深明寺商店街の事件簿〈四兄弟編〉第1話前編 井上真偽


「もうそんな時間か。参ったな、買い物に行く予定が……。なあ福太。今度の週末、俺の代わりに服を買ってきてくれよ。駄賃は出すから」

「ヤだよ。なんで俺が」

「だってお前、俺とほぼ服のサイズ一緒じゃん」

 そう言って元太は軽やかに笑う。確かに身長は近いけどよ、と福太は内心毒づいた。身長以外の、いろんなものが兄貴とは違ってんだよ。顔の整い方とか、筋肉質の体とか、女子みたいな肌質とか。

 元太が軽く伸びをし、立ち上がった。起き抜けで髪もボサボサだが、動作の一つ一つが絵になる。それを見て、「元太」という名前がつくづく似合わない男だと福太は思った。こいつにはそんな田舎のガキ大将みたいな野暮ったい名前ではなくて、もっとこう──「翔(しょう)」とか「瑛士(えいじ)」とか、そんな都会的なセンスの名前がお似合いだったのではないか。

 福太たち兄弟の名前は、母親がつけた。

 母親の怜(れい)は、絵本や童話好きが高じて絵本作家になってしまったという経歴の持ち主だ。子供たちの名前も当然のごとくその趣味に準じていて、元ネタは昔アニメにもなった「ガンバの冒険」──正式名称は「冒険者たち ガンバと15ひきの仲間」──という児童書に出てくる、ネズミのキャラクターたちだ。主人公のガンバ、その親友のマンプク、知恵袋のガクシャ、明るいムードメーカーのヨイショ。それらの名前の一部を取って、木暮家の四兄弟は上から順に「元太」「福太」「学太」「良太」という命名になっている。

 元太は当初、頑張るの「頑」で「頑太(ガンタ)」、もしくは「岩」で「岩太」が有力候補だったらしい。だがそれではさすがに名前が主張しすぎると常識人の父親が反対し、「頑」の一部を取って「元」とし、読み方もそれに合わせて「ゲン」に変えたそうだ。

 岩太にしときゃあ面白かったのに、と福太は僻み心で今でもやや残念に思う。

「あ、起きた? じゃあ、元太も食う? シェパーズ・パイ」

 鍋つかみを外しつつ、学太がカウンターキッチンから声を掛けた。リビング兼ダイニングにある食卓に、湯気の立つパイ皿が置かれている。さきほどの千草の置き土産をレンジで温め直したらしい。

 元太が欠伸を噛み殺しつつ、パイ皿を覗き込む。

「どうした、これ?」

「竹宮先生の。元太に味見して欲しいってさ。先生、可哀そうに。元太に会いたくてわざわざこんなものまで作ってきたのに、結局会えずじまいで」

「ああ……彼女が来てたのか。悪い。寝ていて気付かなかった」

 ──嘘だな。福太は複雑な思いで聞き流す。元太の口から直接聞いたわけではないが、どうも最近、千草は元太の店に連日通い詰めるなど攻勢が激しいらしい。客なので無下に扱うこともできず、余計な揉め事を恐れてプライベートで会うのを避けた──というのがおそらく本音だろう。

 食卓に並んだ取り皿を見て、元太が首を傾げた。

「三つ? 良太の分は?」

「あいつ、まだ帰ってないよ」

「帰ってない? もう四時過ぎなのにか?」

「どうせまた、寄り道して友達とサッカーでもしてんだろ。今日もあいつ、サッカーボールを持って行ったから。大丈夫、良太の分は別に取り分けておくから。夕食のおかずと一緒に食べさせよう」

 誰からともなく席に着く。母親が家族全員で食事することにこだわっていたせいか、揃って食べる習慣が芯まで身についていた。もっともこの程度の量、福太たちにはとても夕食にはならず、せいぜいおやつ代わりといったところだが。小中高と食べ盛りの男子三人を含む四兄弟の胃袋は、到底こんなパイ一つで満たし切れるものではない。

