【SM小説】美咲凌介の連載掌編「どことなくSM劇場」第38話 お礼参り事件――どえむ探偵秋月涼子の杞憂
人気SM作家・美咲凌介による、書き下ろし掌編小説・第38回目は「お礼参り事件」。Sのお姉さま・真琴さんの元に届いた、高校時代の番長(?)大神からの「お礼参り」の連絡。困惑した真琴さんは「どえむ探偵涼子」の手配した人員とともに喫茶店で会うことを約束したが、そこに現れた大神は人を連れていて……。
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「新宮さん、あんた、大神くんになんか恨まれるようなことした?」
「いや、心当たりないけど」
「でも、大神くん、仕返ししてやるって、息巻いてたよ。さっき電話で……それでね、怒らないで聞いてくれる? あたし、そんなこととは思ってなかったから、最初に教えてくれって言われたとき、あんたのスマホの番号、大神くんに教えちゃった。だから、電話かかってくるかも」
「別に構わない。だいたい大神くんは、私の電話番号、知ってたはずだけど」
「スマホが壊れたときに消えちゃったんだって」
「それで……仕返しって、どういうこと? 本当に大神くんが私に仕返しするって言ったのか。なにか勘違いしてるんじゃない? 具体的にどんなこと言ってたんだ?」
「思い知らせてやるとか、借りは必ず返すとか、いろいろ言ってたよ。あっ、そうそう。お礼参りするって言ってた」
「お礼参りって……今ごろ変だろ? お礼参りっていうのは、卒業式の日に恨みのある先生を体育倉庫の裏なんかに呼び出して、みんなでボコるっていう、あれだろ? もう卒業してから三年近くになるじゃないか。そもそも私は、先生じゃない」
「そんな細かいこと、大神くんが気にするはずないじゃん」
「まあ、それもそうか」
「新宮さん、気づいてないだけで、大神くんの気に障ることやっちゃったんじゃないの?」
「記憶にないなあ。こっちに来てから一度も会ってないし。それに、私はむしろ大神くんからは感謝されてしかるべきだと思うぞ。あいつが大学に受かったのも、私が勉強教えてやったからじゃないか」
「大学やめたって噂だよ」
「そうなのか? でも、女をあてがってやったのも、私だし」
「篠崎さんのこと? もう別れたって。これも噂で聞いただけだけどさ。それで恨まれたんじゃない?」
「その辺りのくわしいこと、本人に聞かなかったのか」
「聞けるわけないじゃん。怖いし。ねえ、新宮さん。あんた、気をつけたほうがいいよ。別れたとか大学辞めたとかは、噂で聞いただけだけど、あんたにお礼参りするってことだけは、本人の口から直接聞いたんだから。これだけは間違いないって」
「意味がわからない。理屈が通らない」
「大神くんに、理屈なんか通じるわけないよ」
「まあ……そうかも。いや、そうかな?」
「あっ。それから、私が電話したってこと、大神くんには言わないでくれる?」
「了解。それにしても、変だなあ」
「とにかく気をつけてね」
「うん。気をつけるよ。ありがとう」
そう言うと、真琴さんは釈然としない気分のまま電話を切り、足元にひざまずいている涼子と顔を見合わせた。涼子は心配そうな表情で、ベッドに腰かけた真琴さんの顔を見あげている。
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新宮真琴さんは、聖風学園文化大学文学部国文科の三年生。文学部英文科の秋月涼子はその一つ下の二年生で、二人は同じサークル――ミステリー研究会に所属している。それだけではない。涼子は、バイセクシャルを自認する真琴さんの(今のところ)唯一の性的パートナーであり、SM遊びの相手を務めてくれるM奴隷でもあるのだ。
三月も後半にさしかかったこの日、真琴さんは、「赤の女」消失事件で手に入れた五万円を使って用意した誕生プレゼントの数々を、涼子に手渡してやったところだった。(第28話 「『赤の女』消失事件――どえむ探偵秋月涼子の涙」参照)
プレゼントの数々、というのには、以下のようなわけがある。涼子は、この地方きっての大資産家の箱入り娘。そんな相手にプレゼントをするのに、五万円――真琴さんにとってはなかなかの大金だが――の品物では、いかにも迫力に欠ける。(実際、涼子はこの春休みの前半に運転免許を取得したばかりなのだが、さっそく両親から新車をプレゼントしてもらっていた。)そこで、質より量で勝負することにしたのである。
安い品物を「これも、あれも、これも、あれも」と、次から次に出してみせたのだ。三千円ほどのパジャマを色違い(青・うすみどり・ピンク)で三セット。千円で買える変なデザインの安物腕時計を、これも三つ。スパンキングにも使える――というより、それ以外には当面使う予定のない――五十センチの定規を一本。ネット通販で買った色違いの拘束用ロープ五本。(真琴さんは、SM遊びのときに専用の道具を使うことには原則として反対なのだが、ロープに関してだけは、手作りのものより市販のものがよいという結論に、つい最近達したところ。)その他あれこれあれこれ……。
「お姉さま、こんなにたくさん。本当にありがとうございます」
さすがの涼子も、最後のほうはお礼を言うのに疲れてしまったようである。だが、それで簡単に引き下がらないのが、涼子の涼子たるところ。
「こんなこと申し上げると、またお姉さまに叱られるかもしれませんけれど……」
慎ましそうな、それでいて粘り強い調子で、こんな交渉を始めたのだ。
「涼子、もう一つだけ、誕生プレゼントとして、お姉さまから受け取りたいものがありますの。ええ、もちろん奴隷の分際で贅沢すぎるってこと、涼子もよくわかっています。でも……でも……ああっ。思い切って申し上げますわ。涼子、お姉さまに、涼子のマンションに遊びに来ていただきたいんです。それも一日とか二日とか……そんな短い期間じゃなくって、せめて一週間、少なくても五日間くらいは、滞在していただきたいって思っていますの」
真琴さんは、涼子のマンションにはなるべく入り浸らないようにしている。涼子があまりにもよくしてくれるので、長くいるとなんとなく自分がダメになってしまうような気がするのだ。
