深明寺商店街の事件簿〈四兄弟編〉第1話後編 井上真偽


(前編のあらすじ)深明寺坂で交通事故が起きた。運転手は焼き鳥の串を喉に刺し死亡。唯一の目撃者は小学生の良太で、事故直後、車の屋根越しに人影を見たという。良太の様子に不審を覚えた兄の福太と学太は、事故の検証に乗り出した。


 

 翌日の授業にはあまり身が入らなかった。さらにその翌日、週末の土曜になると、福太(ふくた)は学太(がくた)と二人で袴田(はかまだ)商店に向かった。学太が事故の謎を考えるにあたり、現場検証もしてみたいと言ったからだ。

 福太も良太の様子や消えた人影のことが気掛かりで、テスト勉強が手につかなかったので──というのは半分現実逃避の言い訳だが──その提案に賛成し、袴田夫妻の見舞いも兼ねて、同行することに決めたのだった。

「あらあー。お兄ちゃんたち。どうしたの、休日のこんな早くに」

 午前中、良太を地元のサッカークラブの練習に送った足で袴田商店に寄ると、ちょうど小柄な老婦人がゴミ袋を抱えて店から出てくるところだった。店主の妻、加代子(かよこ)。夫婦はともに七十歳近くで、彼女の髪には白いものも目立つ。

「おはよう、おばさん。おじさんの調子はどう?」

「まだ駄目だねえ」福太の挨拶に、加代子はケラケラと笑う。「今日も奥で寝てるよ。あの人も歳かねえ。今回のことで、すっかり気持ちがまいっちゃって」

 袴田夫妻の状況については、すでに元太(げんた)が代表して電話で確認していた。奥さんのほうは無事だったが、旦那の久光(ひさみつ)のほうが寝込んでしまっているという。もっとも事故の直接的な影響は割れたガラスで指先を切った程度で、寝込んだ理由は主に精神的なショックによるものらしかった。

 事故現場となった店の前を確認すると、事故車はすでに撤去されていた。その代わり黄色いテープがそこかしこに張られ、全壊した正面ガラス戸手前の駐車場付近には、いまだ大小のガラス片が散乱している。

「お店、やっぱりまだ再開してないんですか?」

 学太が「準備中」の札が掛かった入り口を見やりつつ、心配そうに訊ねる。開店時間の十一時に合わせて訪問したつもりだが、まだ店は開いていない。

「ううん」加代子は少し下がると、ドアの札をくるりとひっくり返した。「ちょうど今、開けようとしたところ。中の商品は無事だったからねえ、お店はもう昨日から開けてんのよ。──それで、お兄ちゃんたちの御用はなんでしょうね? もしかして、うちで買い物?」

「あ、いや、俺たちは──」

「悪いねえ。そんな気を遣ってもらっちゃって。ちょっと待っててね、今このゴミ出してきちゃうから。あんまり早くに出しすぎると、カラスに狙われちゃうのよ。それでいつも、時間ギリギリに出すことにしてんの」

 耳が遠いからだろう。加代子はこちらの返事に構わずにそう一方的にまくしたてると、そそくさと道路脇のゴミ捨て場に向かって行ってしまった。

 福太は学太と顔を見合わせ、苦笑する。まあこの加代子との噛み合わない会話もいつものことだ。夫婦は最近老いの兆候がやや目立ってきていて、先週も久光が配達中に腰を痛めた。落ちた物もろくに拾えないほどのギックリ腰で、それは今もまだ治っていないそうだが、それでも事故前まではレジには立っていたらしいので、やはり寝込んだのは気持ちの問題なのだろう。

 そんなことを考えているうちにも、ゴミ収集車の音楽が近づいてきた。加代子の足が速まり、近くの電柱や屋根の上から黒いカラスたちがガアガアと抗議の鳴き声を上げる。

 店内は予想以上に綺麗だった。窓辺の床にガラス片の名残がわずかに反射して見えるくらいで、そのほかは以前とほとんど変わっていない。車が衝突した正面ガラス戸には内側に日除けのロールスクリーンが下りていて、それが事故のときにガラスの飛散を防いでくれたようだ。

