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大どんでん返しスペシャル

第9話
野﨑まど
「皇帝」


 侍女が恭しく部屋の清掃の許可を求めた。姿見の前に立つ男は一瞥もくれずに促す。掃除などどうでもよかった。頭の中は今なお続く戦争の始末と、自身の進退でいっぱいであった。

 一九一八年十一月。

 ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世は窮境に立たされていた。

 遡ること四年前、一九一四年より始まった第一次世界大戦はヨーロッパ全域を炎に包み込んだ。激しい戦火の中でヴィルヘルムが治めるドイツもまた疲弊していた。長引く食糧不足、増員され続けるアメリカ兵力、敗色はもはや誰の目にも明らかであった。

 同時に国内では困窮した市民が蜂起し、ヴィルヘルムの退陣を求めるデモが全国に広がっている。皇帝は廃位しろ、帝政打倒すべし……。研ぎ澄まされた革命の刃が彼の喉元に迫っていた。

 それでもなお、姿見に映る男には、未だ王者の威厳が残されている。

 齢五十九を数える男の顔に、勲章の如き口髭が佇む。整えられた八の字、その裾野が天に向かって反り返っている。それは彼の異名《皇帝カイゼル》を冠して後世に《カイゼル髭》と称される、皇帝の威光そのものである。

 ヴィルヘルムは心を静め、自身と向かい合った。終わってはいない。まだ逆転の余地が残されている。

 彼は今日、前線たるベルギーの大本営を発ち、祖国はベルリンを目指す。そこで数十万の市民に向けて演説を行うつもりでいた。革命の熱をそのまま自身の支持へと変えるために。不安はない。世界覇権政策ヴェルトマハトポリティークを打ち出した時も、ロシアに宣戦布告をした日も、国民を導いたのは常に皇帝の言葉カリスマであったのだから。

 卓上の剃刀を取り上げて再び姿見に向かう。髭だけは必ず自分で整えると決めていた。男は口元に刃を当て、そうしてふと思う。

 今この髭を片方だけ剃り落としたらさぞ大変なことになるだろう……。

 想像が広がる。怒れる市民の前に髭が片方しかない皇帝が現れる。嘲笑と罵倒の嵐が吹き荒れ、石が飛び交い、壇上を引きずり降ろされ、皇位を剥奪され、小突かれ、子供に馬鹿にされ、シュタイフ社から片髭のテディベアが売り出されることだろう。

 そんなことがあってはならない。髭が無くなればドイツが終わる。つまり絶対に剃り落としてはいけないのだ。絶対に。絶対にだ!

 やってしまった。

 床に落ちた片髭を呆然と見下ろす。理由はわからない。知らぬ間にストレスが溜まっていたのかもしれない。ほぼそのままの形で横たわる髭が、皇室御用達の剃刀の切れ味を物語っていた。拾って貼り付ければなんとかなるかもしれない。

「失礼しまぁす」

 侍女の無慈悲な箒が髭を連れ去った。男の手から滑り落ちた剃刀の光は、帝政の終わりを告げる儚い流星のようだった。

 

 黒いブーツが祖国の土を踏みしめる。

 ヴィルヘルム二世はドイツへと戻っていた。だが向かった先は首都ベルリンではなく、ドイツ中央部・ブロッケン山を取り巻く深い森の中である。

 王家の伝承によれば、この森に本物の魔法使いが住んでいるという。

 彼はそのような荒唐無稽な話を信じる人間ではなかった。だがもう魔法にでも縋る他ない。すぐに髭を生やさなければ全てを失ってしまう。

 はたして男が暗い森を分け入ると、霧の向こうに古びた小屋が現れた。戸を叩けば中から薄汚れた老人が顔を出す。

「貴殿が伝説の魔法使いか」

「へぇ」

 老人が答える。その風体は貧しい農夫にしか見えない。

「魔法使いらしくないな……もっとこう、ローブとか、帽子とか……」

「仰る通りで。いやあたしもね、見た目で判断されることが多いもんですから、仰々しいローブだのそれっぽい帽子だのが欲しいなと常々思っちゃいるんですがね。いざ探しますとしっくり来るやつが中々……」

「いや、いい。大丈夫。魔法使いに見える。それより頼みを聞いてくれ」

 ヴィルヘルムは小屋の中で事情を話した。老人は苦い顔をする。

「髭を生やす魔法はございやせん」

「無いのか、本当にか」

「うちの魔術書にはねぇですな。けど旦那、もっと凄い魔法ならございやすよ」

 老人は一冊の古文書を持ち出してきた。

「これはあたしの一族に伝わる秘義中の秘義、一度きりしか使えない大魔法、《望むものを何でも手に入れる魔術》です」

「なんだと。それで髭が手に入るのか? 捨てられてしまった私の髭が」

「時を超え、場所を超え、世界の枠組みすらも超えて遍くものに手を伸ばす秘術でさぁ。旦那が髭を剃り落としてから掃き取られるまでの一瞬の間、そこを突いて髭を掴み取ってみせやしょう」

「頼む、ドイツを救ってくれ」

 老人が本を開く。描かれた魔法円に向けて怪しい呪文を唱え始める。

ダイド開けンデ闇のンガエシ……ダイド開けンデ闇のンガエシ……」

 魔法円の中央に暗い穴が開かれていく。老人はその穴に右手を差し入れ、最後の呪文を叫びあげた。

ウエノ時を超えタイトル望みのロゴノ物を【シ】ノ我がトコロ手に!」

 老人が息を呑む。

「掴んだ! 手応えありでさぁ! これが旦那の髭にちげぇねぇ!」

「見事なり! これで帝政ドイツは救われる! 皇帝よ永遠なれ!」

 引き抜かれた手に握られていたのは、それっぽい魔法使いの帽子だった。

 ヴィルヘルム二世はオランダに亡命した。


野﨑まど(のざき・まど)
二〇〇九年『[映]アムリタ』で第一六回電撃小説大賞《メディアワークス文庫賞》を受賞しデビュー。『know』で第三四回日本SF大賞にノミネート。『バビロン』がTVアニメ化したほか、映像作品の脚本も手掛ける。最新作は『タイタン』。

〈「STORY BOX」2021年12月号掲載〉

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