深明寺商店街の事件簿〈四兄弟編〉第2話前編 井上真偽

深明寺商店街_第2話


(あらすじ)深明寺近くに住む木暮福太。兄の元太は料理人、弟の学太は生意気な中学生、末っ子の良太は甘えん坊の小学生だ。ある日、学太の学校でコンクールに出品予定の楽器が壊された。事件には福太たちの亡き母親も絡んでいるようで……?


「下のほうに広場がある」と幸福の王子は言いました。「そこに小さなマッチ売りの少女がいる。マッチを溝に落としてしまい、全部駄目になってしまった。お金を持って帰れなかったら、お父さんが女の子をぶつだろう。だから女の子は泣いている。あの子は靴も靴下もはいていないし、何も頭にかぶっていない。私の残っている目を取り出して、あの子にやってほしい。そうすれば、お父さんからぶたれないだろう」

「もう一晩、あなたのところに泊まりましょう」ツバメは言いました。「でも、あなたの目を取り出すなんてできません。そんなことをしたら、あなたは何も見えなくなってしまいます」

「ツバメさん、ツバメさん、小さなツバメさん」と王子は言いました。「私が命じたとおりにしておくれ」

幸福の王子
原作:オスカー・ワイルド 翻訳:結城浩
https://www.hyuki.com/trans/prince.html
©2000 Hiroshi Yuki (結城 浩)

  

 

1


 ──旨いな、このカレー。

 ルーのかかった白米を一口食べ、福太ふくたは喉奥でうなる。

 タイカレー……なのだろうか。やや緑がかったクリーム色のルーに、スパイシーな香り。個人的には、こういったさらさらしたタイプよりもったりした普通のカレーのほうが好みだが、これは別格だ。

 昨晩兄貴が作ってたのは、こいつか。

「おっ。今日はカレー弁当かよ。旨そうじゃん。一口くれ」

 すると隣にやってきた鷹橋圭人たかはしけいとが、止める間もなくスプーンを奪ってトンビのように一口分かっさらった。やられた、と己の不注意を呪った次の瞬間、圭人の口から絶叫が上がる。

「うっめ!」

 道場内に叫びがこだまする。その声に、同じく昼休みに武道場に集まって弁当を食べていた他の剣道部の連中が、一斉に視線をこちらに向けた。

 畳の間にいた全員が無言で立ち上がり、福太たちのいる板間のほうへ、ジリジリと集団でにじり寄ってくる(ちなみに福太の高校は武道場が併設してあり、半面が柔道部用の畳、半面が剣道部用の板間となっている)。

 まずい、と福太は本能的な危険を感じた。

「いや。あげねえから。そんなに量ねえし」

 飢えたハイエナどもの餌食にはさせまいと、福太は体で弁当を隠す。一口たりとも渡さない、というこちらの強固な意志を感じ取ったのだろう。ちっと舌打ちが聞こえ、集団はまたもぞもぞと蟻が巣に戻るように引き返していった。──ふう、あぶねえあぶねえ。料理人の兄が作る弁当が抜群に旨いことは仲間内には知れ渡っているので、福太の弁当は常に略奪の危機にある。

 しばらく味の余韻に浸っていた圭人が、ほうと恍惚のため息をついた。

「これって、何カレー?」

「たぶん、タイカレー」

「ああ。ココナッツミルクっぽいもんな。俺、ココナッツミルクを使ったカレーって甘ったるくて苦手なんだけど、これは別だわ。辛さと旨味の中に、滲み出る甘さというか……」

 もう一口、という感じで、圭人がスプーンを持つ手を伸ばす。福太はすかさずその手首を摑んでスプーンを奪い返し、足で蹴ってシッシと追い返した。

「……タイといえばさ」圭人はやや未練がましそうに弁当を見つつ、「この前、深明寺中学しみちゆうにOB訪問行ったとき、すっげえ美人のタイ人っぽい先生いなかった? アジアンビューティー、って感じの」

