▽▷△超短編!大どんでん返しSpecial▼▶︎▲ 加藤シゲアキ「真実は瞳に」

第32話
加藤シゲアキ
「真実は瞳に」
グレゴール・ザムザは予期しないかたちで巨大な虫になるという不条理な運命を辿ったわけだが、しかし夢から目覚めれば別種の生き物になっているというのは、最高の喜びじゃないか?
こんなろくすっぽ良いことなんてない人生、いつ終わったっていい。三浪して入った大学の授業は退屈だし、友達はいないし、いいなと思った女子からは必ず侮蔑の目を向けられる。就活もうまくいかないし、家族は離散状態だし、バイト先もクビになった。でも誰も悪くない。悪いのはなにもできない愚鈍な俺なのだ。
こんな人生はいつ終焉してもいい。その方がみんなもありがたいだろう。生きているだけで迷惑な存在というのはいるのだ。それこそ、害虫のような。
ただ死ぬのは怖い。痛いのも嫌だ。そういうわけで、だらだらと怠惰な生活を送り続けている。もはや害虫にでもなれた方が、生きがいがあるような気さえしてくる。
あまりの金欠で、大学の授業をサボってパチンコ店に入った。するとまさかの大当たり。信じられないほど玉が出てくる。人生最高の日だ。
自宅に帰っても興奮で海物語の音楽が鳴り止まない。ベッドに潜って瞼を閉じてもなお、目の前を魚たちが泳いでいく。タコ、ハリセンボン、アンコウ、カニ、サメ、カメ……生まれ変わるならどれがいいか、なんて考えてみる。海はさぞかし気持ちがいいだろう。こんな狭い家よりは絶対に。
そうして海のことを思いながら眠りについたが、夢に見たのは広漠のサバンナだった。
眩しく照りつける日差しの下、熱く乾いた地面を俺は信じられない速度で低く駆け抜けていた。自ら風を裂く音が耳元で鳴り、視界に映る景色はあっという間に後ろに流れていく。力などどこにも込めていないのに、まるで脚が六本あるような疾走感だ。なんという快感。鈍足の自分がこれほどのスピードを出せるなんてまさに夢――。
いや、これは夢ではない。光景も、匂いも、音も、皮膚に感じる温度も、どれもがあまりに現実的だった。
思わず足元に目をやる。そこにはトウモロコシのような色の毛に黒の斑点がいくつも並んでいた。そこに同じ柄の動物がやってきて並走する。
スマートな肉体。厳しくも鋭い目鼻立ち。開いた口から覗く牙は尖り、ざらついた舌がわずかに震えている。それは端麗な容姿を持つ、世界最速といわれる哺乳類だった。
なんと! 俺は虫ではなく、チーターになった!
止まると、隣のチーターもそうした。それから彼は薄っすらと微笑んだ。ネコ科は単独行動が基本のはずだが、どうやら友がいるらしい。
彼は遠方に目を向ける。視線の先ではガゼルが群れをなしていた。
友がうなずくやいなや、猛スピードで走り出す。知らず知らずのうちに自分も彼に続いて全力疾走し、ガゼルを目指していた。
二匹のチーターに気づいたガゼルたちは一斉に散らばっていく。その自分たちから離れようとするガゼルの姿に、優越感が一気に膨らんだ。
怯える瞳。必死に逃げる様。奴らは俺に慄いている。
これまでの人生、見下すような目線しか浴びてこなかった。そんな俺が畏れられるなんて。自分を馬鹿にしてきたあいつらも、今なら一瞬で首を噛みちぎれるだろう!
ガゼルはどうにか逃げ切ろうとするが、この俊足には敵わない。逃げ遅れた一頭に狙いを定めると、友とふたり、さらに足のスピードを上げてガゼルに飛びかかる。そのジャンプの高さたるや、羽でもあるのかと錯覚するほど。
ガゼルは抵抗するが、二匹のチーターに首を噛まれているせいでうまく呼吸ができない。必死に足をよじらせて暴れるもやがて倒れ、窒息した。俺と友はガゼルにむしゃぶりつき、口元を赤く汚す。
広大な自然で、仲間とともに強者として生きる悦び。これまで感じたことのなかった感動が全身に滾っていく。あぁ、俺が人生に求めていたのはこれだったのか。
しかし、そううかうかもしていられない。血の匂いを嗅ぎつけ、数匹のジャッカルが近づいてくる。捕らえたガゼルを横取りしようという算段だろう。追い払おうと威嚇するが、ジャッカルたちは離れようとしない。まったく煩わしい奴らだ。遠くからハイエナも向かってくる。あいつはかなりやっかいだぞ。
それでも俺は逃げない。今の俺は万能感で満たされている。血の一滴でもよこしてやるものか。かかってこい。打ちのめしてやる。ハイエナとジャッカルを交互に睨んでいると、空中から一匹の鷲が滑空してくる。くそっ、そっちからもか。
鷲は一直線にガゼルを目指している。そうはさせない。その羽を食いちぎって、二度と飛べないようにしてやる。
ガゼルの前に立ち塞がるも、鷲は怯まない。相手は俺の鼻先を攻撃しようと、顔に向かってやってくる。ならば、そのクチバシを捕らえてやろう。
まもなくだ。そして襲いかかろうとした瞬間、鷲の羽ばたきで土埃が舞う。思わず目を瞑る。うっ。やっちまった。これはまずい。抗いたいが、目をなかなか開けられない。
やばい。どうする。落ち着いたところで、そっと目を開ける。
なぜか俺は空にいた。地上では二匹のチーターがガゼルを貪りながら、ジャッカルとハイエナを牽制している。
身体を捻って目線を変えると、そこには先ほどの鷲がいた。その瞳に、クチバシに咥えられた一匹の虫が映る。えっ、と思ったときには俺はもう鷲の口の中にいた。
加藤シゲアキ(かとう・しげあき)
1987年生まれ。大阪府出身。青山学院大学法学部卒。NEWSのメンバーとして活動しながら、2012年『ピンクとグレー』で作家デビュー。21年、『オルタネート』で第164回直木三十五賞候補、第42回吉川英治文学新人賞受賞。
〈「STORY BOX」2023年6月号掲載〉