▽▷△超短編!大どんでん返しSpecial▼▶︎▲ 柚月裕子「契約書の謎」

第18話
柚月裕子
「契約書の謎」
額に浮かんだ汗を、森垣はハンカチで拭った。
ショッピングモールのテラス席を指定したのは自分だが、真夏の屋外は思っていた以上の暑さで、年金暮らしの年寄りにはかなり堪えた。森垣は暑さに耐えながら、飲みたくもないのに頼んだホットコーヒーを、じっと見つめた。
兼子コーポレーションの社員──下田がやってきたのは、一年ほど前だった。質の悪い不動産業者で有名な会社だった。
下田は兼子のサイン入りの契約書を渡し、森垣が所有している土地を相場の五分の一で売るよう迫った。森垣は首を縦に振らなかった。父親から譲り受けた大事な土地を二束三文で手放すつもりはなかった。
しかし、下田による嫌がらせは日を追うごとにひどくなり、とうとう半月ほど前には家の裏からボヤが出た。直感で下田の仕業だとわかった。身の危険を感じ、仕方なく手を打つことにした。
下田がやってきた。向かいの席に座り文句を言う。
「なんで、こんなくそ暑いところにしたんだよ。ところで──」
下田はすぐに本題にはいった。
「持ってきたかい」
森垣は自分のセカンドバッグから、売買契約書が入った封筒を取り出した。中身を抜き、シャツの胸ポケットに入れていたボールペンを手にする。
下田は怪訝そうに契約書を覗き込んだ。
「なんだ、書いてきたんじゃないのか」
森垣は、用意してきた返答を口にする。
「目の前で書けば、私の直筆だと疑われないだろう。他人が書いたものだと難癖をつけられるのはごめんだ」
サインを書き終え契約書を封筒に戻すと、下田が顎でボールペンを指した。
「それ、ちょっと見せてくれや」
森垣の心臓が飛び跳ねた。心で自分に、落ち着け、と言い聞かせながらボールペンを渡す。封筒は、テーブルの陽が当たっているところに置いた。上からホットコーヒーが入ったカップを置くのも忘れなかった。
下田は四方からボールペンを見ている。森垣の背を、暑さのせいではない汗が流れた。
ボールペンは、父親から貰った高級品だった。しかし、中身は違う。市販のこすると消える──熱で透明になるタイプのものに替えていた。契約書を交わす場所を暑い屋外にしたのは、サインを熱さで消すためだった。熱くなる場所に置き、さらに上から熱い飲み物を置く。これで確実にインクは消える。下田が気づいたときは、もう遅い。森垣はこのあとすぐ、タイ行きの飛行機に乗る。もう日本には戻らない。土地は一生、兼子たちのものにはならない算段だった。
まさか細工を見破られたのだろうか。下田はボールペンを森垣に差し出しながら言う。
「いいものだな。この縁周り、プラチナだろう」
森垣は安堵の息を吐いた。どうやら細工には気づかなかったようだ。ボールペンを受け取りながら、カップの下にあった封筒を下田に渡す。下田はなにも疑わず、引き上げていった。下田がいなくなると森垣も席を立ち、急いで空港へ向かった。
「ばかやろう! まんまと騙されやがって!」
兄貴分の兼子の怒声が、社長室に響く。下田は詫びながら、ひたすら兼子に頭をさげた。
「すみません、本当にすみません!」
事務所に戻り契約書を見ると、あるはずの森垣のサインがなかった。わけがわからないまま、今日の一部始終を兼子に伝えると、兼子はソファの背もたれにもたれ盛大な舌打ちをくれた。
「高級ボールペンの中身を、熱で消えるタイプのインクに替えたんだ。お前はじじいに、いっぱい食わされたんだよ」
怒りと驚きで身体が震える。兼子はそばにいた部下に、瞬間冷却スプレーを持ってくるよう命じた。下田を見ながら、自分の頭で小突く。
「お前はここが悪いから知らんだろうが、一度消えたインクは冷やせばもとに戻るんだ」
部下が瞬間冷却スプレーを持ってくると、兼子は中身を契約書に吹き付けた。兼子の言うとおり、空白だった署名欄にインクが浮き上がってくる。
「出てきた──出てきましたよ。兄貴!」
兼子が得意げに笑う。
「あのじじいより、俺のほうが上手だったってことさ」
しかし、兼子はすぐに顔色を変えた。下田も自分の目を疑う。浮き上がってきた文字は、判別できないほどぐしゃぐしゃだった。
「くそじじい、サインをする前に適当な文字を何度も書いて消していたんだ。復元する文字は、最後に書かれたものだけじゃない。それまでに書かれた全部だ。くそ、これじゃあ、どうにもならねえ!」
兼子が契約書を破り、部屋を出ていく。下田はその場に、がっくりと膝をついた。
柚月裕子(ゆづき・ゆうこ)
1968年岩手県出身。2008年「臨床真理」で第7回『このミステリーがすごい!』大賞を受賞しデビュー。13年『検事の本懐』で第15回大藪春彦賞、16年『孤狼の血』で第69回日本推理作家協会賞を受賞。最新刊は『チョウセンアサガオの咲く夏』。
〈「STORY BOX」2022年6月号掲載〉