深明寺商店街の事件簿〈四兄弟編〉第1話前編 井上真偽


「まさかってこともないだろ。良太ももう小学三年生なんだし」

「だってよ……良太の『良』は、良心の『良』だろ?」

「そうだけど」学太が一瞬、恋しげな目をする。「別に名前で性格が決まるわけでもないしね。良太があの母さんの誕生カードを心の拠り所にしてるのは事実だけど、あいつもいつまでも子供じゃない。嘘をつくことだって覚えるよ」

 母親の怜は、子供を産むたびに我が子宛てのカードを作った。

 それが「誕生カード」だ。結婚式の案内状のような三つ折りのカードで、絵本作家らしく凝ったデザインをしている。

 だが何より個性的なのはその文面だろう。それはまず「ようこそ世界へ、○○」という壮大な挨拶から始まり、続いて妊娠生活の大変さ、出産の辛さ、自分が健康な子供を産むためにいかに体調管理に気を配ったかなどといった苦労語りが、恩着せがましくつらつらと並べ立てられる。

 その後に続くのは、誕生したばかりの我が子への祝辞としてはまずふさわしくない、世知辛い世の中に対する怨み辛みだ。メッセージはそれからそんな世界に産み落としてしまったことへの謝罪文となり、それでも生まれて来てくれたことへの感謝、自分なりに頑張って守り育てるという決意表明、そんな世の中でも結構面白おかしく暮らせるものよという一応のフォローのような励ましのような文面を経て──そして最後に我が子に与えた名前の由来と、選んだ漢字に込めた意味を説明して終わる。

 ──良太の良は、良心の良。ずるいことはしない。困っている人を見たら助けてあげる。自分の心に恥じない生き方をする──。

 確かそんなメッセージだったと、記憶している。

 そんな母親は良太が一歳のときに亡くなったので、良太は四兄弟の中で唯一、母親の記憶がない。だから良太にとってはそのカードが母親も同然で、そこに書かれた言葉を誰よりも大事に受け止めていたはずだ。

「良太があの事故で、嘘の目撃証言をしてるってことか?」

「わからない。でもあの好奇心旺盛な良太が、その消えた人影を探そうともせずそのままスルーしてるなんて、少し不自然だ」

「本当はその人が誰か知ってて、庇っているってことか?」

「かもしれない」

 学太は表情を曇らせる。

「わからない。もっと違う理由かも。とにかく、良太の調子が変な理由が、あの事故にあることは間違いないよ。だからもう一度、あの事故のことをちゃんと振り返ってみようと思って。福太も付き合ってくれないか? どうせ今は腹いっぱいで、勉強する気になんてならないだろ」

 さすが実弟、よくわかっていらっしゃる。福太は二つ返事でオーケーすると、早速学太の洗い物を手伝い、綺麗にした食卓で二人肩を並べて事件の再検証を開始する。

 

 ──といっても、特に目新しい情報はない。事件の概要はさきほど福太が説明した通りだ。

 昨日午後三時ごろ、顧客訪問中の不動産会社の営業車が、深明寺坂の上りの急な右カーブでハンドル操作を誤り、曲がり角にある袴田商店に衝突した。衝突の衝撃自体は大したことはなかったが、膨らんだエアバッグが運転手の食べていた焼き鳥の串に当たり、それが喉に刺さって運転手は死亡。店内に客はいなかったため、それ以外の死傷者はなし。店舗も正面のガラス戸が壊れただけで、車は窓側の支柱で止まって店の中は無事だった。

 またそのとき、下校中の良太がその現場に居合わせ、事故後に助手席から誰かが出てくるのを目撃したという。ただ良太は驚いてサッカーボールを取り落としてしまい、それを拾って戻ってきたときには、もう人影はどこかに消えていたそうだ。

 なお警察が駆け付けたときには、車内にビールの匂いが漂っていたという。ただしこれについては、車内にはノンアルコールビールの空き缶しか残っていなかったらしく、飲酒運転かどうかは死亡した運転手の血中アルコール濃度を調べてみないとわからないとのことだった。

 福太の説明を用意したノートにメモしつつ、うーん、と学太は悩ましげに首を捻る。

「事故の目撃者は、本当に良太だけだったの?」

「ああ、そうらしい。もともと人通りの少ない坂だったからな」

「その事故車は、どうしてわざわざその道を?」

「警察の話では、時間調整してたんじゃないかって」

「時間調整?」

「お客と約束した時間まで余裕があったんで、少し遠回りして深明寺坂を走ってたんじゃないかって話。焼き鳥食べながらさ。ああ、あと事故の時間はその営業の人が持っていたスマホのGPSの履歴から確認できたって。会社が管理用のアプリを導入してて、その記録だと二時五十九分から三時までの間に事故現場で動きが止まったらしい」

