【SM小説】美咲凌介の連載掌編「どことなくSM劇場」第42話 謎めいた隠語の事件――どえむ探偵秋月涼子の放置プレイ

人気SM作家・美咲凌介による、書き下ろし掌編小説・第42回目は「謎めいた隠語の事件」。Sのお姉さま・真琴さんと同じ国文科の友人カップルの話を偶然聞いてしまった「どえむ探偵涼子」。「ティーガー」という単語から、国文科の人たちだけに通ずる隠語だと判断した涼子は、その謎を解くべく真琴さんに相談してみるが……?

四月上旬の金曜日。午後四時をすぎたあたり。聖風学園文化大学三年生の新宮真琴さんは、たいへん機嫌がよかった。授業料全額免除の特待生という資格を保持したまま、無事三年生へと進むことができたし、今年から始まった専門課程――真琴さんは文学部国文科に所属している――のゼミの感触も上々。そのうえ今夜は可愛い同性の恋人、秋月涼子といっしょにドライブや食事を楽しみ、そのあと自分のアパートの部屋へ連れこんで、大好きなSM遊びに興じようという予定もあるのだ。

真琴さんのことを「お姉さま、お姉さま」と呼んで慕ってくれる秋月涼子は、この地方きっての資産家、秋月家のご令嬢。どちらかといえば貧乏な庶民の娘である真琴さんとは縁のなさそうな存在だが、二人はどちらも聖風学園のミステリー研究会(略してミス研)に所属している。知り合ったのも、その部室でのこと。出会ったときから涼子が妙にぐいぐい押してきて、去年の夏休みには裸で抱き合う仲になり、秋あたりからはSM遊びにも熱心に取り組むようになったのである。

真琴さんには、ミス研の女王というあだ名を頂戴するほど傲岸不遜な一面がある。いっぽうの涼子はといえば、「あたし、根っからのMなんですの。それもドがつくドMですわ」と宣言してはばからないM気質。そんな二人だから、いわゆるSM的な行為に関心が向いたというのも、それほど変な話ではない。

もっとも、涼子は真琴さんの単なるM奴隷というだけではない。

「涼子、大学を卒業したら、探偵になるつもりでおりますの。それも、ただの探偵ではないんですのよ、お姉さま。涼子が目指しているのは、SM行為をすると途端に推理力が跳ね上がるドM探偵なんです!」

そんなことを言ったりするのだ。バカ? バカなのか?

待ち合わせ場所は、大学の構内の一画にある庭園めいた場所だった。小さな池の周囲をぐるりと歩道が巡り、柳の木などが植えられている。あまり人影はない。歩道にいくつか置いてあるベンチのうちの一つに、涼子は一人で腰かけていた。熱心にスマホを覗いているようだ。それは、涼子にしては珍しいことだった。

待ち合わせのときの涼子は、たいてい早めに来て、スマホなんぞを覗いたりはせず、真琴さんの来るのをひたすら待ち構えている。それなのに今日は、なにかよほど面白いものでも見つけたのか、一心にスマホの画面に見入っているようなのだ。

「なにを見てるの?」

真琴さんはそう問いかけながら、涼子の隣にいきなり腰かけた。涼子は、はっとしたように視線を上げると――

「あっ……お姉さま、ごきげんよう」

その涼子の顔を見て、真琴さんは少しびっくりした。変に青白く、どこか怯えているようにも見える。

「どうかした?」

「あの……お姉さま。あまり大きな声は……」

ひそひそとした囁き声。つられて真琴さんも、声の音量を落とした。

「いったい、どうしたの?」

「あれをご覧になって」

涼子の視線を追うと、池の向こう側を歩く男女の二人連れがいた。だが、顔までは判然としない。

「誰?」

「春日先輩と、鬼塚先輩です」

「ああ」

春日くんに鬼塚さん。二人とも、真琴さんと同じく国文科の三年生だ。英文科二年生の涼子とは学科も学年もちがうが、「青いUSBメモリの事件」と涼子が名づけた出来事を通じて、顔見知りになっている。(第35話 『青いUSBメモリの事件――どえむ探偵秋月涼子の予行演習』参照)