「最近のゴミ収集車は気が早いねえ。危うく出し遅れるところでしたよ」

 そんなことをぼやきながら、加代子が戻ってくる。ぱちりと照明のスイッチを入れる音がして、青白い蛍光灯の光が商品棚を照らした。

 加代子がキョロキョロと左右を見回しつつ、訊ねる。

「ところで、良ちゃんは? 今日はお兄ちゃんたち二人だけ?」

「良太(りょうた)はサッカーの練習中です。実はおばさんに、良太に内緒で訊きたいことがあって……」

「良ちゃんに内緒で? あらま。何の話でしょ」

 福太たちは加代子に、良太の様子がおかしなことを手短に説明する。地元のサッカークラブに所属する良太は、毎週土曜日の午前中、JR深明寺(しんみょうじ)駅周辺の自然公園にあるサッカー場で練習をしていた。それでその隙に、福太たちはこっそり袴田商店を訪問したのだ。もし兄たちが店に行くと知ったら、良太は自分も一緒に行くと言い出したに違いない。

「ふうん。良ちゃんがねえ」

 話が終わると、加代子は頬に手を当てて考え込んだ。

「確かにあの子、警察の人に何かを見たって言ってたみたいだけど。でもあの正直者の良ちゃんが、そんな隠し事なんてするかねえ……」

 口ぶりに愛情が滲む。母親の死後、まだ離乳食も終わっていない良太の面倒を何かと見てくれたのがこの加代子だった。袴田夫婦と福太の一家は長い付き合いで、母親が深明寺坂にスケッチのため通い詰めていたころに知り合ったらしい。両親を早くに亡くした母親は加代子を実母のように慕っていて、袴田夫婦にも子供がいなかったため、妊娠時には本当の娘のように世話を焼いてくれたそうだ。

「良太は事故について、目撃証言以外にも何か言ってませんでしたか?」

「どうだったかねえ」加代子は店奥に座り、古びたレジ台に片肘をつく。「このところ、物覚えにはめっきり自信がなくて。それにあのときは私も、配達に出てたから。配達が終わったところで旦那からの連絡に気付いて、慌てて店に戻ったのよ。
 そしたら良ちゃんが、警察のパトカーに乗せられてやってきたでしょ。私はもう驚くやら何やらで、とりあえず警察の人に、良ちゃんを落ち着かせてくださいって言われたもんだから。それで私、こうあの子を抱きしめてやって、大丈夫ようってあやして……」

 何かを抱く仕草をしながら、加代子が優しげに目を細める。福太たちはその様子を黙って見守った。愛情深い加代子の表情に、遠い記憶が重なる。

 するとそこで、ボーンと低い鐘の音が鳴った。

 思いのほか大きな音に、福太はビクリとした。レジの後ろにある、柱時計からだった。時鐘を鳴らすタイプのもので、今のは時刻ではなく、間の三十分を告げる一つ鐘らしい。

「……そういえば」

 と、加代子は首を捻って柱時計を振り返りつつ、呟く。

「これは関係あるのか、よくわからないけどねえ……実は私、事故の少し前に、良ちゃんと一度会ってるのよ。このお店の前で」

「「え?」」

 福太たちは同時に訊き返す。良太と事故の前に──会っている?

 学太が前のめり気味に訊き返した。

「あの日、良太がこの店に立ち寄ったんですか?」

「立ち寄ったっていうか、良ちゃんは普通に、店の向かい側の歩道を歩いてて。私はそのとき、配達の途中で。深明寺坂をバイクで下っていたとき、ちょうどそこの店の前あたりで良ちゃんとすれ違ったもんだから、『あー良ちゃん!』って私が手を振ったら、良ちゃんも気付いて手を振り返してくれたの。『あー!』って元気よく──」