 会社にそこまで管理されるのは嫌だな、と学太はボヤきながらメモを見る。

「袴田のおじさんたちは、事故のときはどこに?」

「おじさんは二階の奥の部屋で、帳簿の整理中。おばさんは配達中で不在だったってよ。ちなみにおじさんは事故の音を聞いてから一階に下りて来たんだけど、衝突の衝撃で店の自動ドアが壊れて、外に出られなかったって。で、店の中から見ていた限り、助手席には誰もいなかったってさ」

「ふうん。なら人影は、その間に逃げたってことかな」学太が眼鏡に手をやる。「ちょっと時系列を整理してみようか。まず最初に、良太が事故の瞬間を目撃し、その後助手席から誰かが出てくるのを見た。そして良太が驚いて落としたボールを拾ってまた戻ってくるか、袴田のおじさんが一階の店に下りてくるまでの間に、その謎の人物は現場から逃げ去った……」

「うーん……そのへんも少し曖昧なんだよな」

「そのへんって?」

「良太が事故の瞬間を目撃した、ってあたり」福太は腕を組む。「本人も記憶が混乱してるみたいでさ。良太自身は気が付いたら事故が起きてたって言ってて、はっきりとぶつかるところを見たとは言ってないんだよ」

「ふうん……?」

 学太がボールペンの尻を下唇に押し当てる。

「事故の瞬間から、良太が事故に気付くまでの間に微妙なタイムラグがあるってこと? どういうことだろうな……まあ単に、驚いたショックで記憶が飛んでるだけかもしれないけど」

 福太は末の弟が引き籠った部屋のほうを見やり、やや小声で言った。

「やっぱりあいつ、その逃げた人を庇っているのか?」

「どうだろうね。僕もさっき一瞬そう思ったけど、そもそもその人を庇うつもりなら、最初から『何も見なかった』って言えば済むだけの話だし。それに見たのは車体の屋根越しで、しかも車道の反対側からだったんだろう? なら、細かい人相まではわからないと思うけどな」

 それもそうだな、と福太も同意する。現場にいたのは良太だけなのだから、隠したいならわざわざ自分から言いだす必要はない。逆に正直に口走ってしまったというなら、その正体だけ曖昧に隠す言い方をするというのもおかしな話だ。ここは素直に、良太は見たままを口にした、と考えるべきだろう。

「そういえば」

 と、学太が食卓に置いてあった良太の食べ残しの皿を見やり、訊ねた。

「なんで警察は、その串が『焼き鳥の串』だってわかったの? 串なんて、ほかにもいろいろあるじゃん。団子の串とか、フランクフルトの串とか」

 細かいことを気にするやつだな。福太は眉根を寄せつつ、同じくラップのかかった串焼きの皿を眺めて考える。

「さあ。車内に焼き鳥のパックでも残ってたんじゃ──ああ。そういやあの警官、串に鶏肉が残ってたって言ってたな」

「──なんだって?」

「だからさ。残ってたんだってよ。喉に刺さってた串に、タレ付きの鶏モモ肉がほんの一切ればかし。説明してくれたのが交通課の人でさ。あれ、俺たちに事故の怖さを教えようとしたんだろうな。運転手の死んだ様子を絵にかいてすっげえリアルに──」

「ちょっと待って、福太」学太の声が割り込む。「今──喉に刺さってた串に、モモタレが一切れ残ってた、って言った?」

 蛍光灯の光に眼鏡をきらめかせ、こちらを向く。

二切れヽヽヽ、じゃなくて?」

 鋭い語調に、福太はついタジタジとなった。

「あ、ああ──最後の一切れを食い逃して、仏さんはさぞや無念だっただろうなってあの警官のおっさん言ってたし。でもそれって、そんなに重要か?」

「重要だよ」

 学太はやや興奮気味に答えた。

「だって焼き鳥って、普通串に刺さっているのは四切れか五切れくらいだろ。それが一つしか残ってないってことは、そのとき運転手は下から二番目まで食べ終わってたってことだよ。つまり──こういう状態」

 学太は皿に手を伸ばすと、ラップを外して食べ残しの串焼きを手に取る。ラップと手を使って串から肉を外し、根元に一切れだけ残して、その串を福太に見せた。

「これを食べようとしたら、福太ならどうする?」

「どうってそりゃあ、横からかぶりついて──」

 言いかけて、福太はハッと言葉を止めた。学太がうなずく。

「そう。その食べ方じゃ、串の先端は喉に向かないヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ。串を側面から咥えて、真横に引き抜く形になるはずなんだ。でも実際は、串はまっすぐ運転手の喉に向かって刺さっている。これはいったいどういうことだろう?」