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「ええっと。よくわからないな。私のプレゼントのお礼に、涼子がマンションに招待してくれるっていうこと?」
「いいえ、ちがいますわ。お姉さまが滞在してくださるっていうことが、涼子へのプレゼントになるんです。そのお礼はまた改めて……」
「お礼はもう要らないけど。それで、部屋に遊びに行くだけでいいの?」
「できれば涼子のご奉仕を、最大限受けていただきたいって、そんな不遜な欲望を、涼子、抱いているんですの。ご奉仕って……あの……いわゆるセックスに関するものだけでなくって……」
そこで涼子は、恥ずかしそうに少しもじもじして見せた。可愛い。
「涼子、お姉さまのためにお料理してみたり、クルマの運転をしてみたり――ほら、免許もやっととれましたし――それからお姉さまの爪のお手入れをしてみたり――そんな数々のご奉仕に精いっぱい励みたいって、そう思っていますの。ほかにも、お姉さまのお着替えを、全部お手伝いしてみるとか。これまでみたいに時々ではなくって。とにかく涼子、お姉さまのために、あらゆるご奉仕をしてみたいんです」
「それは少し危険な気がする」
「なぜですの?」
「涼子が、私に飽きてしまうかも。ほら、いくら好きなものでも、そればかり食べていると、じきに嫌になってしまうだろ? それと同じことが起きる気がする」
「そんなこと、決してありませんわ」
どうだろう? 涼子はいつも自信満々だが――そして、その涼子の自信が崩れたことは今のところ一度もないのだが――しかし、愛はいつか緩むものではないか、というのが真琴さんの不安なのである。
そうは言っても、涼子の願いを無下に断るのも可哀そうだ。真琴さんはしばらく考えた末、こう返事をした。
「私が涼子のマンションに滞在する。そして、涼子のご奉仕を決して断らない。それが涼子へのプレゼントになるってわけだね。いいよ。じゃあ、あらかじめ日数を決めておこう。五日間。いい? それからもう一つ。涼子がご奉仕に疲れたら、すぐに正直にそう言うこと。それで私が機嫌を損ねるなんてことは、絶対にないから、心配しないで。疲れて嫌になってるのに、意地を張って無理に続けるご奉仕なんて、私は受けたくないもの。そんなの、Sのプライドが許さない」
「ありがとうございます、お姉さま」
お礼参り云々の電話がかかってきたのは、ちょうどそんな会話を交わしているときのことだったのだ。
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「お姉さま? なんだか怖いお電話だったみたいですけど。お礼参りって……大神さんというのは、お姉さまの同級生? 怖い人ですの?」
「話の内容がもう、だいたいわかってるみたいだね」
「だって、涼子、名探偵を目指していますもの。ちょっと推理すれば、そのくらい簡単にわかりますわ。大神さんっていう男の人が、お姉さまに仕返しをするつもりでいる。そのことを察したお友達の誰かが、用心したほうがいいって、わざわざ電話をかけてくださった。そういうことでしょう?」
「当たってる。すごいな」
「まあ。お姉さまったら、またバカになさって。こう見えても、この秋月涼子、将来は名探偵として……」
そうなのだ。涼子は大学を卒業したら、私立探偵として活躍すると宣言している。ミステリー研究会に入ったのも、その修業のためだというのだ。しかも、ただの探偵ではない。SM行為をすると途端に推理力が跳ね上がるドM探偵になると言っているのだが……
バカ? バカなのか?
ただし、ときに涼子が明敏な推理力を発揮するというのは、否定できない事実である。それに、実家のあり余る資産を利用して、卒業後に拠点とする予定の探偵事務所まで既に開設してしまっているのだ。
「それはそれとして、大神さんって、どんなかたなんですの?」
「一口に言えば、タチが悪い奴」
「でも、お姉さまの通っていらっしゃった高校って、進学校だったんでしょう? それなのに、そんなにタチの悪い人がいましたの?」
「進学校っていっても、田舎だからね。中学の全県偏差値でいえば、50もあればけっこう合格しちゃうんだ。もちろん偏差値70以上だったって人もいたけど。だから幅が大きいんだよ」
「タチが悪いって、具体的には? 不良? 暴力的なんですか」
「どうだろう」
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真琴さんの高校時代、いわゆる不良というのかヤンキーというのか――とにかくそういったタイプの人間の集団が、主に三つあった。大神くんは最初のうち、その中で最も小さな集団の中心人物だった。
「こういう話があるんだ」と、真琴さんは涼子に、高校時代の勢力図の変遷を聞かせてやった。
「第一グループの中心にいたのは、これは本当の意味でタチの悪い奴だった。自分にはヤクザの知り合いがいるとか吹聴して、むやみに人を脅したりしてさ。先生たちも手を焼いてる感じだったな」
真琴さんは、その男子のことを思い出した。実に嫌な奴だった。身体もでかいが態度もでかく、女のことに関しても変な噂が多かったはずだ。
「それが、大神くんと揉めたらしいんだ。そして不思議なことに、あるときから学校に来なくなった。辞めちゃったんだね。しかも、そのあと一か月くらいして、家族自体がどっかに引っ越したって聞いたんだ。噂だけどさ。三年生の一学期のころかな。それ以来、そのグループの連中は、残りの二つのグループに吸収されちゃって……それもほとんどは大神くんの集団のほうに流れてきた感じ」
「じゃあ、大神くんっていう人が、番長になったんですか」
真琴さんは、短い笑い声をあげた。
「そんな言葉、どこで覚えてきたの? 番長なんて、そんなものなかったよ。そもそも、別にそれほど統制のとれた集団でもなかったからさ」
「でも、そのヤクザの知り合いだって言っていた人、どうして急に学校に来なくなったんでしょう。理由は?」
「わからない。でも、大神くんが前にも増して怖がられるようになったのは、それ以来だよ」
「謎ですね」
「そう、謎だね」と、真琴さんは答えた。
実際、高校時代、そのことについて大神くんに尋ねてみたいという気持ちは、けっこう強かったのだ。ただ、なんとなくタブーのような気がして――周囲の他の子たちも、その話題には触れたがらないようだった――聞けずにいたのだった。