二人とも、真琴さんとは仲は悪くない。というよりも、かなりよいほうだろう。特に春日くんは小説なんかを書く人で、読書量も多く、真琴さんとは話が合う。いったいどうして国文科に来たんだ?――と、疑いたくなるほど不勉強な学生が多い中、真琴さんが一目置く数少ない学生の一人である。

「あの二人、つきあってるんだよ。去年のクリスマスあたりから」

「そうなんですか。それで、お姉さま? あのお二人とトラブルかなにか、ありませんでした?」

涼子は、やはり心配そうな囁き声である。

「いや。どうして?」

「実は涼子、さっき、あのお二人の会話を聞いてしまったんです。もちろん盗み聞きしようなんて、そんなこと思っていたわけじゃありませんのよ。ただ、このベンチに腰かけた途端に、聞こえてきてしまって……お二人は、ほら、そこ……」

斜め向こう、少し離れたところにある、池を背中にするベンチを指さして――

「そこに腰かけて、お話をされていたんです。それが聞こえてきてしまって。そうしたら、なんだかとっても怖い会話でしたの」

「怖い?」

「そうなんです。隠語っていうんでしょうか……合言葉のようなものも聞こえてきて。お姉さま? 国文科の人たちだけに通じる隠語のようなものって、ありますか」

「なんの話か、ちっともわからないな。それに、そのわざとらしい、こそこそした話し方、やめなさい。ほら、二人とも、もう見えなくなったよ。だから、普通の声で、ちゃんとわかるように説明しなさい」

真琴さんが叱ってやると、涼子も少し落ち着きを取り戻したようだ。

「まず、ティーガーになりたいっていう、春日先輩の声が聞こえたんです。そのあと、鬼塚先輩がなだめるようになにか言って、そうしたら春日先輩、今度は吐き捨てるような感じの、とっても怖い声で、どうせティーガーになんかなれないんだって。それで、涼子、ティーガーって、国文科の人たちだけに通じる隠語じゃないかって思ったんです」

「ティーガーねえ。聞いたことないな。英語?」

「ドイツ語みたいです」

「ああ、春日くんは、第二外国語がドイツ語だからね」

「涼子、さっき検索してみたんですけど」

「だからスマホを覗いてたのか。それで? どういう意味だった?」

「トラっていう意味です。動物の虎。英語でいえばタイガーですわ。それから、第二次大戦のときのドイツの戦車の名前も、ティーガーっていうみたいです」

「なるほど」

「トラっていう単語で調べてみたら、今度は真珠湾攻撃の暗号だっていう話が出てきて……トラ・トラ・トラっていうのは、ワレ奇襲ニ成功セリっていう意味なんですって」

「有名な話だね」

「なんだか怖いお話でしょう? しかも、話の途中に、お姉さまの名前が出てきたんです」

「どんなふうに?」

「春日先輩が怒ったような声で、新宮さんとも対決しなきゃいけないって、そんなことをおっしゃったんですの」

「ほう。で、鬼塚さんは?」

「鬼塚先輩の声は、春日先輩ほど大きくなくって、あまりよく聞き取れませんでしたの。でも、たしか関門はもう二つ突破した……そんな意味のことをおっしゃっていましたわ。なだめるような感じの声でした。なだめる……いいえ……むしろ励ますような声といったほうがいいかもしれません」

「励ます、ねえ。まだよくわからないな」

「涼子もですわ。ティーガーになりたい。虎になりたいって、どういう意味でしょう? それから、ティーガーにはなれない……虎になれない。ああっ。とっても意味深です。なにか邪悪な企みが進行しつつあるんですわ。それもお姉さまを巻きこんだ、恐ろしい企みが……」

「どうだろう? 私には、そうは思えないけど」

「いいえ。これは、涼子の探偵としての勘なんですけれど、事は急を要すると思います。ひょっとしたら、春日先輩たちが今夜、お姉さまを急襲することだって考えられますわ。虎になるっていうのは、虎のように獰猛にお姉さまに襲いかかるっていう意味ではないでしょうか。関門を二つ突破したっていう、その関門って……そう! たとえばお姉さまの部屋の合鍵を作るのに成功したとか、アリバイ工作の準備が完了したとか……そんなことを指しているのかもしれません」