 福太は首をひねる。

「いたか? そんな先生」

「いたんだよ。お前の上の弟……学太がくただっけ? そいつと廊下で、何か話してたぜ」

 圭人と母校の剣道部のOB訪問に行ったのは、つい先週の土曜のことだ。福太の二人いる弟のうち、上のほう──中学生の学太も、何かの用事で登校していたらしく、圭人はそれを目撃したようだ。弟が校内で身内に会うのを嫌がるので、福太はあえて近づかなかったが……そんな教師がいたなら、強引に会いに行っときゃよかったかな。

「ずりいよな。俺たちの代には、あんなセクシー教師なんていなかったのによ……。今だって、キャサリンが授業中足を組み替えただけでドキドキしてんのに」

「キャサリン、来年定年だろ」

 キャサリンとは笠木倫子かさぎりんこという名の英語教師で、すでに孫もいる。相当やばいなコイツ、と同情の眼差しで友人を見ていると、圭人が再び不意を突いて弁当に手を出してきた。だがその動きを読んでいた福太はゆうゆうと躱し、圭人の手はむなしく宙を泳ぐ。

「……お前は可哀そうだな。福太」悔し紛れか、圭人が言った。

「なんだよ、いきなり」

「だってガキの頃から毎日、こんな旨いもん食ってんだぜ? もう普通の飯じゃ満足できねえだろ」

「いや別に、毎日食ってるわけじゃねえし」

「見えたぜ」ビシリ、と圭人は福太に箸の先を突き付ける。「お前の、これから先に待ち受ける不幸が」

「は? 不幸?」何言ってんだ、こいつ?

「将来、お前に彼女ができたとしてだな──その彼女が、初めてお前の一人暮らしの部屋に来て、精いっぱいの手料理をふるまってくれたとする。それを食べて、お前は笑顔で『美味しいよ』と褒めつつ、心の中じゃこう思うんだ。『ああ、やっぱ兄貴の手料理のほうがうめえや』」

「ならねえよ。俺、兄貴と違ってバカ舌だし」

 なんの予言だ。福太は憤りつつも、しかし一瞬、若干ありえるかも、という思考が頭をよぎり、慌てて首を振ってその不吉なイメージを追い払う。

 ふと手元を見ると、圭人の手が、そろそろと自分の弁当箱に伸びているのが見えた。

 その腕をガシッと上から取り押さえ、問いただす。

「何?」

「いや……俺も、お前の不幸の一部を背負ってやろうと思って」

「それより、幸福をくれよ」

 

「ああ。マイカ先生のことだね、それ」

 帰宅後、リビングで宿題をやっていた上の弟の学太に訊くと、すぐ答えが返ってきた。

「お祖母さんがタイ人の、クォーター。タイで生まれ育って、成人してから日本に来たって。確かに若くて美人で、先生にしては露出度が高いな、ってときどき思うことはあるけど……まあ暑い国の出身だし、本人は特に意識してないんじゃないかな。セクシーな教師っていうより、人気者のアイドルって感じ? 性格ものんびりしているし、近所の優しいお姉さん、って印象」

 最高じゃんか、と福太は内心思う。

「お前の担任なの?」

「いや。マイカ先生は英語の教師だけど、正規の教員じゃなくて、特別非常勤講師ってやつ? 教員免許は持ってないみたい」

「え? 教師って、教員免許なくてもなれるのか?」

「そういう制度があるみたいだよ、僕もよく知らないけど。ああ……でもそういえばマイカ先生、実家が資産家で、お祖父さんの口利きで入れてもらえたって言ってたな」

「お前、マイカ先生と仲いいの?」

「仲いいっていうか……うちの部活の顧問、やってもらってるから」

「書道部の?」

「うん」

 学太は鉛筆を置き、憂鬱そうな顔で肘をつく。

「この前、福太が来たときは、ちょうど相談を受けてたんだよ。部活中にちょっと、ややこしい事件が起こってさ……」

 事件? 福太が訊き返そうとした、そのとき──。

「きゃははー!」

 奇声が耳に飛び込み、ドン、と足に何かがぶつかった。小柄な生き物が脇をかすめ、ソファやテレビや観葉植物が所狭しと並ぶリビングを、イノシシの子のように激しく走り回る。

 四兄弟の末っ子、良太りようただ。

「おい、良太! パンツ、パンツ!」

 そのあとから、上半身裸の引き締まった肉体がやってきた。こちらは長男の、元太げんた。フレンチレストランで調理師をしているモデルのようなイケメンだが、そのイケメンが子供用パンツを手にフルチンの小学生を追い回す様子は、なかなか絵になる。