「ああっ。なんだか、涼子の探偵的本能が刺激されますわ。ところで、お姉さま。そんな怖い大神さんに、お姉さまは女性を紹介したとか、お勉強を教えてあげたとか……ひょっとして脅されていたんですか」
「失礼なこと言うな。私は、誰からも脅されたりしないぞ」
「では、どうして?」
「仲がよかったからだよ」
実は真琴さんは、中学生のころから――どちらかと言えば、あまり柄のよくない連中に好かれることが多いのである。理由はよくわからない。
「三年生のときなんか、大神くん、クラスがちがうのに時々遊びに来たりしてさ。まあ、おかげで助かった面もあったけど。ほら、大神くんみたいなのが周りをウロチョロしてると、ほかの男子が言い寄ってくることもないし。それに、女子の変なグループから、ちょっかい出されることもなくなるしさ。おかげで勉強に集中できたよ」
「お姉さまが大神くんに紹介してあげた女の人というのは?」
「うん。篠崎さんっていって、割とおとなしい感じの子。勉強は、無茶苦茶できなかった。大神くんより成績悪かったんじゃないかな。それでも、たしかデザインかなんかの専門学校に行ったんだと思う。ただ、そんなに親しかったわけじゃないから、よくは知らない」
「それで……どうしてお姉さまが仕返しされるんでしょう。理由は?」
「ちっともわからない」
「謎ですわね」
そんな話をしているところで、またスマホが鳴った。大神くんからだった。
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「会いに行くからよ、住所教えろや」
挨拶もそこそこに、大神くんはそんなことを言いだした。
「教えない。一人暮らしの女子大生が、簡単に住所を教えるわけないだろ?」
「なんだ? 高級な大学に通ってるから、昔の友だちには会いたくないってか」
「会わないとは言ってない。どこかで待ち合わせるならOKだよ。いつがいい?」
「俺、もうすぐ引っ越すからよ。三日後の日曜ってのは、どうだ? 近くまで行くから、場所と時間を決めてくれ」
「それはいいけど……要件は?」
「お礼参りよ」
その一言のあと、大神君は甲高い笑い声をあげた。そう言えば、こんなふうに突然笑い出す奴だったな――と、真琴さんは妙になつかしいような気もした。
「思い知らせてやる。借りは返さないとな」
「借りってなんのこと?」
「会ったときに教えてやるから、楽しみに待ってろ」
真琴さんは、大学の通用門の近くにある喫茶店、ガラスのベル(通称ガラベル)で、午後四時に、大神くんと会うことにした。
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「お姉さま?」と、涼子はひどく心配そうだ。
「どうして軽々しく会うことになさったんです?」
「そのほうが安全だぞ。さっき言うのを忘れてたけど、高校時代、大神くんは闇討ちの大神って呼ばれてたからね。相手が油断しているときに、いきなり襲いかかるのが常套手段って話だった。もっとも噂だけどさ」
涼子は、首をかしげている。
「だからさ……下手に会うのを断ったら、このアパートを特定されて待ち伏せなんかされちゃうかも。反対に、会うって決めておいたら、いきなり闇討ちなんて仕掛けてこないだろ? それに大神くん、もうすぐ引っ越すんだって。……ということは、一回会って、そのときうまく切り抜ければ、そのあとはもう大丈夫だって感じもするし」
「なるほど。でしたら、涼子の部屋にご招待したのは、まさにグッドタイミングでしたわ。お姉さまのこのお部屋は、しばらく空けたままにしておきましょう。そうすれば、万が一、大神さんが待ちきれなくなってこの部屋に侵入してきたとしても、心配はありませんもの」
「そんなこと、まずあり得ないと思うけどね。でもまあ、用心するのは悪いことじゃない」
「涼子、全力でお姉さまをお守りいたします。今回の涼子のご奉仕の目的が、これで定まりました。実は涼子、ただお料理したり、着替えのお手伝いをしたりっていうだけでは、まだ物足りなかったんです。お姉さまのピンチをお救いする! ああ、涼子、Mの喜びに胸が震えてしまいます」
「全力って……」
真琴さんは、少し心配になってきた。
「いったいなにをするつもり?」
「あらゆることをですわ! あっ。そうそう。この件、秋月探偵事務所の業務としても、お引き受けいたします。ほら、この間、申しあげましたでしょう? 祖父が勝手にあたしの探偵事務所を作ってしまって……でも、これまであまり実際の活動はしていなくって、休眠状態のようになっていますの。この件が事務所の実績になれば、一石二鳥です。探偵事務所の仕事として、ボディガードはそんなにおかしくはありませんし」
「実績になるって……でも、その費用というのか報酬というのか、それはどうするの? 私にはそんな余裕はないぞ」
「それは涼子が支払います」
「まあ、それならいいけど」
どうやら涼子の探偵的欲求に火がついてしまったようである。こうなると、変に止めようとしても無駄だということを、真琴さんは既に経験上よく知っている。だから、ただ一言、こう言って釘を刺しておくだけにした。
「私の安全を考えてくれるというのは嬉しいけど、涼子自身の安全もちゃんと考えてね」
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日曜日。真琴さんは涼子の運転する新車(フランス製の小さいが、たいそうしゃれたデザインのクルマ)に乗せてもらって、喫茶ガラスのベル(ガラベル)へと向かった。時間はまだ三時を少し過ぎたところ。約束の四時には、十分すぎるほどの余裕がある。
涼子は三時から閉店時間まで、ガラベルを借り切ったらしい。
「大げさすぎないか」
「そんなことありませんわ、お姉さま。その大神さんっていう人、何人か仲間を語らってやってくるかもしれないじゃありませんか。それに備えて、こちらも人員を配置しています。お姉さまのテーブル以外は、全部人で埋まるようにしていますの。テーブルは四人掛けですから、最大でも三人しか入って来られません。もし、どこかよそへ行こうって言われたら、きっぱり拒否なさってください。無理にお姉さまを連れ出そうとしたら、その時点で取り押さえることになっていますの」