涼子は、少しずつ早口になっていく。

「そうですわ! 虎になれないっていうのは、そんな悪辣な行為に対する春日先輩のためらいの気持ちを表しているっていう解釈も成り立ちます。そして、鬼塚先輩が、ためらう春日先輩をけしかけているとしたら? ね? お姉さま? 鬼塚先輩とお姉さまとのあいだに、これまでなにか、トラブルはありませんでしたか。きっとなにかあったはずですわ。思い出してください。ほんのささいなことでもいいんです。お姉さまのほうではなんとも思っていなくても、鬼塚先輩はすごく気にしているっていうことが、あるかもしれません。なぜって、お姉さまは、あの……あの……」

そこで、涼子は急に口ごもった。言葉を選ぼうとして、うまい表現がなかなか浮かんでこないらしい。真琴さんは、声をあげて短く笑った。

「はっきり言えばいいじゃないか。鈍感だからって言いたいんだろ?」

「いいえ。そうじゃありませんの。ただ、お姉さまって、歯に衣着せないところがあるっていいますか、他人の思惑に左右されないところがあるっていいますか……」

「つまり、他人の気持ちに鈍感なんだろ? 自覚があるし、今後はなるべく改めるようにするよ。でもまあ、涼子。少し落ち着いて。春日くんや鬼塚さんと私との関係は、少しも悪くない。どう考えても、今の涼子の話は、とんでもない妄想だな」

「そうでしょうか」

「そうだよ。とにかく、少し整理してみようじゃないか」

「ティーガーになりたい、でも、ティーガーにはなれない。春日くんは、そう言ったわけだね」

真琴さんは、これまで涼子のしゃべった内容を思い出しながら、ゆっくりと言葉を継いでいく。

「ティーガーは、ドイツ語で虎。だから、春日くんは虎になりたいけど、虎にはなれないって嘆いているわけだ」

「嘆いているっていうのか……もう少し、攻撃的な感じでしたわ」

「なるほど。それで、鬼塚さんはその春日くんをなだめるように――あるいは励ますように、二つの関門は突破しているって言ったわけか」

「ええ。そのあとに春日先輩が、お姉さまと対決しなきゃいけないって」

「その対決の話だけどさ」と、涼子の顔を見ながら――

「文字通り、対決っていう言葉を使ったのか」

「そう……じゃないかもしれません。言われてみると、二字熟語じゃなかったかも。ぶつかるとか、打ちかかるとか……そんな感じの言葉でしたわ。立ち向かう?」

「立ち向かうだったら、私が先に攻撃していることになるじゃないか」

「じゃあ、ちがいますわね。もっとこう……お互いに攻撃しあうような……撃ちあう? そんな感じの言葉でした」

「そうか」

少しずつわかりかけてきたようだ。

「虎になりたい。虎になれない。二つの関門は突破。私と撃ちあう……なるほど」

真琴さんは数秒ほど黙ったあと、また同じ言葉を繰り返した。

「ああ、なるほど」

「お姉さま、おわかりになりましたの?」

「たぶんね」と、真琴さんは答えた。

「それで、虎になるって、どういうことなんですの?」

「そうだなあ」

真琴さんは、ちょっと迷っている。

「さっき涼子は、私が他人の気持ちに鈍感だって言ったけどさ」

「涼子、そんなこと申し上げていませんわ」

涼子は、憤然とした口調で抗議を始めた。

「涼子は、お姉さまのお話の仕方が大胆だって、そう申し上げただけです。それをお姉さまが曲解なさって、ご自分で……その……鈍感っておっしゃっただけで……涼子は、お姉さまのお話の仕方、とっても尊敬していますのよ。言いにくいこともズバリとおっしゃって、涼子も少し見習わなくてはいけないって思っているくらいです」

「まあ、どっちが言ったかなんて、どうでもいいよ。同じことを、言葉を変えて表現しているだけなんだから。とにかく私は、自分が他人の気持ちに鈍感だって思うけど、それでもまったくなにも感じないというわけじゃない。この場合、私が勝手にべらべらとしゃべっちゃったら、春日くんに悪いっていう気がしないでもないんだ。それに、そもそもの発端は、涼子が二人の会話を盗み聞きしたことにあるわけだし……」

