▽▷△超短編!大どんでん返しSpecial▼▶︎▲ 伊与原 新「古地震学教授」

第26話
伊与原 新
「古地震学教授」
ほこりをかぶった長持の中から、今にも破れそうな和紙の束を慎重に取り出していく。古文書の取り扱いには、いつまでたっても慣れない。
「大学の先生ってことは、おたく教授ですか?」家主の男が言った。
「いえいえ」私は手袋をはめた手を止めて、苦笑いする。「准教授ですよ。うちの教授に言わせれば、昇格するにはまだまだ研究業績が足りないそうで」
「ああ……」と家主は微妙な表情を浮かべ、物置の奥から大きな行李を引きずってくる。「親父のコレクションが入っているのは、あとはこの中かな。亡くなってもう七年になりますし、いい加減処分しようと思ってたんですよ」
「そうでしたか。その前にうかがえてよかった」
「大した価値もない、こんな古文書が地震予知に役立つなんて、夢にも思っていませんでしたから」
「具体的にどう役立てているのかは、実は我々研究者にもわからないんですよ。少しでも関係がありそうなデータなら何でもかんでも学習して、そこから何かパターンを見つけ出すのが、AIというやつでしてね」
十五年におよぶ開発期間を経て、「地震・火山噴火予測統合システム」が実用化されたのは、去年のこと。世界最高峰の人工知能群が、地震活動や地殻変動はもちろん、気象、磁場、重力、地下水、火山ガスなどの環境データ、さらにはネット上に流れる市民の主観的な観察コメントまでをも収集し、専用に開発されたアルゴリズムを用いて地震と火山噴火の発生予測を出す。
運用しているのは危機管理庁と、私もメンバーとなっている政府の地震調査研究推進本部、そして火山噴火予知連絡会だ。M(マグニチュード)5以上の地震についてはこの一年間で、「○○地域で○週間以内にM○クラスが発生」という直前予知に近い予測情報を四回発表し、いずれも的中させている。
予測の精度をさらに上げるため、AIに過去の地震データを時代をさかのぼってどんどん学ばせているのだが、その指揮をとっているのがうちの教授だった。データの収集範囲は古文書に残された古地震記録にまでおよび、ネットや古今東西のアーカイブを探索してその文書の在り処を突きとめる。実際にそこへ足を運んで現物を見つけ出すのは、私の役目だ。
「あった、これだ」長持の底から、紐で綴じられた帳面が三冊出てきた。表紙に大きく〈御用日記〉とあり、その横にはかろうじて〈長濱〉の文字が読み取れる。
「何ですか、それは」家主が訊く。
「『長濱家文書』といいましてね。長濱家は、今の高知県土佐市にあった大きな庄屋です。この日記のどこかに、一八五四年に起きた安政南海地震の詳しい記録がのっているらしいんですよ。どれぐらい揺れたか、前震や余震はどうだったか、津波はどこまで来たか、地形や井戸水に変化はあったか、などなど」
「安政南海地震というのは、大きな地震だったんですか」
「ええ。百年から二百年ごとに起きている南海トラフ巨大地震の一つですから、貴重なデータになるわけです」
家主の父親は土佐市で中学校の社会科教師を務めた人物で、趣味で古文書を買い集め、郷土史を研究していた。妻を亡くしたあと病気がちになり、長男であるこの息子が東京へ呼び寄せたそうだ。父親は、これだけは捨てられないからと言って、歴史の本と古文書のコレクションを丸ごと持ってきたのだという。
確認のため表紙の写真を撮り、教授のもとへメッセージとともに送った。教授からはすぐに「その文書で間違いない」との返事がきた。
「それにしても」家主が一冊手に取って言う。「よくそんなものがここにあるとわかりましたね。息子の私も把握してなかったのに」
「昔、ブログというのが流行った時代がありましてね。ウェブ上に書く日記のようなものです。お父上の郷土史研究仲間と思しき方が、ブログの中でこの『長濱家文書』のことに触れていたんですよ。その情報をうちの教授が掘り出してきたんです」
「なるほど」家主はページをめくって眉根を寄せる。「しかし、何が書いてあるのかさっぱりわかりませんな。おたくはこういうのが読めるんですか」
「いえ」私はかぶりを振った。「私はごく平凡な地震学者ですから、数式が並んだ論文ぐらいしか読み解けません。くずし字の翻刻は、もっぱらうちの教授が。古文書にかけては、だてに経験を積んでいませんからね」
車に古文書を積み込み、調査が終わり次第返却すると約束して家をあとにした。
一時間のドライブで大学の研究室に帰り着くと、さっそくオートスキャナーを立ち上げて、一冊セットする。
デスクの端末にログインするとすぐ、人工知能群を構成するAIの一つが合成音声で訊いてきた。
「『長濱家文書』か。全部で何冊ある?」
「三冊です」と私は答えた。「翻刻をお願いします、教授」
伊与原 新(いよはら・しん)
1972年大阪府生まれ。2010年『お台場アイランドベイビー』で横溝正史ミステリ大賞を受賞しデビュー。19年『月まで三キロ』で新田次郎文学賞を受賞。21年『八月の銀の雪』が直木三十五賞候補、山本周五郎賞候補に。他の著書に『ブルーネス』『オオルリ流星群』など。
〈「STORY BOX」2023年1月号掲載〉