深明寺商店街の事件簿〈四兄弟編〉第1話前編 井上真偽


 直後に、まるで狙いすましたように電話の呼び出し音が鳴った。福太の心臓が再びビクンと飛び跳ねる。家の固定電話だった。──が、誰もすぐには出ようとはしない。営業電話が多いので、登録された番号か、留守電に相手が名乗りを上げるまで受話器は取らないことにしているのだ。

 今回は登録されていない番号からだった。福太たちが無言で耳を澄ましていると、やがて留守番電話の応答メッセージが流れ、発信音のあとに低い男性の声が続く。

「えー……突然のお電話失礼します。深明寺警察署のものです。ご家族の件で、ご連絡を差し上げました。もしご帰宅されましたら、折り返しお電話を──」

 警察?

 福太たちは顔を見合わせる。考える前に体が動いた。受話器に一番近い位置にいた福太が真っ先に駆け寄り、慌て気味に電話を取る。

「すみません、遅くなりました。木暮です」

「ああ、木暮さん。良かった、ご在宅で。ええと──ご主人ですか?」

「いいえ。二男です」

「そうでしたか。ご両親は?」

「母親は亡くなったのでいません。父親も海外赴任中で、家には子供たちだけです」

「ああ、そうだったんですか。これは失礼。なら、ご兄弟の誰かが保護者ってことになるのかな。ええと、ご二男の──」

「福太です」

「福太さん。実はですね。今日の午後、ご近所の深明寺坂で交通事故が発生しまして。そこでお宅の良太くんが──」

「え?」

 息が止まった。すうっと血の気が引く。過去の忌まわしい記憶がフラッシュバックする中、「あっ、こら──」と電話口の向こうが何やら騒がしくなり、唐突に聞き馴染みのある声が福太の耳に飛び込んだ。

「福太兄ちゃあん」

 末の弟の、泣き声だった。

「良太が、事故の現場に居合わせた?」学太が湯呑みを福太に手渡しつつ、訊ねる。「つまり、目撃者ってこと?」

「ああ」

 警察署で良太を引き取り、帰宅後のこと。泣き疲れた良太をベッドに寝かしつけ、福太は一人留守番していた学太に経緯を説明していた。元太はリビングのソファでタブレットPCを使い、台湾にいる父親に無料通話アプリで今回の件を報告している。

「でも、事故が起きたのって午後三時ごろなんだろ。ちょうど僕たちがサイレンを聞いたころ。だったら警察も、もっと早く連絡くれてもいいのに」

「それがあいつ、どうも警察から逃げ回っていたみたいなんだよな」

「逃げ回っていた? なんで?」

「さあ……警察の人は、急に警官に声をかけられたので驚いたんでしょう、とは言っていたが……」

 警察の話では、良太は事故の唯一の目撃者だということだった。

 事故が起きたのは例の深明寺坂の、事故が多発する魔のカーブ付近。不動産会社の営業車が顧客訪問に向かう途中、スピード超過でハンドル操作を誤り、曲がり角にある袴田商店に突っ込んだという。

 店主の一報を受けて最寄りの交番の警官が駆けつけとき、良太は向かい側の歩道で呆けたように立ち尽くしていたらしい。だが警官の一人が声を掛けるや否や逃げ出して、それで確保まで時間がかかったようだ。

「それで、袴田のおじさんたちは? 無事なの?」

「ああ。おじさんたちは何ともないって。ただ運転手と、店がな。運転手は即死。車は店内までは入ってこなかったけど、正面のガラス戸は全壊で、窓側の支柱も少し歪んだって」

「そりゃひどいな。おじさんも可哀そうに。何年か前に耐震工事したばかりで、そのローンの返済も大変だって言ってたのに……」

 袴田商店の経営者夫婦──袴田久光(ひさみつ)とその妻・加代子(かよこ)とは、福太たちの母親が生前のころからの付き合いだ。

 まだ両親が若かりしころ、二人は掘り出し物のこの中古マンションを見つけ、それでも当時の収入からはやや厳しめのローンを組んで購入したらしい。それで生活が苦しかった母親は、お米屋さんと八百屋さんと仲良くしておけばいざというときツケが利く、という先輩絵本作家のアドバイスを真に受け、地元の商店街に顔馴染みの店をたくさん作ったそうだ。

 袴田商店もその一つ。酒や米などを扱う店で、もともとは深明寺に味噌や醤油を卸す商売をしていたらしい。明治時代から続く老舗だが、特に袴田夫婦には子供がいなかったこともあり、福太たち一家とは親戚同然に付き合ってくれた。母親の死後は加代子が末の弟の面倒を何かと見てくれて、そのため良太は今でも彼女を実の祖母のように慕っている。

「でも、そんな衝撃で車が突っ込んだのに、店内は無事だったんだ。それは不幸中の幸いだったね」

「いや。事故の衝撃自体は大したことなかったってよ」

「え? でも、運転手が即死するほどの事故だったんだろう?」

「そうだけど、直接の死因は串だって」

「く……え? 何?」

「串。焼き鳥の竹串。食べながら運転してたんだってよ、その人。で、車がぶつかったとき、その衝撃でエアバッグが膨らんで。それがハンマーみたいに串を叩いて、喉に──」

 うえ、と学太が喉を押さえた。

「それは……ずいぶん運が悪いね、その人も」

 福太もやや同情する。不謹慎だが、「不運すぎる死に方」というランキングでも作れば確実に上位にくる死に方だ。今後車の免許をとっても、絶対に運転中は串物を食わねえぞ、と福太は心に誓う。