「まあ、お姉さまったら。盗み聞きではありませんわ。申し上げたじゃありませんか。涼子、ここに座っていたら、たまたまあのお二人のお話が聞こえてきただけです。それで、すぐにご挨拶しようって思いましたのよ。でも、なんだか春日先輩はご機嫌が悪そうでしたし、お姉さまのことがお話に出てくるし……どうしようか迷っているうちに、春日先輩が急に立ち上がって、スタスタ歩いていかれるでしょう? 鬼塚先輩はすぐにその後を追いかけて……ですから、ご挨拶する暇もなかったんですわ」

「うん。涼子に悪気がなかったってことは、私にもよくわかった。それよりも……見てごらん? 春日くんが戻ってきたよ。ほら、あそこ」

真琴さんは少し声を低め、池の向こう側を見るよう、涼子に促した。春日くんはポケットに両手を突っ込んで、ゆっくりと歩いている。池の周囲を時計回りに回って、あと数分もしたら、このベンチの前までやってくることだろう。

「お一人ですね。鬼塚先輩は、どうしたんでしょう?」

「春日くんはきっと、鬼塚さんをバス停まで送っていったんだよ」

ここからは見えないが、池の向こう側には大学正門前のバス停があるのだ。

「そういえば、春日先輩、鬼塚先輩に『送るよ』とかなんとか、そんなことをおっしゃっていましたわ。さっきベンチから立ち上がるときに」

「だろ? それで、今度は一人で頭を冷やそうって、戻ってきたんだよ」

さて、どうしたものか――と、真琴さんは迷っている。なにも知らないふりをして、涼子といっしょにこの場を立ち去るというのも、一つの方法だ。しかし、そうするには時を逸してしまったかもしれない。今、立ち上がると、春日くんに見つかってしまいそうだ。それに、もし春日くんに知られないままこの場を脱出したとして、そのあと涼子に事の次第を尋ねられたら、どうしたらいいのか。春日くんの同意を得ないまま話をしてしまうのは、少しばかりよくないことのような気もする。

では、このままじっと座っていて、春日くんがやってくるのを待つべきか。そうしたら春日くんは、いったいどんな態度に出るだろう。ひょっとすると、挨拶をするだけで何事もなく終わってしまうかも。しかし、もしそうなったら、涼子に事の次第を話してやっていいのかどうかという問題は、相変わらず残ったままになる――

真琴さんが考えこんでいると、涼子が耳元で妙なことを囁いてきた。

「あの……お姉さま? これって、新しいSMですの?」

「SM? どうして、SMの話になるんだ?」

「だって、謎が解けたらしいのに、涼子には教えてくださらないまま、そんなに黙りこんでしまわれて……もしかしたら、これが噂に聞く放置プレイなのかなって、涼子そう思いましたの」

「プレイって言うな」

そう答えたものの、真琴さんは急におかしな気持ちになってきた。四月の暖かな空気にくすぐられたように、笑いがこみあげてくる。

「でも、放置プレイって、おもしろいのかも。今夜、やってみる?」

「お姉さまがお望みなら。でも、涼子の言っているのは、今夜のことではなくって、今のこの状況のことなんですの。お姉さまったら、涼子になにも教えてくださらないんですもの。虎になるって、どういうことなんでしょう? やっぱり一種の隠語ですの? それとも暗号?」

「どうだろう? 隠語といえば隠語なのかなあ。でも、文字通りの意味で、春日くんは虎になりたいって言ったとも解釈できそうだし」

「人間が虎になるなんて、そんなことあるはずないじゃありませんか」

「うん。だから、虎になれないって嘆いたんだよ」

「涼子、少しもわかりません。それに、春日先輩の気持ちを考えると、涼子に教えてやることができないって……なにか春日先輩の恥になるようなことなんですか」

「それは春日くんが判断することだから、私にはなんとも言えない」

「ああ、ますます謎めいてきましたわ。いったいどういうことなんでしょう? それにお姉さまの意地悪なこと。涼子を焦らして、喜んでいらっしゃるんですね」

「でもさ、涼子。涼子は、探偵になるんだろう? だったら、このくらいのこと、すぐに推理できなくっちゃ。もちろん私は、涼子の知らない情報を少しだけ持っているんだけど……でも、名探偵なら、そのくらいのハンデは乗り越えられるはず」