「大神くんは、人を集めて数の力で……っていうタイプじゃないと思う。なんといっても闇討ちの大神だからね。一人でこっそりってタイプだと思うんだけど」
「でも、三年も会っていないんでしょう? 三年経ったら、人って変わると思います。それから、仕返しされる理由ですけれど、なにか思いつきました?」
「やっぱり受験のときに勉強を教えてあげたことか、篠崎さんを紹介してあげたことか……その二つくらいかな。ほかには、なにも思いつかない」
「つまり、逆恨みってことですね? お姉さまのお陰で大学に入学できた。でも、その大学を辞めてしまった。そもそもお姉さまがいなければ、大学に合格できなかった……ということは、辞めることにもならなかった。大学を辞めることになったのは、お姉さまのせいだ。女性の件も同じですわね。お姉さまがいなければ、その篠崎さんという女性とお付き合いすることもなかった、だから別れることもなかったっていう……」
「そんなことで恨まれたら、理屈に合わないけどね」
「でも、理屈が通じない人なんでしょう?」
「その件だけど……」と、真琴さんはじっくりと考えながら言った。
「必ずしも理屈が通じないって印象は、昔はなかったんだけどなあ。それよりも、話が通じにくいっていったほうがいいような気がする。いったん話が通じたら、理屈は通ると思うんだ。私の言っていること、わかる?」
「少しわかりにくいです。理屈が通じないのと、話が通じないのって、どこが違うんでしょう」
「説明するのが難しいなあ。でも、大神くんに会ってみたら、涼子にもわかると思う」
「ところで、お姉さま? いちばん危ないのは、帰りがけだと思うんですの。いきなりクルマの中に押し込まれて、そのまま拉致・監禁されてしまう可能性だってあります。大神さんといっしょにお店を出るのは、絶対に避けてくださいね。もしそんな具合になりかけたら、涼子が途中で声をおかけします。ですから、この子に用事があるって言って、お店に残るようにしてください」
「了解」
真琴さんは、あまり危険を感じてはいない。お礼参りなんて、どこかでなにかがちょっと食いちがっただけのことで、誤解があるとしても、それはたぶん解けると思うのだ。だが、あまりに涼子が真剣なので、正直なところ少し怖くなってきたのも事実だった。
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ガラベルは、もう人でいっぱいだった。老夫婦が二人でやっている、小さな店なのだ。中には、見たような顔が揃っていた。
カウンターを占拠している五人は、痴漢退治事件のときに見かけた空手部の男子たちだ。(第13話「どえむ探偵秋月涼子の忖度」参照)。それから、変なアルバイトにまつわる事件のとき、涼子に付き添っていた二人組の男性(四十歳くらいと六十代)もいる。たしか山下さんと大牟田さんといったか――大牟田さんは、もと警察官だったはず。(第29話 「怪しいバイト事件――どえむ探偵秋月涼子の告白」参照。)そして、涼子の監視役をしているという三十歳くらいの精悍な顔つきをした女性、竹下さん。(第35話 「青いUSBメモリの事件――どえむ探偵秋月涼子の予行演習」参照。)
さらには、例のペア、蘭子さんと和人くんも姿を見せていた。四年生の加賀美蘭子さんは、聖風学園グループの理事長の孫娘。涼子の秋月家と並ぶ大資産家の娘である。萩原和人くんは、その蘭子さんより二つ年下の許嫁。蘭子さんから「若さま、若さま」と呼ばれて非常に大切にされている。というのも、和人くんの萩原家は今では資産こそ大したことはないものの、昔々はこの辺りを領有していた大名の家老の家柄だったということで、加賀美家が財を成すにあたってずいぶん力添えをしてくれたからだという。
蘭子さんは、例によってボディガードの男性を二人引き連れている。和人くんは和人くんで、やはり痴漢退治の事件のときに見かけた男子数名といっしょにいた。地元の後輩らしい。
「涼子、ちょっとこっちに来て」
真琴さんは、涼子をいったん店の外へ連れ出した。
「あの人たち、全部お前が雇ったのか」
「雇ったっていいますか、お願いしたっていいますか……」
「大げさすぎるだろ。いったいいくら使ったんだ?」
「あら、お姉さま。お金なんて特に使っていませんことよ」
「だって、ほら……あの山下さんと、大牟田さんだっけ? あの人たちは?」
「あのお二人は、秋月探偵事務所の所員ですから、お仕事で来ているだけですわ。ですから、月々の給料のほかには、特別な報酬は不要です。そして、この件がなくても、そのお給料はどうせ払わなくてはいけないものですし。竹下さんも同じです」
「ああ、そうか。じゃあ、あの空手部の人たちは?」
「もちろんタダです。お姉さまが危険かもってお伝えしたら、自ら志願してくださったんですの。ご存じありません? お姉さまって、空手部の人たちから大人気ですのよ。もちろん、この涼子ががっちりガードしていますから、告白しようなんて不届きなことをなさるかたは、一人もいないはずですけど」
「そういうことなら、別にガードはしなくてもいいんだけど」
「まあ、お姉さま。涼子というものがありながら、そんな発言なさって。いけません、いけません!」
「和人くんと蘭子先輩は?」
「涼子から和人くんに、お話をしましたの。ほら、和人くんって、こういう騒動が大好きですもの。それで自主的に参加したんですわ。で、和人くんが出張ってくるということになれば、もちろん……」
そこで涼子は、少しだけずるそうに微笑んだ。
「蘭子先輩もご出陣ってことになりますでしょう? 和人くんは勝手に人を引き連れてきただけですし、蘭子先輩のボディガードのお二人は、あれがお仕事ですし。どちらにしても、涼子は一銭も出す必要なんてありませんわ」
「なるほどね。でも、ここまで人を集めて、実はなんでもありませんでしたってことになったら……みんな騒ぎ出したりしないかな」
「お姉さまって、とっても配慮が行き届いていらっしゃるのねえ。でも、涼子、きっとなにかが起こると思いますの。これは涼子の探偵としての勘ですわ。それに、もしなにも起こらなかったとしたら、それこそ最も望ましい結果じゃありませんか。大丈夫です、お姉さま。そのときは、この涼子がちゃんと場を収めてみせます」