 良太が食卓近くを通り過ぎる瞬間、学太がすっと足を出した。良太が躓き、絨毯にうわあーと派手にスッ転ぶ。そこをすかさず福太が取り押さえ、ジタバタする足に蹴られながら元太がなんとか下を穿かせた。末っ子が誰と風呂に入るかで役割は変わるが、毎晩の恒例行事である。

 パンツを穿かせられた良太は、罠にかかったタヌキのように悔しげに自分の下半身を見下ろした。だがすぐにハッと顔を上げて、目の前にいる福太の股間あたりをしげしげと眺めてから、ニタア、とあくどい笑みを浮かべる。

「じゃーん、はっぴょう!」急に立ち上がり、片手を上げた。「この四人のなかで、一番でっかいのは──」

「待て、良太」

 福太は慌てて末っ子の口を押さえた。そのランキングは、今後の兄弟関係に微妙に影響を及ぼす。

「……ん? 待って、福太。良太が持っているやつ、何?」

 そこで学太が、眼鏡に指を添えて言った。見ると、良太の上げた手に、キラキラ光るペンダントが握られている。

「チャンピオンにあげる、メダル」

「やめろって。母さんが作ったやつだろ、それ」

 学太が良太からペンダントを奪い、飾ってあった元の棚に戻した。どうやらリビングを駆け回る途中で、掠め取ったらしい。

「あれ、母ちゃんが作ったの?」良太が目を輝かす。「すげえ。母ちゃんって、宝石屋さん?」

「ただの絵本作家だよ。あれは、趣味のレジン」

「れじん?」

「樹脂を固めて作ったアクセサリー……つまり、本物の宝石じゃなくて、偽物ってこと」

 福太たちの母親、れいは、絵本作家だ──いや、だった、、、

 過去形なのは、末っ子の良太が生まれてすぐ、あっけなく逝ってしまったからだ。そのため現在の福太の家庭・木暮こぐれ家は、四兄弟に単身赴任中の父親一人という、完全な男所帯だ。

 しかしリビングは母親が生前のときのままにしてあるので、壁には母親の絵が掛かっていたり、棚には絵本や手製のアクセサリーが飾られていたりと、男ばかりにしてはやけにファンシーなインテリアとなっている。

 ちなみに木暮家の四兄弟──元太、福太、学太、良太──の名前の由来は、「ガンバの冒険」というアニメに出てくる四匹のネズミ、ガンバ、マンプク、ガクシャ、ヨイショから。名付けたのはもちろん、母親だ。

「レジンか。懐かしいな」元太が目を細める。「そういや福太、覚えてるか? お袋の『宝石取り違え事件』」

「ああ」

 絵描きだけあって、母親は手先が器用だった。それである日、創作意欲に駆られたのか、知り合いから本物の宝石を使ったアクセサリーを借り、それとそっくりなものをレジンで作ってしまったのだ。

 それだけならまだよかったのだが、その先がまさにあの母親の抜けているところ。その完成度の高さのあまり、なんと作った当人が本物と取り違え、偽物のほうを返却してしまったという。

 しかも参考用に借りた本物のほうは、不注意で紛失してしまったらしい。そのため一時は母親が盗んだのではと疑われ、警察沙汰になりかけたそうだ。結局、最後は父親や共通の知人が間に入って何とか事を丸く収めたようだが、その弁償金として絵本一冊分の印税がまるまる消えた、というオチだ。

「思い出に浸るのは、そのへんにしてさ」

 当時はまだ幼くて話に乗れない学太が、やや拗ねたように言った。

「福太、そろそろ、夕飯の用意をしてよ。今日の食事当番だろ」

「へいへい」


井上真偽(いのうえ・まぎ)
神奈川県出身。東京大学卒業。二〇一四年『恋と禁忌の述語論理』でメフィスト賞を受賞しデビュー。一八年『探偵が早すぎる』がドラマ化され話題に。著書に『その可能性はすでに考えた』、『ベーシックインカム』、『ムシカ 鎮虫譜』などがある。

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