「じゃあ、お姉さまは、涼子にもわかるはずだっておっしゃいますの?」

「むしろ、わからないほうが不思議なくらい。日本の高校を卒業した人なら、ちゃんとわかる問題だと思うぞ」

「高校? どうして高校が出てくるんです?」

「黙って。ほら、もう春日くんが近くまで来ちゃったよ」

さっきまでの迷いは、もう晴れていた。涼子と話しているあいだに、ちょっとした名案が浮かんできたのだ。自分が語りたくなければ、春日くん本人をして語らしめよ、というわけ。さて、うまくいくだろうか。たぶんうまくいくだろう。

「いい? 涼子。しばらく黙っていなさい。私がこれから春日くんと話をするから……それが謎を解く手がかりになるよ」

そう言うと真琴さんは、相変わらず両手をポケットに突っこんだまま、ぷらぷらと歩いてくる春日くんに向かって、「やあ」と片手を挙げた。

「あれ、ダメだったみたいだね」

真琴さんがいきなりそう問いかけると、春日くんは少し顔をしかめて――

「なんで知ってるんだ?」

「この子から聞いたよ」

真琴さんは隣に腰かけている涼子をちらりと見た。涼子は言いつけを守って黙ったまま、小さくうなずいた。

「さっき鬼塚さんとここで、大声出してその話をしてたんだろう? 聞く気はなかったけど聞こえてきちゃったってさ。それに挨拶をしかけたけど、無視して行っちゃったって」

「ああ、それは悪かったね」と、春日くんは涼子に優しく微笑して見せた。もともと春日くんは、涼子には甘いところがある。というより、真琴さんの目から見ると、たいていの人間は涼子に甘いのである。単に美少女だからというだけではない。涼子の人柄には、なんとも言えず愛らしいところがあるのだ。

「そうか、聞かれてたのか。恥ずかしいな」

「二次までは突破したらしいじゃないか。それだけでも、なかなかのもんだよ」

「意味ないね。ダメだったってことに変わりはない」

「それで、虎になりたいって?」

「そんなことまで聞いてたのか」

というより、涼子はそのあたりしか聞いていなかったのだが、真琴さんは素知らぬふりをして――

「カッコつけすぎだろ? だいたいあの人は妻子もあったし、その妻子の衣食のためにちゃんと就職もし直したんだぞ。春日くんは、ただの学生じゃないか」

「まあね。ちょっと言ってみたかっただけだよ。それに結局のところ、現実には人は虎になんかなれないわけだし」

「それで例の件だけど……」

「あれか」

春日くんは、ポケットから両手を出すと、それを胸の前で組んで、しばらく考える仕草をした。そして言った。

「ぼくとしては、新しいのを出したいな。でも、まだわからない」

「今度は、すごく短いものにチャレンジしてみたらいいんじゃないか」

「考えてみる。それじゃ」

春日くんが行ってしまうと、真琴さんは涼子に声をかけた。

「今のが、春日くんの言っていた私との対決ってことだよ。対決っていうのか、撃ちあうっていうのか……つまりちょっとばかり攻撃的な対話だね。どう? これで謎は解けただろ? それに、自分でしゃべるんじゃなくて、春日くん自身に話をさせた私の知略の素晴らしさ。この点も大いに評価してほしいね」

「お姉さま? 実は、涼子、まだよくわからないんですけど」

「噓」

「だって、今の会話だって、とっても謎めいていたじゃありませんか。あれがダメだったっていう、そのあれって、なんのことですの? 二次までは突破したっていうのは、例の二つの関門のことですわね。でも、それってどういうことでしょう。アルバイトかなにかの面接のことかとも思いましたけど、アルバイトは虎と別に関係はなさそうですし。それに、就職して家族もいたあの人って、どなたのことですの? それから、お姉さまのおっしゃった例の件って……ああ、謎は深まるばかりですわ」