「ほかの人はともかく、蘭子先輩は手ごわいぞ」
ミス研の女王というあだ名を頂戴している真琴さんだが、実は蘭子先輩だけは少しだけ苦手としている。なぜかしら怖い気がするのだ。(それだけに、妙に気が惹かれるというところもあるのだが。)
「ご心配は要りません。それよりも、お姉さま。細かい打ち合わせをいたしましょう」
涼子は真琴さんの手を引いて、再び店の中へと連れこんだ。
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「お姉さまは、ここに座ってくださいね」
涼子が指定したのは、隣の倉庫に続くドアにいちばん近いテーブルだった。
「もしも大神さんが暴れ出したりしたら、お姉さまはこのドアからすぐに倉庫に逃げ込んでください。倉庫から外に出るドアの鍵も、今日だけは開いています。そして、そのまま私のクルマに隠れてくださいね。これ、スペアキーです。一回、練習してみましょうか」
実際にやってみたところ、一分もかからずに、涼子のクルマの中まで避難することができた。真琴さんはバカバカしいと思いながら、一応は付き合ってみたのである。
「そのあいだに、みんなで大神さんを取り押さえます。あっ。もちろんお姉さまのお言いつけ通り、涼子は乱闘には参加いたしませんわ。ですから、涼子の席は、ほら、ここ。かなり離れた場所でしょう? 涼子は、大神さんが刃物を振り回したりしたとき、すぐに警察に電話する連絡係ということになっているんですの。それから、お姉さまたちの会話を常に聞いて、必要があったら適切な助言をするのも、涼子の役目です。このテーブルの裏にマイクがセットされていて、電波を飛ばして聞けるようになっています」
「こんな道具まで用意したのか」
「安心なさって、お姉さま。秋月興信所から借りてきたので、これにも料金はかかっていませんわ」
そんな話をしていると、和人くんと蘭子さんが近づいてきた。
「新宮先輩、お礼参りされるんですって?」
和人くんがニコニコしながら、そう問いかけてきた。この子はいつもニコニコヘラヘラしているのだが、今日は特に嬉しそうである。腹立たしいことだ。
「いったいなにをやらかしたんです?」
「それが、私にもちっともわからないんだ」
「まあ、新宮さんは無意識に人を傷つけるタイプの人だから」と、蘭子さん。
無意識に人を威圧するくせに、なにを言いやがる。真琴さんはそう思ったが、にっこりと笑顔で応えるだけにした。こんなときに蘭子さんと揉めても始まらない。それに蘭子さんの言ったことは、それほど間違っているわけではない、と自分でも思うのだ。
こうして、すべての準備は整ったのだった。
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約束の四時よりも数分早く、大神くんがやってきた。驚いたことに、別れたはずの篠崎さんといっしょだった。
席に着き、注文を終えると、大神くんはいきなり言った。
「よお、マコポン。久しぶりだな」
「マコポンって言うな」
「なんだ? 女子大生になって、気取ってるのかよ」
「高校のときから言ってただろ? マコポンって呼ぶなって。ちゃんと苗字に「さん」を付けて呼んでくれって」
「そうだったかな。こいつとお前の話をするときは……」と、篠崎さんの顔をちらりと見て――
「いつもマコポンって呼んでるからな。あと、マコスケとか、マコ太郎とか」
「それも禁止。ところで、あんたたち、噂では別れたって話だったけど……」
「ああ、別れたぞ。何度も別れた。でもよ、その度にアレが戻ってよ」
「あれ?」
「ほら、なんとか言うだろ? エリが戻るとか、オリが戻るとか」
「ヨリが戻る、だろ」
「それよ。何度も別れたけど、その度にヨリが戻ったわけよ。それで結局、こないだ結婚した」
「噓」
「嘘じゃない。結婚したよ。式は挙げなかったけどな」
「どうして」
「知らないのか。今は、式を挙げないのが流行ってるんだぞ。それに、うちの親は結婚に反対だったし、こいつの親は」と、またちらりと篠崎さんを見て――
「招待しても来そうになかったしな」
「ああ」
篠崎さんが、高校時代から親と関係が悪いことは知っていた。(もっとも結婚したというのが本当なら、もう「篠崎さん」ではなく「大神さん」ということになるのか。)特に義父――篠崎さんの母親は再婚していた――とは、きわめて仲が悪かったらしい。
真琴さんは、篠崎さんの顔を見た。篠崎さんは、静かに微笑んでいた。
「まあ、なんにしても」
少し声を励まして言う。
「それは、おめでとう。二人の未来に幸多からんことを祈るよ」
「相変わらず変な言葉、使いやがって」
「ところで、どうして急に訪ねてきたんだ? なにか用件があるのか」
「電話で言ったじゃないか。お礼参りよ」
「お礼参りって?」
「ほら、これだ!」
大神くんは足元に置いていたバッグから、大きな角ばった細長い包みを取り出して、テーブルの上にドン――と置いた。そして、例の甲高い笑い声を、ひと声あげた。
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「これを渡そうと思ってよ」
「なんだ? これ」
「さて、なんでしょう」
そのとき、人の近づく気配がした。視線を上げると、涼子の監視役というのかお守役というのか――例の竹下さんが、テーブルの横に立っていた。
「お話の途中で、失礼します。涼子さんが」
「ああ、はい」と、真琴さんは立ち上がり――
「悪い。あっちに知り合いが来ていて、用事があるらしい。すぐ戻るから、ちょっと待ってて」
涼子は、真琴さんを店の入り口近くまで呼び寄せると、囁き声で言った。
「あの包み、爆弾かもしれません。その場で開けてみるって、そう言ってください」
「爆弾だったら、開けちゃダメだろう。あり得ないけど」
「いえ……もし爆弾だったら、大神さんのほうから、家に帰ってから開けろって言い出すはずです。もしこの場で爆発して巻き添えを食らったらたまりませんもの。ですから、お姉さまが今すぐ開けてみるっておっしゃって、それで大神さんがなにも異議を申し立てなかったとしたら、あの包みはひとまず安全ってことですわ。あっ。でも、ひょっとしたら毒針なんかが仕込んであるかもしれません。なので、開けるときは用心なさって」
