匹の命を救ってやったことがあるように、ほかの罪人たちもまたそれぞれに慈悲の心を持って居りましたが、その美しい心を乱世に押し潰されてしまったと言えましょう。それを罪業と呼ぶならそれでもよい。しかし、もしも自分が救われるというなら、ほかの者たちも救われなければならぬ。いつしかカンダタは眼下に蠢く同胞たちへの想いに胸がいっぱいになり、よじのぼってくる罪人たちを大きな声で励ましておりました。

「上がってこい! どんどん上がってこい! 俺の後に続け!」

 ついにカンダタが蜘蛛の糸をのぼりきって、その濡れた身体を蓮池の岸へ投げだす頃には、暗黒の空から垂れてきたという蜘蛛の糸の噂が、英雄カンダタの名とともに地獄の隅々にまで伝わっておりました。救いを求めて各地から押し寄せてくる罪人たちの滔々たる流れは、もはや獄卒の鬼たちにもとどめようがなく、罪人たちは次々と蜘蛛の糸をよじのぼっていきます。

 極楽へ流れこんだ罪人たちが見たものは世にも美しい新天地でありました。

 そこには色とりどりの花が咲き乱れ、清涼な空気にはなんともいえぬ芳香が漂い、遠くから美しい鐘の音が聞こえてきます。彼らは英雄カンダタのもとに集い、この新天地に「極楽」の名にふさわしい理想の社会を建設することを誓ったのであります。

 それから百年の歳月が過ぎました。

 壮麗な摩天楼が建ちならぶ街の一角を、カンダタという貧しい詩人が肩を落として歩いておりました。神話時代の英雄の末裔であることに彼は誇りを持っていましたが、そんなことは現代社会では何の役にも立ちません。どうしてこんなことになってしまったのでありましょうか。かつて始祖たちが地獄から蜘蛛の糸を伝って移り住んできたとき、彼らは極楽の名に恥じぬ理想社会の建設を誓ったはずでした。しかし、その美しい理想は今ではどこにも残っておりません。容赦なく他人を蹴落として摩天楼の頂きを目指すことだけが生きる目的であり、どれほど高くまでのぼれるかということがその人間の価値とされているのです。這い上がれなかったカンダタのような人間は、冷ややかな摩天楼の足下に広がる荒涼たる迷宮を、あてもなくさまようほかないのでありました。

 寒風の吹きすさぶ街路に立ち止まって、カンダタは摩天楼を見上げました。あのビルのてっぺんまでのぼることができたら……あそこには極楽らしい世界があるのかしらん?

 しかしその日、カンダタはビルの谷底で不思議な場所を見つけたのです。

 四方を取り囲むビルによって寒風から守られたその一角は、春のように温かく、白い花の咲く蓮池がありました。カンダタには知るよしもありませんでしたが、その蓮池こそ、百年前、地獄の罪人たちが這い上がってきた場所なのであります。その池を覗きこんでみますと、水の面を蔽っている蓮の葉の間から、水晶のような水を透き通して、その下に広がる美しい世界を見ることができました。百年前は血の池や針の山であったところに、今では美しい川や森、大きな池がありました。そして色とりどりの花が咲く野原を、お釈迦さまがひとりお歩きになっている姿さえ見えたのです。

「嗚呼、そんなところにいらっしゃったのですか」

 カンダタは喜びに胸がいっぱいになり、その蓮池に向かって身を投げました。

 ビルの谷間の忘れられた蓮池は、ほんの一時だけ波を立てましたが、間もなくその揺れもおさまってきて、なにごともなかったような静寂が蓮の花を包みました。その玉のような白い花は、ゆらゆらとうてなを動かして、そのまん中にある金色の蕊からは、なんとも言えない好い匂いが、絶え間なくあたりへ溢れております。極楽ももう午に近くなったのでございましょう。

 

※本作は芥川龍之介「蜘蛛の糸」から着想を得て、創作した作品です。


森見登美彦(もりみ・とみひこ)
1979年奈良県生まれ。京都大学農学部修士課程修了。2003年「太陽の塔」で日本ファンタジーノベル大賞を受賞しデビュー。07年『夜は短し歩けよ乙女』で山本周五郎賞を受賞。最新刊は『四畳半タイムマシンブルース』。

〈「STORY BOX」2021年6月号掲載〉

◇自著を語る◇ 滝田誠一郎 『奥会津最後のマタギ 自然との共生を目指す山の番人』
◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第141回