深明寺商店街の事件簿〈四兄弟編〉第1話前編 井上真偽


 なので深明寺坂は別名、幽霊坂とも呼ばれていた。怪談話が出たついでに弟の顔をじっと見守っていると、学太は福太の視線に気付き、不愉快そうに眉をひそめる。

「なんだよ、福太?」

「いや……」福太は目を逸らす。「反応が薄いな、と思ってよ」

「何が?」

「お前って苦手だっただろ、昔。こういう怪談話」

「はあ? だから何。いったい今の僕を何歳だと思ってんだよ。深明寺坂で事故が多い理由なんて明白だろ。あそこは上り坂が途中で一部下り坂になってて、上りでアクセルを踏み込んだ車が下りでスピードを出し過ぎ、カーブを曲がりきれずに事故を起こすんだよ。袴田さんがそう説明してなかったっけ?」

 上の弟は怯え顔どころか、愚か者を蔑むような目でこちらを見た。福太は肩をすくめて内心鼻白む。──なんだよ、つまんねえの。少なくともこいつが下の弟くらいのときは、口では今と似たようなこと言いながら、必死に俺の服を掴んで放さなかったのに。

「第一あれ、桜の季節に出るって設定の幽霊だろ。桜なんてもうとっくに散ってるじゃないか。そのへんもたぶん、桜に気を取られて脇見運転する人が多い、っていうのが原因だと思うけど──とにかく、今はそんなことより袴田さんのほうを心配しなよ。今のはちょっと不謹慎だよ、福太」

「お、おう……すまん」

 つい謝ってしまった。福太の肩がしゅんと縮む。揶揄いがいがなくなっちまったなあと嘆くと同時に、ふと下の弟──良太(りょうた)の存在が恋しくなる。あいつならきっと、いい反応を返してくれるのになあ。

 チチ、と鳥のさえずりが聞こえた。サイレンが消えて一段と静寂が深まったように感じる山寺の石段を、弟と肩を並べて無言で上る。向こうに会話する気がないなら、としばらく無視を決め込んでいたが、沈黙が続くとどうにも口のあたりがムズムズし始めた。相手が自分に関心がないとわかると、ついこちらからちょっかいを出したくなる性格らしい。──猫か、俺は。

「……ところでさ、学太」

「なに?」

「それ、何読んでんの? 教科書? 小説?」

「漫画」

 漫画か。ちらりと横から覗き込むと、確かに福太もよく知っているキャラクターが載っていた。少し安心する。一応こいつにも、人並みに娯楽を楽しむ精神はあるってことか。

「それ、コナンの新刊? 読み終わったら貸してくれよ」

「いいけど、福太にはちょっと退屈だと思うよ」本のカバーを外し、ちらっと表紙を見せる。「これ、コナンで歴史を学ぶ学習漫画だから。図書室にあったから試しに読んでみたら、ちょうどいい感じに今度の中間テストの範囲がまとまっててさ。今、まとめて覚えてるところ」

 福太の足が止まった。学太は何喰わぬ顔でカバーを戻すと、またピンと背筋を伸ばした読書姿勢で階段を上りだす。その後ろ姿を唖然と眺めた福太の口からやがて、はあ、と盛大な溜息が漏れた。

 ──やっぱ二宮金次郎だわ、こいつ。

 

 学太と自宅のマンションに戻ると、扉の前に誰かがいた。ふわりとした茶髪に、膝丈までのチェックのワンピース。足元はお洒落なサンダルだが、曲げた腕にはこれからピクニックにでも行くかのように布のかかったバスケットを提げている。

 千草(ちぐさ)さんだ。

 近所の女子大に通う大学生。学太の通う塾でアルバイト講師もしている。

「学太くん……に、福太くん」

 頬に人差し指をあてながら扉と睨み合っていた彼女は、福太たちに気付くとすぐに親しげな笑顔を向けた。その眠たげな二重の目に、福太の心臓がドキリと高鳴る。だが同時に、自分の名が弟のあとに呼ばれたこと、そして名前を思い出すまでに若干のタイムラグがあったことにも気付き、胸にほろ苦さが広がった。

「こんにちは。竹宮(たけみや)先生」

 学太が一瞬怪訝な顔をしつつも、礼儀正しく頭を下げる。

「うちに、何か用ですか?」

「──え? ああ、うん。ちょっと待って」

 千草は我に返ったようにバスケットをゴソゴソ漁ると、中から細い小物を摘まみ上げた。

「はい、これ。学太くんのでしょ。塾の教室に忘れてたよ」

 ボールペンだった。ノックの部分が小さな地球儀になっている。学太はそれを眼鏡越しに注視すると、やがてああ、とやや拍子抜けした顔を見せた。

「はい、僕のです。これはどうも、わざわざありがとうございます」

「どういたしまして。変わったボールペン持ってるなあって思ってたから、すぐに持ち主がわかっちゃった。それでその、ついでにってわけでもないんだけど──これ」

 バスケットの布をチラリとめくる。ぷうんと食欲を誘ういい匂いがした。甘いバターの香りに、炒めたたまねぎや焼けた肉の混ざった匂い。

「……何ですか、これ?」

「シェパーズ・パイ」

「シェパーズ……?」

「覚えてないかな。ほら、去年の夏期講習のとき、英語の問題にこれが出てきたでしょう。そのときシェパーズ・パイがどんなものかよくわからない子がいて、私が上手く説明できないでいたら、学太くんが代わりに説明してくれて。そのとき学太くんが、お母さんがよく作ってくれた思い出の料理だって……」

