▽▷△超短編!大どんでん返しSpecial▼▶︎▲ 森 晶麿「すずらんの妻」

第14話
森 晶麿
「すずらんの妻」
「なんでもっと早く帰ってこんかったん?」
すずらんの花が咲き乱れる庭先に立ち尽くしていると、縁側から鋭い声が降ってきた。美那の妹だ。五年前はまだあどけなさの残る高校生だった。
「久々だな、梨花」
「気安く呼ばんで。人殺し。今までどこで何をやっじょったんよ?」
讃岐訛りを聞くのも、何年ぶりか。ポケットの缶ビールを取り出してプルタブを引いた。
「東京で、いろんな職を転々とね」
上京してすぐは昔付き合いのあった漫画家のアシスタントをしたが、結局は食っていけずデザイナーへ、それも難しくなると小さな広告会社の営業職に。だが才能のなさが露呈して半ば促されるかたちで離職し、この二年はタクシーの運転手をしていた。
「ここにおったら、姉ちゃんの仕事手伝ってご飯にも困らんやったのに。男のプライドが許さんかったん? それともほかの理由?」
美那はフラワーデザイナーで結構稼いでいた。たしかに彼女の下で働いていれば、今みたいな苦労はせずに済んだ。できれば梨花の質問をビールとともに胃袋で消化したかった。
「きれいになったな」と言うと、梨花は顔を真っ赤にした。
「し、シゲにぃのそういうとこ嫌い。そんな感じで浮気ばっかしよったんやろ、どうせ」
「いいや。片時も美那のことを忘れたことはなかったよ」
そう、この五年、美那を忘れたことはなかった。恋愛もこれといってしていない。
「なら、なんで……姉ちゃん、シゲにぃが帰ってくるんをずっと……誰とも再婚せんと……」
判を捺してある離婚届をテーブルに置いて家を出たが、提出しなかったようだ。彼女は生きている間は俺を手放したくなかったのだ。病気にさえならなければ、きっと今も。
「それにしても、五年前はまだすずらんなんて庭の隅に二、三本しかなかったのにな」
「姉ちゃんの想いや。これがシゲにぃへの自分の気持ちやから言うて、毎日毎日丁寧に育てとったん。すずらんの花ことば、知っとる? 〈むなしい愛〉やて」
梨花は言いながら泣き出した。
「人殺し、人殺し……姉ちゃんが会いたがっとるんを知っじょったくせに……」
梨花の小さな拳が俺の背中を叩いたが、最後には濡れた頬が力なくもたれ掛かった。梨花の秘めた想いには、結婚当初から気付いていた。今は、誰に気兼ねする必要もないが──。
美那からの手紙は病棟から毎日届いた。住所を変えても、その都度探偵にでも探らせるのか、また届いた。返事は出さなかった。返すべき言葉が、とくに見当たらなかったのだ。
「姉ちゃん、シゲにぃに食べさせたい言うて、シゲにぃの好きな餃子よう焼いとった。自分はもう食べられもせん体やったのに。『あの人帰ったら、これ冷凍しとくけん出して』言うて。いまも冷凍庫に、一つだけ眠っとるんよ。今からでも食べてあげて」
「……帰りの便に間に合わない。そろそろ失礼する。美那に線香が上げられてよかった。この庭も見られたし、梨花にも会えた。思い残すことは何も……」
「ろくでなし! なんでこんな人を姉ちゃんは……不憫やわ……」
声を震わせる梨花の頭を一度だけ撫でた。梨花は睨みつつも拒絶はしなかった。俺はそのままかつての住処を後にした。梨花は追ってはこなかった。それから空港へ向かう途中の河原で、美那からの手紙を焼き捨てた。彼女の名誉のためにも灰にしてしまうのが一番だろう。
最後の一通。封筒が燃えた時に五月の青い風が吹いて中の手紙が一部、燃えかけた状態で舞い上がり、「死ね死ね死ね死ね」という呪詛が踊りながら消えた。
家を出る少し前から、美那は俺が梨花に気があるのではと勘繰り、そうに違いないと勝手に確信するようになっていた。ならば今のうちに俺を殺して完全に自分のものにする──そう思った彼女は、毎晩餃子の具材にすずらんを混ぜた。幸い、食後すぐに眩暈を覚えたので、以来食べずにこっそり捨てるようにしていた。が、そんなことがひと月も続き、ようやく俺は悟った。いくら愛があっても、殺意を止めることはできない、と。それで、家を出たのだった。
さっき梨花は「なんでもっと早く」と問うたが、生きているうちは不可能だった。
その判断が正しかったことを、〈むなしい愛〉という花ことばにナイフを持たせたような、強い強い毒性をもつすずらんの咲き乱れる庭が、今日しずかに教えてくれたのだ。
森 晶麿(もり・あきまろ)
1979年静岡県生まれ。早稲田大学卒、日本大学大学院芸術学研究科博士前期課程修了。2011年『黒猫の遊歩あるいは美学講義』で第1回アガサ・クリスティー賞を受賞。「偽恋愛小説家」シリーズ他著書多数。近著に『探偵は追憶を描かない』等。
〈「STORY BOX」2022年3月号掲載〉