 福太は学太から肉串を受けとり、しげしげと眺めた。確かに……その通りだ。一つ目か二つ目ならともく、根元にあるほうの肉を普通は先端からは食べない。

 学太が立ち上がった。腕を組み、うーんと蚊の羽音のような唸り声を立てつつリビングをうろつき回る。

 やがて夜のガラス窓に映る自分の横顔を見て、ふと足を止めた。

「そうか……。向きか」

「向き?」

「顔の向き。串を食べているときの顔の向きが、違ったんだ」

 学太は戻ってくると、福太の手から再び串を取り上げ、席に着く。左手で串を持ち、右手で見えないハンドルを握る真似をした。そして串の横側から肉を咥え、右を向く。

「見てくれよ、福太。この形で串を引き抜こうとすれば、ちょうど串の向きは車の進行方向と同じになる。それで衝突の直前、運転手が顔だけ前に向ければ──」

 串を持つ左手をそのままに、顔だけ正面に戻す。尖った鉄串の先端が、ちょうど口の真ん前に来ていた。

「……たぶん、こういうことだ。運転手は焼き鳥を食べている最中、何かに気を取られて横を向いたんだ。それでカーブを曲がり損ね、あっと思って前を向いたときには、もう車が激突していた。それが衝突の直前、ほんのコンマ数秒の間に起こったことだったんだ」

 福太は眉間に皺を寄せて思案する。

「つまり……事故の直前、運転手が脇見運転をしていたってことか?」

「おそらく。左右どっちを向いていたかまではわからないけどね。今の僕の説明で、串とハンドルを握る手を逆にすれば、運転手は左側──助手席側を向いていたことになる。これは車が右ハンドルの場合だけど。でも車道の反対側から助手席側が見えなかったって言ってたから、右ハンドルでいいよね」

 最後の説明は少し考えを要した。ええと、日本じゃ車は左通行だから、反対側の車道を走ってるってことは、車は常に右側をこっちに向けているってことで──つまりこちらから見えない側が、車の左側。うん、良し。

「でもよ……あんのかよ、そんなこと。てっきり俺は、つまようじ代わりに串を咥えてたんだと思ってたけど」

「これが空の串なら、それもあったかもね。でも一切れだけとはいえ、肉は残ってたんだろ? その状態で串の先端を咥えるにはバランスが悪いし、肉は口の外にあるから、串が喉まで刺さるときには肉は歯に当たり、串から抜け落ちたりしてたはず」

 学太が串を皿に戻した。胸の前で両手の指を組み、椅子の背もたれに寄りかかって天井を見上げる。

「まあもちろん、これも一つの仮説にすぎないけどね。でももしこの仮説が正しいなら……問題は、そのとき運転手が何を見ていたか、ってことだけど。
 もし運転手が左側を向いていたなら、助手席側。やっぱり助手席に誰か座っていて、事故の直前に何か運転手の注意を引くようなことをしたのかな。
 そうじゃなくて右側を向いていたなら、運転席の窓側──良太のいた反対車線のほう。あそこの上り坂で、運転席の窓から見えるものといえば……」

 学太の言葉が止まった。顔が壁を向いている。視線の先に、素朴な額縁で飾られた風景画があった。母親が描いた、春の深明寺坂の水彩スケッチ。

「……歩道の、桜並木だ」

 福太は最初その発言を何気なく聞き流し、遅れてそれが意味することに気付いて、少しゾッとした。

「まさか……桜幽霊、か……?」

「バカな。ありえないよ、そんな……」

 学太が青い顔で首を振る。しかしその声の調子は、以前福太のことを鼻で笑ったときほど強くはなかった。

 まさかな。福太も下らない戯言だとは思いつつ、吸い込まれるように絵を見つめる。満開の桜を描いた母親の絵は優しい色合いに溢れ、その場所が忌まわしい噂の立つ地であることなど微塵も感じさせない。

 ──いったい運転手は、事故の直前に何を見たんだ?

(つづく)


井上真偽(いのうえ・まぎ)
神奈川県出身。東京大学卒業。二〇一四年『恋と禁忌の述語論理』でメフィスト賞を受賞しデビュー。一八年『探偵が早すぎる』がドラマ化され話題に。著書に『その可能性はすでに考えた』、『ベーシックインカム』、『ムシカ 鎮虫譜』などがある。

「拾う人」森絵都
青柳碧人さん『赤ずきん、旅の途中で死体と出会う。』