「わかった」
真琴さんは、席に戻ると言った。
「これ、今すぐ開けてみてもいいのか」
「おう」と、大神くんは上機嫌である。少なくともそう見える。
「開けろ開けろ。すぐ開けろ」
一応、涼子の注意もあるので、用心深く包みを開いていく。中から出てきたのは、透明なビニールのパッケージに包まれた、八冊の文庫本のセットだった。
「芥川龍之介全集か。ちくま文庫の」
「昔の知り合い連中に、いろいろ聞いて回ったら、お前がそれを欲しがってるって話だったからよ。思い切って本屋に注文したんだわ」
「これ、くれるのか」
「やるよ」
「そうか。ありがとう」
「どうだ、思い知ったか」
そのとき、また竹下さんが呼びにきた。
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「涼子、今度はなに?」
「お姉さま、あのご本ですけど、ビニールのパッケージは、破らないほうがよろしいですわ」
「そのつもりだけど。だってバラバラにしたら、持って帰るとき運びにくいもの。でも、どうして?」
「ページの端っこに毒が塗ってあるかもしれません。涼子、子どものころ、そんな小説を読んだような……」
「バカだなあ。そんなこと、あるはずないだろ?」
「それはそうですけど」
涼子は、ほっと小さなため息をついた。
「でも、おかしいじゃありませんか。仕返しにきたって宣言した人が、お姉さまにプレゼントをするなんて。理屈が通りませんわ」
「いや、私は、理屈は通っているような気がしてきた。ただ、話が通じていないだけなんだよ」
「どういうことです?」
「涼子も自分で考えてごらん」
「お姉さまったら。教えてくださらないなんて、意地悪です」
「Sだからね」
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席に戻ると、真琴さんはこう問いかけた。
「このプレゼント――私へのプレゼントって解釈で、いいんだよね。で、プレゼントはすごく嬉しいんだけど、そもそも、どうして?」
「ああ、それはね」と、篠崎さん。
「あたしたち、結婚もしたし、それに引っ越すしね。だから、まあ、つきあうきっかけを作ってくれた新宮さんに、ちょっとしたお礼をしようってことになったの」
「そうか。本当にありがとう。でも、結婚はいいとして、生活のほうは大丈夫なのか。それに大神くん、大学を辞めたって聞いたけど……」
「うん。大学は辞めた」と、大神くん。
「行ってみたけど、つまらんかったしな。で、ホームセンターでバイトしてたらよ、ひょんなことから就職することになって。そのホームセンターのお客さんが、俺のこと気に入ったから紹介してやるって話でよ。それで、その会社のあるN市に引っ越すことにしたわけよ」
N市といえば、涼子の実家のある市である。
「どんな会社?」
「年寄り相手の、なんでも代行業」
「なんだそれ?」
「だからよ、年寄りがいるだろ? で、年寄りだから、いろいろできないことがあるわけよ。庭の雑草取りとか、ちょっとした物置の片づけとか……そういうのを代わりにやって、金をもらうわけ。これから年寄りは増えるばっかりだから、将来性あるって言われてる。で、まあ正社員で雇ってくれるっていうしな……それならまあ、雇われてやろうかと」
「偉そうに。でも、高齢者の相手なんか、大神くんに務まるのか」
「舐めるなよ。俺は年寄りには、すごく受けがいいんだよ。ホームセンターでバイトしてたときも、最近の若者には珍しく、声がでかくて、はきはきしてるって、評判よかったんだぜ」
まあ、そうかもしれない――と、真琴さんは思った。大神くんの声が大きいというのは、たしかに否定できない事実だ。
「それに、私もイラストで少しは稼げるしね」
篠崎さんが、遠慮がちにそう付け加える。
「専門学校に行ったのは、無駄じゃなかったよ」
「そうか。頑張ってるんだな。それで、その大神くんが働くその会社自体は、信用は置けるのか。最近ブラック企業が多いっていうし」
「それは大丈夫。『秋月にこにこシニア代行サービス』っていってだな……お前は知らんかもしれないけど、N市じゃあ秋月グループっていったら、それだけで信用があるんだぜ。秋月建設に秋月不動産、秋月スーパーマーケットに……」
「それはまあ……だいたい知ってる」
突然、すぐ近くから頓狂な声があがった。涼子だった。
「あら?」
「ん?」と、大神くん。
「あらあらあら?」
「なんだ、こいつ?」
「初めまして。秋月涼子と申します」
涼子は、するりと真琴さんの隣の席に滑り込んできた。
「誰? この子」と、篠崎さん。
「可愛いじゃんかーっ」と、大神くんがでかい声で言った。そして、またまた例の甲高い笑い声。少し離れた席から、竹下さんが心配そうに見守っている。
「この子はねえ」
真琴さんは、涼子の腕をそっと取りながら言った。
「今、話に出た秋月グループの本家のお嬢さま」
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真琴さんは、涼子の声がとても好きだ。音程は高いのに、尖ったところがなく、深い響きを持っている。
「お二人は、新宮先輩の高校時代のお友達でいらっしゃるんですね。涼子、お話の邪魔をしてはいけないと思って、ずっと控えていたんですけれど、『秋月にこにこシニア代行サービス』っていう言葉が聞こえてきたものですから……あたしの父の従弟が始めた会社ですわ。秋月グループの中でも、将来がとっても期待されているんだって、父が申しておりました。ところで、こちら、大神さんっておっしゃいましたかしら」
「そうだよ、お嬢ちゃん」
「まあ、お嬢ちゃんだなんて。いけませんわ。涼子、こう見えても、もう二十歳ですのよ。それで、大神さん……お聞きしたいことがあるんです。さっき、マコポンとか、マコ太郎とか、おっしゃっていましたけど。それにマコスケとか。それって、お姉さま……あっ。ごめんなさい。涼子、新宮先輩とはとっても親しくさせていただいていまして、お姉さまってお呼びしているんです。それで、そのマコポンとかマコスケとかマコ太郎って、高校時代のお姉さまのあだ名だったんでしょうか」
「あだ名っていうか……陰ではみんなそう呼んでたな。今でも俺たちは、そう呼んでるし」
「黙れ」と、真琴さん。