「あきれた。まだわからないんだ」

「ごめんなさい、お姉さま。でも、お姉さまは、そんな涼子に優しく謎解きをしてくださるんでしょう?」

「ちょっと待って。さっきも言ったけどさ、涼子は探偵になるんだろう? このくらいの謎は、自分で解けなきゃダメじゃないか。時間をあげるから、もう少し考えてみなさい。それも探偵修業の一環だよ」

「お姉さまったら、またとっても意地悪そうなお顔をなさって」

「Sだからね」

――と答えると、真琴さんは時間を区切ってやった。そうしないと、涼子も張り合いがないだろうと思ったのだ。

「タイムリミットは、私の部屋に辿り着くまで。もし正解が言えたら、今夜のSMは全部、涼子の好きなようにしてあげるっていうのは、どう? 涼子は、どんなふうにしてほしい?」

「そうですわねえ。拘束の時間はなしにして、すぐにご奉仕の時間にしていただきたいです。そして、ご奉仕のあと、涼子のいけなかったところを、お姉さまに優しく叱っていただいて、スパンキングの罰をお受けしたいですわ。もちろん、そのスパンキングは、定規なんかを使うのではなくって、じかにお姉さまのてのひらで打っていただきたいんですの」

真琴さんがS、涼子がMなのだから、二人のSMはなんの支障もなくすべてが円滑に行われる――というわけではない。実際にはさまざまな意見の相違が存在している。

真琴さんは涼子を「拘束」するのが好きだし、涼子は真琴さんに「ご奉仕」するのか好き。だから今のところ、拘束とご奉仕の時間を半々にしているわけだが、さて、その拘束にしても、いざ始めると涼子はきつく縛ってもらいたがるし、真琴さんのほうはごく緩く縛って、むしろ涼子が恥ずかしい姿勢を半ばは自分からとることを望む、といった具合で、意見がぴったり一致することはめったにない。

定番のスパンキングにしても同じことだ。真琴さんのてのひらで打たれるのが好きな涼子に対して、なにか道具――しかもSM専用ではない日常の道具を使ってやりたがる真琴さん。二人のあいだには、大きな隔たりがある。

「いいよ、わかった。もし涼子が正解を言えたら、今夜はそうしてあげる」

「ありがとうございます、お姉さま。それなら涼子、一生懸命考えますわ。でも」

――と、少しばかり心配そうな顔になって

「正解が言えなかったら、どうなるんですの?」

「放置プレイ」

「え?」

「放置プレイ」と、真琴さんは繰り返した。

「お姉さま、プレイって言ったら、いけないんじゃ……」

「バカだなあ、涼子」

真琴さんは、涼子の髪をそっと撫でてやった。

「私が言うのは、かまわないんだよ」

「降参です、お姉さま」

真琴さんの膝の上に抱かれて、涼子は悔しそうな声でそう言った。二人はもう、パジャマ姿になっている。いよいよ楽しいSM遊びを始めようというところ。

「残念だなあ。今夜は涼子に、思う存分ご奉仕をさせてあげたかったのに」

「でも、スマホで検索もいけないって、少しルールが厳しすぎると思います」

「だって、そんなことしたら、すぐに答えがわかっちゃうもの。考えてみたら、私があのベンチに辿り着いたのは、ぎりぎりのタイミングだったんだね。あのとき涼子、スマホで調べ始めてただろ? もう少し遅かったら、きっと自分で答えを見つけていたと思うよ」

