▽▷△超短編!大どんでん返しSpecial▼▶︎▲ 浅倉秋成「川縁にて」

超短編!大どんでん返しSpecial

第4話
浅倉秋成
「川縁にて」


 やがて東京湾へと続く真間川の川岸を下るやうにして二三里ほど歩くと、絶景と評すには些か地味なれど、梨畑が割れて遮るものなく青空の望める清々しい場所へと辿り着く。突き抜ける空から注ぐ陽の光が水面を飴細工のやうに複雑に煌めかせ、透き通る水底の小さな砂利のひと粒ひと粒まであらはにする。おれはその場で素足になり、此所に座れと千代を促す。

 千代に先んじて遠慮なく土の上に尻を乗せ、川の中へと足を沈み込ませて往けば、初夏の火照りと足の先に溜まつた怠さにも似た疲労が水の流れに乗つて静かに溶け出して往く。千代も、わあ冷たいなどと云ひながら足先で水面を一度つつき、やがて覚悟を決めたやうにずぶりと両足を預ければ、何か面白くなつた様子でうふふと口元を隠して笑ふ。

 昼餉にしてしまいませうかと、千代は家で拵へてきた握り飯を取り出し、その一つをおれに差し出す。云はねばならぬ事が有るのは判つて居ても、元来口下手なおれは如何しても言葉の取つ掛かりを見つける事が出来ず、意味もなく暑いな川が綺麗だな飯が旨いなと先延ばしの科白ばかりを口にする。

 何か話が有るんでせう。

 此の辺りの勘の良さは果たして女といふ生き物が生まれ持つ特性なのか、将又おれの様子が余りにも平生の其れと異なり過ぎて居る故なのか。切つ掛けを与えられれば押し黙り続ける事も敵わず、おれは今日で逢ふのは最後にしたいと告げる。其れは詰まり関係を終はりにしたいといふ意味かと問はれたのでさうだと返し、如何してですかと尋ねられたので、愛情の問題だと答へる。

 愛おしいと思ふ気持ちが徐々に、潮が引いていくやうに失せていつた。誰が悪い訳でもない。こればかりは己では如何とも御しがたい心の問題であるが故に、これから千代が何を如何してくれようが、反対に何を如何する事をやめようとも変はる事はない。足先から流れ出た一時の情念が、火照りが、流れ流され、やがて大海の雫の一粒と成つて霧散してしまふのと同じ事よとおれは辿々しくも説明してやる。

 おれは良い男ではなかつただらうから問題はないだらう。次はおれよりももう少しばかりましと呼べさうな男を捕まへたら良い。これ以上此の場に留まり続けても無用な情に絆されて居たたまれなく成るだけだと思ひ、のつそりと立ち上がると、千代は毬が弾けたやうにぷつと小さく吹き出した。

 何が可笑しいのかと質せば、千代はすべて知つてをりますと握り飯の続きを頬張りながら眩しさうに空を見つめる。遠くに行かれてしまうのでせう。何の事だとすつ恍ける事が出来たなら良かつたのだが、生憎とおれには演技力といふものが根本から備はつて居なかつた。図星を突かれながらも器用に立ち振る舞う事など出来はせず、おれは仏頂面のまま立ち尽くした。

 何処に行かれてしまうのですかと問われれば、もはや隠し通す事は出来ぬと諦めここから遥か西は摂津の方である事を伝へる。無論の事望んでの家移りではないが、お上に往けと云はれれば往かざるを得ないのが悲しき宿命である。

 なので千代とはもう一緒には居れぬ。すまぬ。おれの結論に千代は澄ました笑みを見せ、あなたは古風な堅物だからそういふ事を仰りますが、私は如何程の距離が離れていやうとも、あなたの事をお慕い続けますと健気な言葉でおれを困らせる。

 やはりおれは千代を愛してゐる。そう思へばこそやはり此所で別れを告げるべきだと判つては居るのだが、心が狂ほしい程に千代との離別を拒む。本当に大丈夫か、大丈夫でございます。待てるのか、待てます。何里の距離が有るのかも判らぬのだぞ、私は気になりませぬ。おれは右手を差し出して千代を川縁に立ち上がらせると包み込むやうにして抱擁する。おれは、おれと千代の選んだ道が果たして茨の道である事を判りながらも、矢張り此の温もりは手放せぬと心臓の高鳴りに身を任せる。

 きつと毎日手紙を書くぞと耳元で囁くと、あらやだと笑つた千代はそんなもの要りませぬわ。手紙でなくラインで連絡をくださいませ、それに週に一度は新幹線で会いに往きますわ。もう少しばかり正確に彼女の科白を書き起こすと──いや、普通にLINE頂戴よ。別に新幹線もあるしいつでも会えるでしょ。

 参つたなと頭を掻いたおれはウーバーでタクシーを呼び出し帰路に就く。

 全く、格好良く別れも云へぬ時代に成つたものである。


浅倉秋成(あさくら・あきなり)
一九八九年生まれ。二〇一二年に『ノワール・レヴナント』で第13回講談社BOX新人賞Powersを受賞しデビュー。著書に『フラッガーの方程式』『失恋覚悟のラウンドアバウト』などがある。最新作は『六人の嘘つきな大学生』。

〈「STORY BOX」2021年8月号掲載〉

今月のイチオシ本【ノンフィクション】
◎編集者コラム◎ 『ヒロシマ・ボーイ』著/平原直美 訳/芹澤 恵