「マコポンって、とっても可愛いですわ。でも、マコスケとかマコ太郎っていうのは、どうしてですの? なんだか男の子みたいなあだ名ですけれど」
「ああ。こいつはよお」と、大神くんは真琴さんを指さした。
「二年の体育祭のとき、俺の学ラン借りて、応援団長みたいなことやったの。それからマコ太郎って呼ばれるようになって、そのうちマコスケって……」
「黙れ」と、再び真琴さん。
「ああっ、素敵だったでしょうねえ。お姉さまのそのお姿、涼子も一度でいいから拝見したかったですわ」
「黙れ」と、真琴さんはもう一度言った。
だが、誰も黙らなかった。篠崎さんのスマホの中に、その学ラン姿の真琴さんの写真が、数枚残っていたのだ。真琴さんを除く三人は、ひとしきり大いに盛り上がった。特に、涼子のはしゃぎようといったらなかった。
だが、真琴さんは我慢することにした。とにかく涼子は今日、SMという単語を口に出すことを封印している。そのことだけでも評価してやろうという気になったのだ。
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涼子の興奮が一段落したところを見計らって、真琴さんは言った。
「でもまあ、大神くん。涼子とここで知り合えたのは、よかったんじゃないか。秋月家の本家の娘さんと知り合いだってことになったら、新しい会社でもなにかと有利になるだろ?」
「舐めたこと言うなよ」
大神くんは、あまり大きくもない両目を剥いて見せた。
「俺はそういうのが、いちばん嫌いなんだよ。俺のバックにはなんとかがついてるとか、俺の知り合いには誰それがいるとか……そんなみっともない真似ができるか」
「ああ、そうだったな。じゃあ、今の発言は撤回するよ」
そう言ったとき、高校時代に抱いていた例の謎を、ふいと思い出した。なぜか、今なら大神くんに聞けそうな気がした。
「それで思い出したんだけど……高校時代、俺のバックにはヤクザがいるとか言ってた嫌な奴が、一人いなかったか」
「ああ、いたねえ」と、遠くを見るような目つき。
「あいつ、学校に来なくなって……それからしばらくしたら、一家そろってどっかに引っ越したって聞いたけど……あれって、実際はどうだったのかな。あんたが闇討ちしたっていう噂も流れてたけど……」
「まあ、弱ってきたところで一回、喧嘩はしたけどな。でも、お前がそれを言うのはおかしいだろ?」
「どうして」
「だって、あいつが学校にいられなくなったのは、マコポンよお、お前の作戦のせいじゃんか」
「マコポンって言うな」
「とにかく、お前が作戦立てたから、俺はその通りにやっただけだぞ。それであいつ弱ってきたから、俺がとどめを刺したっていうか」
「なんだ、作戦って? まったく覚えがないけど」
「お前が言ったんだぞ。ヤクザに知り合いがいるっていうけど、そもそも暴力団の名前を出して人を脅したら、それだけで犯罪になるはずだ。だから、本当に暴力団員の知り合いがいる人間は、めったにそんなこと言わないはずだって」
「記憶にない。でも、そのくらいのことは言ったかもしれないな。だって、それは単なる常識的な知識じゃないか」
「で、お前はそのあと、こう言ったの。その暴力団に手紙でも出してみたらいいんじゃないか。こうこうこういう奴が、おたくの名前を出して人を脅しているけど、それでいいのでしょうかって。だから俺は、その作戦通りに……」
「本当に手紙を出したのか。でも、暴力団の住所って、どうやってわかるんだ」
「そんなのネットで調べたらわかっちゃうし……。で、まあ、電話もかけたしな。もちろん公衆電話からだけど。ああ、それから警察にも、同じような手紙を出してみた」
「無茶するなあ」
「で、結局あいつのところに、暴力団のほうから苦情がいったらしいのな。そういうことは……ほら、噂ですぐわかるから。それで、あいつ弱ってきて、学校も休みがちになっただろ。そこに俺が出張って行って、仕掛けてみたわけよ。まあ、喧嘩は引き分けみたいなもんだったけど……だって、どっちもたいして強くないんだもん」
「それで?」
「もう学校に来たくなくなったんじゃないの? で、転校したわけ。隣の市の私立に。引っ越しの件はよく知らないけど、息子の転校に合わせて、面倒だから一家ごと引っ越しちゃえって思ったのか……それとも単に親の仕事の関係かもしれんし……」
「そのあと、どうなったんだろう」
「噂じゃ、その私立を卒業して、東京の大学に行ったって聞いたぜ。だって、あいつ頭はそんなに悪くなかったじゃん。家も、そこそこ金持ちだったみたいだし。俺よりもちゃんとやってるんじゃないか」
「私は、そうは思わないな。あいつはクズだったよ。今でもきっとクズだ」
「マコポン、そういうとこだぞ」
「マコポンって言うな」
「お前は、人の好き嫌いが強すぎるのよ。自分が勉強ばっかりして、いつもキリキリしてるから、他人に厳しすぎるんだな。人間ってのは、もう少し、ゆったりした気持ちで見てやらなきゃいかんよ。三年もすれば人は変わるんだから、あいつだって今じゃ少しは、いい奴になったかもよ」
なんだか涼子と同じようなことを言っている。
「偉そうなこと言うじゃないか」
「俺はもう、社会人だしな」
「そうだな。まあ、新しい仕事、がんばってくれ」
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「さて、そろそろ帰る。金はここに置いておけばいいのか」
「あっ。ここの払いは私が持つよ」
真琴さんは、財布を取り出そうとする大神くんを制して言った。
「引っ越すっていうことだし、私からのはなむけだ」
「はなむけ? はなむけってなんだ」
「餞別のことだよ。引っ越したり旅に出たりする人への贈り物だ。古文でも『馬のはなむけ』っていうだろ? 昔、教えてやったじゃないか」
「忘れた。まあいいや。じゃあ、任せるか。新しいとこに落ち着いたら、また連絡する」
「うん、待ってる」
大神くんと篠崎さんは、帰って行った。二人が去ってからしばらく経つと、真琴さんたちのテーブルの周囲がざわつき始めた。真琴さんは、涼子の耳にささやいた。
「涼子、大丈夫か。結局なんにも起こらなかったけど、みんなにどう言い訳する?」