「つまり、それだけ当たり前のことっていうわけですの?」

「そうだよ。涼子がわからないっていうのが、信じられないくらい」

涼子が時に鋭い推理力を発揮するというのは、否定できない事実である。だが、そんな涼子にも苦手分野があるらしい。

「でも、お姉さまはさっき、涼子の知らない情報をご存じだって……それを教えていただかないと、不公平っていう感じがしますわ」

「ダメだよ。それを言ったら、答えを言うのと同じだもの」

「ああ、どうしてもわかりません。やっぱり降参いたします。ですから、お姉さま。早く謎解きをなさって。涼子、もう待ちきれませんわ」

「じゃあ、今夜のSMは放置プレイっていうことでいいんだね」

「仕方ありません。それに、放置プレイって初めての体験ですし。涼子、なにごとも体験してみるって、大切なことだと思っていますの」

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「答えはね」

真琴さんは、背後から涼子のほっそりとした腰を抱きしめ、その感触を楽しみながら、耳元に囁いてやった。

「李徴」

「リチョウ? リチョウって、なんですの?」

「『山月記』の主人公」

「『山月記』? あの中島敦のですか。ああ、だから虎……」

「そうだよ。高校のとき、国語の授業でやっただろ? 詩人を目指していた李徴は、文名揚がらず悩みに悩んだあげく、ある夜、旅先の宿屋から逐電。翌年、旧友の前に虎となって現れる」

「じゃあ、お姉さまのおっしゃっていた例の件って、なんですの? 春日先輩に、今度は短いものにチャレンジしたらといいとか……」

「今度、国文科のみんなで同人誌みたいなものを作ろうと思ってるんだ。そこに短い小説でも載せてみたらって話」

「それも小説のお話ですわね。『山月記』も小説。『山月記』って……主人公の李徴は、詩人を目指しているにもかかわらず、同じ志を抱く友人と交わろうとはしなかった。その臆病な自尊心と尊大な羞恥心……それが心の中の猛獣だった。虎だった……たしか、そんなお話でしたらかしら」

「ちゃんと知ってるじゃないか」

「でも、それが春日先輩と、どう関係があるんですの?」

「春日くんが小説を書いているってこと、涼子も知ってただろ? それで、大学一年のころから取りかかっていた長編が半年くらい前に完成して、それを新人賞に出したんだ。その発表が三月だった。私が知っていた情報っていうのは、そのこと」

「つまり、ダメだったっていうのは、落選されたってことですね……二つの関門っていうのは?」

「二次選考までは通ったってことだろうね。それだけでも、学生としてはすごいと思うけど。九割くらいの作品は、一次選考で落ちるらしいよ。だけど春日くんとしては、二次選考通過くらいで満足してたまるかって気持ちなんだろう」

「それで、詩人として大成できなかった李徴に、自分を重ね合わせた……なるほど……でも、なんだかおかしいですわ」

涼子は、真琴さんの腕の中で、小柄な身体をよじりながら言った。

「だって、李徴が虎になったのは、詩人として名を成すことを望んでいるのに、他人と切磋琢磨することを怠ったからでしょう? それは、さっきも申し上げたとおり、臆病な自尊心と尊大な羞恥心のせいだった。それが自分を虎にしてしまった……そんなお話だったと思いますけど……」

「その通りだよ」

「だとしたら、虎になりたいっていうのは、おかしいじゃありませんか。なぜって、虎になるってことは、立派な詩人になることに失敗した、しかも詩人になるための、そもそもの修業の方法からして間違っていたっていうことでしょう? もし春日先輩が小説家になりたいんだったら、『虎になりたい』じゃなくて、『虎にはなりたくない』って考えるはずじゃありません? それから、『虎になれない』って嘆くのも、変なお話ですわ。『このままじゃ虎になってしまう、でもそれだけはいやだ』っていうのなら、少しはわかる気もしますけれど」

「文字通り解釈したら、そうなるだろうね。でも、春日くんは、もう少し違った解釈をしたっていうのか……解釈というよりも、話自体の意味を少し作り変えたというのか……」

「どういうことでしょう」

「難しいな。少し待ってくれる?」

そう言って、考えこんでしまう。春日くんの気持ちはよくわかるような気がするのだが、それを言葉にしてまとめるのは、なかなか難しかった。

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一分間ほどの沈黙のあと、真琴さんはゆっくりと話し始めた。

「もちろん、私だって春日くんの本当の気持ちはわからないよ。だから、これは単なる私の推測だけれど」

「それでもかまいませんわ」

「李徴は、詩人として大成できなかった。そして、虎になってしまった。春日くんは小説の新人賞に落ちた。そして……でも、虎にはなれない。やっぱり人間として、毎日を生きていかなくちゃならない」