 いただきます、と三人で手を合わせる。シェパーズ・パイはパイといっても、パイ生地を使ったものではなかった。挽き肉のマッシュポテトがけ、とでも呼ぶのが正解だろうか。ただ炒めた挽き肉と潰したポテトの組み合わせはコロッケを連想させ、むしろ食欲をそそった。フォークで掬うとぷうんと炒め玉ねぎとトマトソースの良い匂いが漂い、口の中に自然と涎が溢れる。

 だが一口食べた途端、期待外れの味が舌に広がった。

「うえ。僕、この味駄目だ」

 学太が顔をしかめた。しばらく取り皿の食べ残しを恨みがましく見つめたあと、おもむろに椅子を降り、その皿を持って流しに向かう。

 福太は慌てて呼び止めた。

「待てよ、学太。何する気だ」

「何って……廃棄処分。口に合わなかったら捨てていいって、先生も言ってたし」

「バカ。だからって、本気で捨てるやつがあるか」

「じゃあ、福太が残り食べる? なら喜んで譲るけど」

 すると黙って料理を咀嚼していた元太が、急にフォークを置いてボソリと言った。

「……羊肉の臭みだな、これ」

「羊肉?」学太が片眉を上げる。「なんで先生、わざわざそんな変わった肉を……。普通に牛挽きを使えばいいのに」

「本場のレシピを参考にしたんだろうな。シェパーズ・パイっていうのは、もともと『羊飼いのパイ』って意味のイギリス料理だから。ローストしたラム肉の残りを使うのが本物のシェパーズ・パイで、それ以外はコテージ・パイだって説もある。もっとも前の店で一緒に仕事したイギリス人は、本国では誰もそんな区別は気にしないって笑ってたが……」

 元太はパイ皿を眺めると、何かを思い出したようにフッと微笑んだ。

「勉強、したんだな」

 立ち上がり、キッチンの冷蔵庫に向かう。野菜室からバジルやらローズマリーやらの生のハーブを取り出し、それを細かく刻みだした。オリーブオイルや塩胡椒、各種スパイスなどを振り、軽く和える。

「その皿、貸してみろ」

 学太の取り皿を奪うと、パイの表面のマッシュポテトを一度取り除き、中の具材と即席ミックスハーブを混ぜ合わせて、また元に戻した。

「これでどうだ?」

 目の前に戻された皿を、学太は疑わしげな眼差しで見つめる。少し匂いを嗅ぎ、それからフォークで小さく削り取って、おそるおそる口に運んだ。数回の咀嚼のあと、すぐに目を輝かせて親指を立てる。

「うん。これなら食えるよ。さすがは元太」

 だろう? と元太はさらりと応じる。早速残りの分にも同様な処置を施した。福太も一口食べ、まるで様変わりしたその味に驚嘆する。ハーブの力で羊肉独特の臭みが消え、挽き肉やチーズの濃厚な旨味がずしんと舌に響くわりに、後味が非常に爽やかだ。

 ──そういうとこだぜ、兄貴。

 福太は尊敬と妬みの入り混じった視線を長男に向けた。作った相手の気持ちを無駄にせず、出来損ないの料理にさりげなく一手間加えて絶品に仕立て上げる──外見だけでなくそんな気遣いが出来る優しさや技術を持つからこそ、この兄は千草に限らず多くの人から好意を得るのだろう。まったく、何が天は二物を与えず、だ。

 本当にずりいよなあ。福太は自嘲気味に笑うと、兄の手によって生まれ変わった料理の皿を取り、半ば自暴自棄にかきこんだ。

 