「なんにも起こらなかったっていうことは、すばらしい結果じゃありませんか。お姉さまをお守りする作戦が、完璧に遂行されたっていうことですわ。大丈夫です。この涼子に任せてください」
そう言うと、涼子は立ち上がって、声を張りあげた。
「皆さま、本日はどうもありがとうございました。幸いにして、交渉は決裂せずに済みましたわ。お姉さまの安全は守られました。繰り返して申し上げますが、本当にありがとうございました。この秋月涼子、皆さまのお働きに、心からの感謝を捧げます。では……」
と、ここで右手を軽く差し上げて――
「本日は、これまで。解散!」
待機していた人たちは、三々五々、ガラベルのドアを出て行った。だが、ここに収まらない人が一人だけいた。加賀美蘭子さんである。つかつかとこちらへ歩いてくると――
「涼子ちゃん。どうやらとんだ茶番だったようね。大山鳴動して鼠……」
「ああっ。蘭子先輩、ありがとうございます!」
涼子は大きな声をあげ、いきなり蘭子さんの手をとった。
「今日の蘭子先輩のご活躍、素晴らしかったですわ! はっしとあの怖い男のかたを睨みつけて……涼子の見るところ、あのかた、間違いなく先輩の眼光に、畏怖の気持ちを抱いていましてよ! おかげで、あたしたちの交渉も、とってもスムーズに運びました。蘭子先輩って、本当に素晴らしいかた。涼子、改めて先輩のお力を見直しましたわ」
蘭子さんの隣では、和人くんが例によってニコニコしている。
「ええ、まあ、そういうことでしたら」
さすがの蘭子さんも、嫌味の続きは言えなくなったようである。
「涼子ちゃん。これからも、なにか困ったことがあったら、あたくしに相談にいらっしゃい。新宮さんも、無事に済んでなによりでしたね。さあ、若さま、参りましょう」
真琴さんの隣を通りすぎるとき、和人くんはうふっと笑い声をあげた。どうやら事の成り行きが――つまり、はじめから空騒ぎにすぎなかったということが――ちゃんとわかっているらしい。生意気な奴だ。
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クルマを発進させながら、涼子は助手席の真琴さんに話しかけた。
「お礼参りの謎、ようやく涼子にも解けましたわ」
「そう? じゃあ、答えを言ってみて」
「あの大神さんってかた、ヨリが戻るっていう言葉を、はっきり覚えていませんでした」
「そうだね」
「それから、はなむけっていう言葉もご存じないようでした」
「うん、そうだった」
「つまり、あまり語彙が豊かだとはいえないかたなんですわ。そしてそのことは、成績がふるわなかったっていう篠崎さんも、同じではないかって思いましたの」
「だから?」
「だから、たぶん大神さんは、そして篠崎さんも、お礼参りっていう言葉の意味を、よくわかっていらっしゃらないんです。単にお礼っていう意味だと思っているのに、ちがいありません。もっとも、お礼参りってもともとは、神様や仏さまにお礼を言うためにお参りするっていう意味なんですから、そんなに変な間違いでもないんですわ。それから、思い知らせるっていう言葉ですけど、それも自分の感謝の気持ちを十分に伝えるっていう程度の意味で言っていたんだと思います。要するに、大神さんはお姉さまにお礼をしたいっていうだけのことだったのに、あたしたちはそれを、仕返しだと思いこんでいたんです」
「そういうことだね」
「理屈が通じないわけじゃない、言葉が通じないだけだっていうお姉さまのお言葉は、そういう意味だったんですね。今回の涼子の探偵としての勘は、完全に外れてしまいましたわ。涼子、とっても恥ずかしいです」
「まあ、今回の涼子の心配は、杞憂に終わったっていう感じかな」
「お姉さまは最初からわかっていらしたのに、涼子、空騒ぎを演じてしまって。すごく反省しています」
「私も、最初からわかっていたわけじゃないよ。あのヨリを戻すって話あたりから、だんだんわかり始めたんだ。でも、それも涼子が、私をしっかり守ってくれたおかげで、落ち着いていられたからだと思う。ありがとう」
「お姉さまって、とってもお優しいですわ」
19
その夜、涼子のマンションでのこと。
「さあ、お姉さま。存分にお打ちになって」
涼子は一糸まとわぬ裸になっている。そして、ベッドに腰かけたパジャマ姿の真琴さんの膝の上に腹ばいになり、弾力のある小さめの尻を、こころもち高く揚げている。
「勘違いして大騒ぎしてしまった、愚かな奴隷の涼子を、厳しく罰してください!」
「でも、さっきも言っただろう? 私を守ろうっていう涼子の気持ちがとっても嬉しかったから、今夜はなんだか罰をあげる気分にならないんだ」
「お姉さま、いけません。甘やかされると、涼子、どんどんつけあがってしまいます。さあ、どうぞ涼子のお尻をお好きなだけ、叩きのめしてください」
「どうも、そんな気分になれないなあ」
「お姉さまったら。涼子を焦らして、楽しんでいらっしゃるんですね。でも、涼子、そんなお姉さまが、涼子を厳しく罰したくなる呪文を手に入れましたわ」
「呪文? なんのこと?」
「マコポン」
「なんだと?」
「マコポン、マコポン」
「涼子!」
「いかがです? お姉さま。涼子を厳しく叱ってやりたいっていうお気持ちが、むらむらと湧き上がってきたんじゃありませんこと? でも、これだけじゃありませんの。まだ続きがありますのよ」
「黙れ」
「マコポン、マコスケ、マコ太郎」
涼子はくすくす笑うと、もう一度繰り返した。
「マコポン、マコスケ、マコ太郎!」
「こいつ。もう許さないっ」
真琴さんは、右手を挙げると、涼子の尻を音高く打った。
「ありがとうございます、お姉さま」
そう言った涼子の声の中には、まだ笑いが多量に含まれていた。
◆おまけ 一言後書き◆
今回、涼子の乗っている「フランス製の小さいが、たいそうしゃれたデザインのクルマ」とは、ルノーのトゥインゴを想定しています。
2021年11月17日
美咲凌介(みさきりょうすけ)
1961年生まれ。福岡大学人文学部文化学科卒業。在学中、文芸部に所属し、小説や寓話の執筆を始める。1998年に「第四回フランス書院文庫新人賞」受賞。SMを題材とした代表作に『美少女とM奴隷女教師』『Sの放課後・Mの教室』(フランス書院)など。他に別名義で教育関連書、エッセイ集、寓話集など著書多数。
初出:P+D MAGAZINE(2021/11/24)