 学太の顔が曇った。

「ああ。そういえば、そんな話をしましたっけ」

「あのとき私、なんだかジーンとしちゃって。それでね。私、実は大学で管理栄養学を学んでるんだけど。それで今度調理実習の実技テストがあって、その練習でシェパーズ・パイを作ったから、そうだ! って思い出して持ってきたの。いきなり自宅におしかけて迷惑かなとも思ったんだけど、学太くん、今年から特進コースに行っちゃったから。なかなか塾で会う機会も少ないし。
 味はもちろん、お兄さんには敵わないけどね。でも、まかせて。その代わり、栄養の計算はバッチリだから。管理栄養士としての意地。プロの味より、お袋の味を目指しました──なんちゃって」

 色白の頬をうっすら赤く染めながら、怒涛のような早口でまくしたてる。その必死に弁解する様子を、不覚にも可愛いと思ってしまった。不慣れな冗談をつい口にしてしまうほど、気持ちが舞い上がっているらしい。

 マシンガンのような言葉の銃弾が止んだ。千草はふー、と目を閉じて深呼吸すると、桜色に火照った顔を手で扇ぎつつ、玄関のドアを見やる。

「ところで……お兄さん、留守かな? さっきからチャイムを鳴らしてるんだけど、誰も出てこなくて。お店のほう、今日はお休みって聞いたんだけど」

「兄貴ですか? 兄貴ならたぶん、まだ中で寝て──」

 福太が答えようとすると、学太にガンと脛を蹴られた。痛ッ、と顔をしかめた隙に、学太に横から発言を奪われる。

「元太は今日、遊びに行っています。帰宅は夜になると思います」

「あっ、そうなんだ……。デート?」

「さあ、そこまでは僕もよく……」

「そっか。そうだよね。家族でもプライバシーがあるし……。でも元太さん、今は彼女いないって言ってたから、地元の友達とかかなあ。元太さんの母校って、確か深明寺高校だったよね。あそこって男子校って聞いたけど、本当?」

「はい」

 目の前にそこの制服を着た男子がいますよ、と冗談めかして言おうかと思ったが、その後の惨めな気持ちを想像してやめた。学太はとめどない千草の台詞を遮るように前に出ると、バスケットを受け取り、中身をじっと上から覗き込む。

「これを、元太に渡せばいいんですね?」

「うん」彼女は素で頷き、慌てて言い直した。「あー……。ええと、そうじゃなくて。学太くんに、ぜひ食べて欲しいっていうか。よかったらご家族にも召し上がってもらって、味の感想でも聞かせて。ちょっと肉に癖があるかもしれないから、口に合わなかったら捨てちゃってもいいから」

「わかりました。元太に味の感想をもらったら、今度伝えます」

「ありがとう。それじゃあ」

 もうこれで限界、とばかり千草はくるりと踵を返す。「あ、容器はいつ返せば──」と学太が声を掛けたが、それも耳に入らない様子で一目散に階段を駆け下りていった。パタパタと、拍子木を打ち鳴らすような足音が福太の耳に軽やかに響く。

 二階の手すりから見下ろすと、敷地の門に向かって駆けていく彼女の頭が見えた。まるで奇襲だな、と福太は苦笑する。築四十年は超える昭和の遺物のような古いマンションには、オートロックの共用エントランスなんて洒落たものはない。その分訪問しやすいと思われたのだろう。

 しばらくして振り返ると、学太が興味深そうにこちらを見守っていた。

「……なんだよ?」

「いや、別に……ご愁傷様」

 何やら含みのある笑みを見せながら、玄関の鍵穴に鍵を差し込む。こういうところが最高にイラつくんだよな、コイツ──福太は頬の筋肉を引き攣らせつつ、「元太。いるんだろー」と中に呼びかけながら帰宅する小賢しい弟のあとに続く。

 洗濯物はほどよく乾いていた。日向の匂いがする兄弟の衣類を取り込みつつ、福太は爽やかに晴れ渡った五月の空を見やる。

 マンションのベランダからは、新緑に萌える深明寺の墓地が見えた。

 高台にあるこのマンションは、例の深明寺坂を上った先、寺の裏手側に位置する。もし自分が死んだらあそこに墓を建てて欲しい、というのが母親のよく口にしたブラックジョークだった。そうすれば毎日、家族がきちんと生活しているか監視できるから、と。当人にしてみればいつもの悪ふざけの延長に過ぎなかっただろうが、今となってはまったく笑えない冗談だ。別に言霊というものを信じるわけでもないが、あの軽はずみな言動をしてしまう性格だけは何とかしてほしかった。

 洗濯物を抱えてリビングに戻ると、ソファの上で毛布の塊がもぞりと動いた。

 福太は悪戯心を起こし、その上に取り込んだばかりの衣服をバサリと放り投げる。

 服の山が崩れ、中から不機嫌そうな面の優男が身を起こした。

「おはよう。兄貴」

 福太の兄──木暮家の長男、元太。

 齢二十五。深明寺高校を出て調理師学校を卒業後、料理人を目指していくつかの店舗で修業し、今は地元のカジュアルなフレンチレストランでキッチンスタッフをしている。週六で働く飲食業の現場は過酷なのか、休日はいつもこんな感じだ。

「……今、何時だ?」

 眩しそうに目を細め、髪をかきあげる。一瞬垣間見えた線の細い顔に、弟で同性の福太でも若干ドキリとした。母親似なのだ。

「……四時過ぎ。寝すぎだろ、兄貴」


井上真偽(いのうえ・まぎ)
神奈川県出身。東京大学卒業。二〇一四年『恋と禁忌の述語論理』でメフィスト賞を受賞しデビュー。一八年『探偵が早すぎる』がドラマ化され話題に。著書に『その可能性はすでに考えた』、『ベーシックインカム』、『ムシカ 鎮虫譜』などがある。

「拾う人」森絵都
青柳碧人さん『赤ずきん、旅の途中で死体と出会う。』