深明寺商店街の事件簿〈四兄弟編〉第1話前編 井上真偽


 

「なんだ、この唐揚げ。めちゃくちゃ旨え」

 弁当箱の蓋を開けるなり、貴重な唐揚げの一つが横からかっ攫われた。

 声を上げる間もなかった。それどころか、盗っ人が放った一言に、格技場で昼飯中だった剣道部仲間が「何」と一斉に目を光らせる。ゾンビ映画のようにわらわらと周囲から手が伸びた。木暮福太(こぐれふくた)は慌てて弁当を死守しようとするが、一瞬遅く、あっという間に主菜の大部分が餓えたハイエナどもの餌食になる。

「おお。マジで旨え」

「肉汁がすごい。冷めてんのに、ジューシー」

「衣もスパイシーだな。この唐揚げ粉、どこのメーカーのよ?」

 口々に賛嘆の声が上がる。一方で福太は言葉を失くし、弁当箱に一つだけ残った唐揚げを呆然と見つめた。──おいおい、ふざけんなよ。メインのおかず、あれしかねえんだぞ。残り一個でどうしろっつうんだよ?

 鷹橋圭人(たかはしけいと)──福太と同じクラスで、最初に唐揚げを盗んだ張本人──が、端正な顔立ちにそぐわぬ意地汚さで、じっと箸を咥えて福太の最後の鶏肉を物欲しげに見やった。

「この唐揚げ粉って、市販のやつ?」

「さあ……。知らね」

「お前が作ったんじゃねえの?」

「そんなわけねえだろ。兄貴のお手製だよ」

「あのイケメン兄貴か。確か、フレンチの有名店で修業してたんだっけ──何。お前の弁当って、いつも兄貴が作ってんの?」

「たまにだよ」

 福太は仏頂面で言い返す。圭人はふーんと相槌を打ちつつ、未練を断つように自分の弁当箱に目を向けた。カラフルな色合いのおかずに、白飯には某有名ゲームのハムスターっぽいキャラクターの形に切り抜かれた海苔がのっている。高校になっても母親がキャラ弁作りを止めてくれないそうだ。最初こそ恥ずかしそうに隠していたが、今は開き直って堂々と公開している。

「いいよなあ、福太は」

 すると二番目に手を出した小太り男──一見鈍重そうだが剣道では意外に動きが素早い、同じ二年の蓮見卓朗(はすみたくろう)──が、心底羨ましそうな顔つきで言った。

「身内にプロの料理人がいてさ。俺の母ちゃん、いわゆるメシマズ嫁ってやつでさあ。昨日の晩飯、カレーだったんだけど、あんなの肉と野菜を炒めて煮て、市販のルーをぶち込むだけじゃん。なのになんでここまで不味く作れんの、ってくらい、劇的な不味さで──」

 無意識に福太の表情が曇った。それに目ざとく気付いた圭人が、「おい」と小声で卓朗に囁いてそのたるんだ脇腹を小突く。

 卓朗はハッとした顔で、ちらりと福太を見てから慌てて謝罪した。

「ご、ごめん。福太」

「──何がだよ?」

 福太は苦笑する。努めて気にしてない素振りで、最後に残った唐揚げを箸で突き刺す。そうして上半分が空になった弁当箱を部活仲間に見せつけながら、恨みがましく言った。

「それよりこれ、どうしてくれるんだよ。おかずがなくなっちまっただろ。下敷きのレタスとプチトマトで、どうやって残りの白飯食えって言うんだよ」

「ああ。悪ィ悪ィ」

 圭人は軽い調子でそう答えると、自分の弁当箱からおかずを一品、無造作に選んで福太のそれに放り込む。それを見て、ほかの連中も次々とおかずを寄付し始めた。冷凍食品らしきミニハンバーグ。卵焼き。ウインナー。エビシュウマイ。変わった具の春巻き、何かの白身魚の西京漬け、チーズの角切りを餃子の皮で巻いて揚げたもの──。

 ……何弁当だよ。

 福太は再度苦笑する。だがともかく、これでおかずの目途はついた。一安心し、箸の唐揚げにようやくの思いでかぶりつく。

 衣に歯を立てると、まずさっくりとした歯ごたえがあり、次いで中からジュワッと肉汁の旨味が溢れ出した。鶏肉は冷めているのに芯まで柔らかく、漬け込んだにんにく醤油と衣に混ぜたハーブの香味が、口の中でえも言われぬ絶妙な風味を醸し出す。いまさらながら、とんでもないものを奪われてしまったと軽く後悔した。

 ──ちくしょう。やっぱり旨いな、兄貴の唐揚げは。

 

 深い杉林の間に、長ったらしい石段が続く。

 下校途中にある、山寺の階段。福太が通う高校の名前の由来にもなっている、深明寺(しんみょうじ)の参道だ。数え方にもよるが、最長で千段以上にもなるらしい。近隣の運動部の基礎体力作りにもよく使われていて、福太の剣道部も週二で筋トレメニューに加えている。通称「無限階段」──昔の先輩方は毎日基礎練でここを全段往復していたらしいが、狂気の沙汰だ。

 太腿の筋肉に若干の張りを感じ始めたころ、ふと前方に見覚えのある背中が見えてきた。

「学太(がくた)」

 思わず呼び止める。小柄な体がぴくんと跳ね、恐る恐るといった様子でこちらを振り返った。色白の小顔に、トンボのような大眼鏡。相手はその眼鏡の下から警戒の眼差しをじろりと向けると、すぐにフッと表情を緩めた。