 そこで加代子はふと言葉を止めると、悪戯っぽい表情でちらりと舌を出す。

「あ……、今の話、うちの旦那には内緒ね。バイクの運転中は気を抜くなって、口うるさく言われてんの。また大目玉食らっちゃう」

「それは、事故よりどれくらい前のことなんですか?」

「さあねえ、私も細かい時間までは……。ただ、私が配達に出たのが、そこの時計がボーンと鳴った午後二時半のことだったから。それで思い出したのよ」

「店を出てすぐ、良太を見かけたわけじゃないんですか?」

「ううん。お恥ずかしいことに私、一度配達先を間違えちゃってね。それで戻ってきて店の前を通ったときに、良ちゃんを見たの。そこの間違えたお宅が、ここからバイクで十分くらいのとこだったから──だから、ええと──」

「往復で二十分。つまり午後二時五十分くらいに、おばさんはこの店の前を再び通ったってことですね?」

 学太が素早く答える。加代子は目をパチパチ瞬かせると、「さすが学ちゃん、計算が早いねえ」と感心したように頷いた。

「……事故が起きたのは午後三時ごろ。つまり良太は、事故の十分くらい前に一度お店の前を通り過ぎて、また戻ってきたってことか。なんでそんな動きをしたんだろう?」

「うーん……なんでかねえ。学校に忘れ物でもして、それを取りに戻ろうとしたのかねえ……」

 福太も考え込む。確かにそれはあり得る話ではあるが、しかしもしそうなら、別に隠すような話でもない。正直な良太ならいつ事故を目撃したのかと訊かれて、「帰る途中」ではなく「学校に忘れ物を取りに戻る途中」と答えていたはずだ。

 ううむ、と三人で唸りながら額を寄せあった。時折加代子に当時の状況についての質問を投げつつ、良太と人影の謎についてあれこれと議論しあう。だがすっきりした答えは出ず、ただ店内に静かに響く柱時計の音だけがコチコチと虚しく時を刻んだ。

 話も行き詰まったころ、ふと加代子が顔を上げ、一オクターブ高い声を出した。

「あらあ、園(その)ちゃん」

 入り口のガラス戸が開く。同時に、ぷうんと強めの香水の匂いが風に乗って漂ってきた。

 振り返ると、化粧の濃い五十代ぐらいの女性が立っていた。

 その顔を見て、福太と学太の表情が同時に強張る。

 深明寺商店街にある高級宝石店、「ジュエリー神山(かみやま)」の店主・神山園子(そのこ)。

 銀座のホステスのような出で立ち。化粧映えのする顔で、髪も明るく染めているため遠目には若い女性っぽくも見える。だが近づくと顔と首の皺が目立ち、年相応といった感じだ。濃いアイシャドウと真っ赤な口紅がなかなかに強烈で、良太は陰で「魔女オババ」とあだ名をつけている。

 歩きながらラジオでも聴いていたのだろう。神山は耳からイヤホンを外すと、店内を見回しながら中に入ってきた。

「驚いたね。加代子さん、もう店を開けてんのかい。しばらく休業しときゃあいいのに」

「なんのなんの」加代子は笑顔で応じる。「うちみたいな小さい店でも、閉めたら困るお得意さんもいるからね。老体に鞭打って働いてんの」

「御苦労なことだね。まあおかげで、こっちも気兼ねなく注文できるってもんだけど──ああこれ、お供え物」

「お供え物?」

「酒の注文ついでに、仏前に供えてやろうかと思って。塩大福でよかったかい。旦那の好物」

「ヤだねえ。あの人はまだ死んじゃいないよ──奥の座敷でぐうたらしてるから、尻でも叩いてやって」

 加代子がケラケラと笑う。神山も目尻を下げると、レジのほうにやってきて手土産を加代子に手渡した。そこでふと足を止め、近くにいた福太たちを振り返る。

「おや。アンタらは確か、絵描き屋の娘んところの……」

 福太は硬い声で答える。

「木暮(こぐれ)です」


井上真偽(いのうえ・まぎ)
神奈川県出身。東京大学卒業。二〇一四年『恋と禁忌の述語論理』でメフィスト賞を受賞しデビュー。一八年『探偵が早すぎる』がドラマ化され話題に。著書に『その可能性はすでに考えた』、『ベーシックインカム』、『ムシカ 鎮虫譜』などがある。

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