「深明寺坂で、事故?」

 食後のコーヒーを飲みながら、元太が驚いた顔をする。

「うん、たぶん」学太が張り合うようにミルク少なめのカフェオレを飲み、少し顔をしかめて砂糖を足した。「まあ僕たちも、直接現場を見たわけじゃないけど」

「袴田商店、無事なのか?」

「わからない。こっちに誰かから連絡なかった?」

「いや……俺は寝てたしな。家の留守電は?」

「何もなし。さっきお店に電話してみたけど、話し中だった。何事もなければいいけど……」

 福太は一人、流し場に立ってパイ皿を洗いながら、カウンター越しに二人の会話を聞き流す。

 ジャンケンに負けたのだった。木暮家では、食後の洗い物担当は通常ジャンケンで決まる。中間テスト前なので恩赦を求めても良かったのだが、すぐに勉強する気も起きないので甘んじて引き受けた。それにどのみち、もうすぐ夕飯の時間だ。今から始めても、気分が乗り出したころにまた中断されてしまう。

「深明寺坂の桜幽霊、か……」

 元太が呟き、リビングの壁に飾られた絵に目を向ける。満開の桜並木が、柔らかな水彩のタッチで描かれていた。生前の母親が描いた深明寺坂のスケッチだった。そういえばまだ福太が幼いころ、幽霊話を怖がる息子たちを安心させるため、母親が明るく作り替えた話を語ってくれたのだが──もう昔過ぎて、どんな話だか忘れてしまった。

 ついで元太が絵の横の壁時計に目をやり、ふと眉を曇らせた。

「それにしても、良太の帰りが遅いな」

「そう?」カフェオレをすすりつつ、学太が気のない返事をする。「あいつは最近、いつもこんな感じだけど」

「そうなのか? あまり寄り道しないように言っておかないとな。──それと、深明寺坂を使わないように念押しも」

「深明寺坂を? 使ってないだろ。あそこは小学校の通学路から外れてるんだし」

「そうなんだが……あの絵のせいだろうな。春になると良太、たまにあそこを歩いているらしいんだよ。『あの坂歩いてると、母ちゃんの幽霊に会える気がする』って──」

「なんだそりゃ。相変わらずバカだな、あいつは──福太、知ってた?」

「いや……」

 初耳だった。普段そんな素振りは全く見せない末の弟だが、やはり内心では母親の存在を恋しく思っているのだろう。

 福太の視線が、ついテレビ下のラックに向く。そこには生前の母親がコレクションしていた映画やドラマなどのDVDがあった。児童書好きの母親らしく子供向けの作品も多く、良太はよく一人でそれを観ている。ガンバの冒険などの日本アニメ。トイ・ストーリーやファインディング・ニモなどのピクサー作品。きかんしゃトーマス。中には福太もよく知らない、サッカーをする羊が出てくる人形劇や子供向けと呼ぶにはやや内容が過激なウサギの無声アニメなどの作品もある。

 それらを観賞することで、亡き母親と一緒にテレビを見ている気分にでも浸っていたのだろう。記憶にない母親の面影を求めて坂道を上る弟の姿をつい想像し、何とも遣る瀬ない気分になる。

 だが、良太が深明寺坂をたまに使っていたってことは──。

 そのとき、ふと鼓膜が救急車のサイレンの音を捉えた。

 一瞬ビクリとする。他の兄弟たちも静まり返るが、やがておもむろに元太がテレビのリモコンを手に取り、チャンネルを変えた。点けっぱなしのテレビから漏れた音だった。ふう、と無意識に福太の肩が下がる。

「……まさか、ね」

 学太がカフェオレのカップを置き、ぼそりと言った。


井上真偽(いのうえ・まぎ)
神奈川県出身。東京大学卒業。二〇一四年『恋と禁忌の述語論理』でメフィスト賞を受賞しデビュー。一八年『探偵が早すぎる』がドラマ化され話題に。著書に『その可能性はすでに考えた』、『ベーシックインカム』、『ムシカ 鎮虫譜』などがある。

「拾う人」森絵都
青柳碧人さん『赤ずきん、旅の途中で死体と出会う。』