「なんだ。福太か」

 上の弟の、学太だ。

 地元の深明寺中学校に通う中学二年生。その名の通り見た目はいかにも賢そうで、実際成績もいい。そのぶん小賢しい口を利くので兄としてはあまり可愛げがないのだが、世間一般にはどうやら愛嬌のある顔立ちらしく、近所の主婦や女子学生からは「笑うとカワウソみたいで可愛い」と非常に評価が高い。本人もそれを自覚しているのか、家族と他人の前とでは露骨に態度が違って、それもまた腹立たしい点の一つだ。

「お前も、今帰り?」

「うん」

「書道部は?」

「今日は定休。福太は?」

「テスト休み。部活なし」

「ああ、そうか。深明寺高校って、もう来週中間テストなんだ。福太、全然勉強してないからわからなかったよ」

「うるせえ。ほっとけ」

 パシッとサラサラ髪を叩く。いってえ、と学太が唇を尖らせてこちらを見た。いいんだよ、俺は。お前みたいに、頭の良さが売りってわけじゃねえんだから──と言っても別に運動が得意なわけでもないので、つまりは単に取り柄がないということなのだが。

 福太は乱暴者だな、まったく──などと学太はぶつぶつ呟きつつ、持っていた本を再び顔の前に掲げる。どうやら歩きながら読書をしていたらしい。階段でバランスを崩さないよう顔を上げているせいか、妙に姿勢がいい。背中に四角いリュックタイプの学生鞄を背負っているので、ちょうど薪を運ぶ二宮金次郎像のようだ。

 隣に並んでジロジロ横顔を見ていると、学太が鬱陶しそうな目を向けてきた。

「なに?」

「いや……」

 妙な気まずさを感じて福太は視線を泳がす。──あれ? 俺ってこいつが小学生のころ、どんな会話してたっけ?

「ええと……ああ。そういやお前、今日の弁当食べた?」

「そりゃ、食べたよ」

「すげえ旨くなかった? あの唐揚げ」

「ああ。あれは美味しかったね。さすが元太(げんた)はプロの腕前だ」

「あれ、どうやって作ったんだろうな?」

「たぶんフレンチの技法じゃないかな。コンフィかなんか……」

「コンビーフ?」

「……コンビーフぐらいでちょうどいいかもね。福太には」

 やんわりとバカにされたことはわかった。というか、こいつにとってコンビーフは格下扱いの食材なのか? あれ、結構高いし旨いんだぞ。今度兄貴に頼んで、コンビーフ丼でも作ってもらうか。

 そんなことをつらつらと考えていると、遠くからピーポーと救急車のサイレンが聞こえてきた。

 視線を上げる。サイレンは左手の杉林の向こうから聞こえていた。その音は徐々にボリュームを上げて接近してくると、突然ピタリと途絶える。

「……事故かな?」

 学太も気付いて、音の方向を眺める。

 杉林の合間には、ガードレールのある車道がちらりと見えた。深明寺坂だ。この深明寺は小高い山の上にあり、その敷地の西側に沿うように長い坂が続いている。

 かつては山頂の寺に向かう裏参道として栄えたらしいが、今はすっかり寂れて人通りも絶えていた。なんでも福太が生まれる前に、もう一本新しい国道の坂が近くにできたらしい。そちらのほうが安全で利便性も高いため、人も車も新道に流れて行ってしまったという話だ。確かに福太もあの坂は高校に遅刻しそうなときに自転車で駆け下りるくらいで、滅多に使わない。

「袴田(はかまだ)さんのお店のあたりだ。大丈夫かな、袴田さん……」

 学太が心配そうに言う。旧坂の中腹に、福太たち家族が懇意にしている個人商店があった。サイレンのあとはすっかり静まり返った坂の様子に、福太も軽い胸騒ぎを覚える。

「……どっちかが、病気で倒れたってことはないよな?」

「え?」

「袴田のおじさんかおばさん。二人とも、もういい歳だろ」

「どうだろう。そっちの理由もありえなくもないけど──ああ、でもそういえばちょっと前に、ドーンッて何かがぶつかるような音を聞いたんだ。あのときは音が遠かったから、あまり気にしてなかったけど。あれがそうだったのかも」

「なら、やっぱり交通事故か。──だとすると、また変な噂が立ちそうだな」

「変な噂?」

「桜幽霊。また幽霊坂で事故が起きたって、面白おかしく騒ぎ立てる連中が出てきそうだ」

「ああ……」

 交通量の少なさにも拘わらず、深明寺坂は事故の多い坂だ。その手の場所にはたいてい怪談話がつきものだが、この坂にもご多分に漏れず曰く付きの話があった。それが「深明寺坂の桜幽霊」だ。

 その怪談の由緒は古く、なんと江戸時代まで遡るらしい。なんでも深明寺に巡礼に来た武家の母娘が、この坂で暴漢に襲われ、桜並木の下で惨殺されたのが事の始まりだという。それ以来桜の季節になると、この坂に女の幽霊が現れては通りすがりの者を呪い殺すという噂が立つようになった。もっともその殺し方は時代とともに移り変わり、現代では車の運転手の注意を引いて事故を起こさせるという形をとっている──江戸時代とは交通事情が異なるので、当然といえば当然の変化だが。


井上真偽(いのうえ・まぎ)
神奈川県出身。東京大学卒業。二〇一四年『恋と禁忌の述語論理』でメフィスト賞を受賞しデビュー。一八年『探偵が早すぎる』がドラマ化され話題に。著書に『その可能性はすでに考えた』、『ベーシックインカム』、『ムシカ 鎮虫譜』などがある。

「拾う人」森絵都
内田 樹、内田るん『街場の親子論 父と娘の困難なものがたり』/思想家と詩人の親子が綴る家族の歴史