「ただ……良太、警察に変なこと言ったみたいなんだよな」

「変なこと?」

「事故のあと、助手席のドアが開いて、車内から誰かが出てくるのを見たって。といっても良太が立っていたのは店の反対側の歩道だから、その位置からだと車体が邪魔で、助手席側は見えねえんだけど。だから正確には、車の屋根越しに黒い頭のようなものが見えた、ってことらしい」

「助手席から、人が?」

 学太が首を傾げる。

「同乗者がいたってこと?」

「わかんね。そのあと良太はびっくりして持ってたサッカーボールを取り落として、それを拾いに行った隙に人影は消えていたんだって。
 ただ車内には、ビールの匂いも残ってたんだとさ。だから警察は、飲酒運転のほう助か何かで捕まるのを恐れた同乗者が、現場から逃げたんじゃないかって。それで今、一応調査中」

「ふうん」

 学太が爺むさく背中を丸め、茶をすすった。眼鏡を湯気で曇らせて少し黙ったあと、不意にニヤリと笑う。

「ねえ、福太──」

「なんだよ?」

「まさか良太、桜幽霊でも見たのかな?」

「時期が違うんだろ」

 福太は素っ気なく言い返す。学太はケラケラと笑った。

「そうだった。あやうくその設定を忘れるとこだったよ。──まあ、良太が下らない嘘をつくはずもないし、あいつが見たって言うなら本当にいたんじゃないの、同乗者。まあそこから先は警察の仕事だ。僕たちにはどうでもいいや」

 学太はあっけらかんと言うと、ふと思い出したように壁の時計を見て、ちらりと福太の表情を窺った。

「ところで福太、試験勉強は?」

「するよ。これから」

 

 ──良太の様子がおかしい。

 学太がそう告げてきたのは、事故の翌日のことだった。

 夕食後、試験勉強のやる気が起きず、リビングのソファに寝ころんでだらだらとスマホをいじっていた福太に、洗い物当番を進んで引き受けた学太が「福太、ちょっといい?」と声をかけてきた。てっきり勉強しないなら洗い物を手伝えとか、そんな小言めいたことを言われるかと思ったが、さにあらず、上の弟が切り出したのは思いのほか真面目な相談事だった。

「昨日から変なんだよ、良太」

 学太はまだ料理の残る食卓を心配そうに見やりつつ、言った。

「僕とあんまり目を合わせないし、話し声もすごく小っちゃいしさ。それに、ほら──夕飯もこんなに残してるだろ」

 今晩のメインは、元太が出勤前に仕込んでいった羊肉の串焼きだった。アロスなんとかという舌を噛みそうな名前のイタリア料理で、福太が部活仲間とたまに行くファミレスにも最近同名のメニューがある。どうやら千草の「シェパーズ・パイ」が元太の創作意欲に火をつけたらしく、元太はあれから冷凍庫の奥底に眠っていたラム肉を引っ張り出して、レンジで温めれば食べられるところまで仕上げてくれていたのだった。スパイスが効いていて普通に美味だったが、確かに良太の皿を見ると、まだ串に肉が半分ほど残っている。

「羊肉が口に合わなかったんじゃないのか?」

「あいつはそんな上品な口をしてないよ。先生のシェパーズ・パイだって、今朝は普通に食べてたし。前に元太が作ったジビエ料理も、最後まで鹿肉って気付かずにペロリと平らげたじゃないか。あいつは舌がバカなんだよ」

「そのほうが俺は助かるけどな。お前みたいに、俺が作る料理に文句を言わないから」

「福太の料理の問題は、味より栄養だろ。なんでもプチトマトとキュウリを添えときゃいいってもんじゃないんだよ──それはともかく、何か変だよ、良太。今日は給食のパンまで残して持ち帰ってきたしさ。それに昨晩は、なんだか夢にうなされてたみたいで……」

「良太が……うなされてた?」

「うん」

 学太と良太は二段ベッドの上下で寝ている。父親が海外赴任中のため、3LDKのマンションの三つの部屋は兄弟で分け合って使用していた。元は両親の寝室だった部屋は元太、一番小さな四畳半が福太、残った六畳間を学太と良太で共用するという形だ。

「あいつが悪夢を見るなんて、想像つかねえけどな」

「それは僕も同感。だからさ、これは勘なんだけど……良太、あの事故のことで、何か僕たちに隠しごとをしてないかな?」

「良太が隠しごと? まさか」

 福太は反射的に否定する。良太は思ったことが正直に顔に出るタイプで、まだ小学生という点を差し引いても嘘をつくのが苦手だ。また兄の自分に似て口下手だし、学太のように頭の回転が速いわけでもない。

 それにあいつには、母親の──。


井上真偽(いのうえ・まぎ)
神奈川県出身。東京大学卒業。二〇一四年『恋と禁忌の述語論理』でメフィスト賞を受賞しデビュー。一八年『探偵が早すぎる』がドラマ化され話題に。著書に『その可能性はすでに考えた』、『ベーシックインカム』、『ムシカ 鎮虫譜』などがある。

「拾う人」森絵都
青柳碧人さん『赤ずきん、旅の途中で死体と出会う。』