「虎になんか、ならないほうがいいじゃありませんか」

「もちろんそうだね。でも、落選したっていう事実を抱えたまま、人間として生きていくっていうのも、なかなかきついことなんだと思うよ。虎になっちゃえば、ほら……そんなことは、いつかすっかり忘れてしまえるだろう? でも、現実には、人間は虎にはなれない。やっぱり人間として、生きていかなくちゃならない。それも、文学賞に落ちた人間……失敗した人間として、毎日を過ごさなくちゃならない。いっそ人間でいられなくなったほうがいいのに……でも、現実にはそんなことは絶対に起こらないんだ。それが、虎になりたいけど、虎にはなれないってことの意味だと思う。だから、あの『山月記』って作品は、悲惨なことが書かれているけど、やっぱり美しいおとぎ話でもあるんだよ」

「新人賞には、これから何度でも応募できるじゃありませんか」

「そして、応募する度にずっと落ち続けるとしたら?」

「でも、まだ大学生ですもの。そんなに思いつめなくても……」

「うん。だからさっき、私も春日くんに、カッコつけすぎって言ったんだよ。そうしたら、彼、ちょっと言ってみただけだ、なんて返事しただろ? つまり、春日くんだって、そんなことちゃんとわかってるんだよ」

「なんだか難しいお話で、涼子には、あまりピンときませんわ」

そう言うと、涼子はしばらく黙りこんだ。それから、ぽつりと問いかけた。

「お姉さまも?」

「私?」

「お姉さまも、そんなこと思ったりなさいますの? つまり、虎になりたいって……」

「私は、あまりそんなことは思わないなあ。でも、私が虎になるとしたら、涼子を食べる悪い虎になるかも。だって、こうして後ろから見ていると、涼子の耳たぶって、とっても可愛いんだもの。噛んであげたい」

「お姉さまがお望みなら……そっとですよ。あんまり痛いと、涼子、泣いてしまうかも」

「こう?」

真琴さんは、背後から涼子の左の耳たぶを、軽く噛んでみた。唾液のはじける微かな音がした。涼子はくすぐったそうに笑うと――

「もう少し強くても……」

「ダメダメ。歯形なんかついたら、たいへんだもの」

12

腕時計を見ると、まだ五分も経っていなかった。今度こそ十分間くらいは――と思っていたのだが、とうてい待っていられない。真琴さんはキッチンから戻ると、ベッドの上で体操座りをしている涼子の裸を抱きすくめてやった。

そんなことを、もう五、六回は繰り返しているのだ。

「あっ、お姉さま」

「どうだった?」

「やっぱり少し退屈でした。涼子、すぐ近くからお姉さまに見つめられているほうが、胸がドキドキします。それに、こうしてギュッとしていただけたら、すごく嬉しくて……」

「私も、あんまりおもしろくはないな。キッチンで、ただ黙っているだけなんて」

「放置プレイって、あたしたちには向いていないのかもしれませんわ」

「やり方が、まちがっているのかも。検索して調べてみようか」

「いけません、お姉さま。だって、もうあんまり時間がないんですもの」

大資産家のご令嬢だけあって、涼子は外泊が禁じられている。一人暮らしはしているものの、毎晩、マンションの部屋に実家の使用人から電話がかかってきて、ちゃんと戻っているかどうかチェックされるのだ。だから、もうしばらくしたら送ってやらなければならない。

「放置プレイについては、次までに涼子がちゃんと調べておきますわ。ですから、さあ、お姉さま? ここに……このベッドの上に横になってください。涼子が献身的にご奉仕いたしますから……ね?」

真琴さんにも、いろいろと言いたいことはあった。だが、真琴さんの口が開くよりも、涼子のふんわりとした唇が頬に押しつけられるほうが、少しだけ早かった。

◆おまけ 一言後書き◆
春日くんが登場する話は、この話を含めて現時点で三つありますが、時系列順に示すと、第35話『青いUSBメモリの事件――どえむ探偵秋月涼子の予行演習』が最も早く、真琴さんが二年生だったときの夏の話。次がこの話で、三年生になったばかりの四月の出来事。そして、第18話『学園祭不連続盗難事件――どえむ探偵秋月涼子の鎖自慢』が、三年生の秋に起きた事件ということになります。

2022年3月19日

美咲凌介(みさきりょうすけ)

1961年生まれ。福岡大学人文学部文化学科卒業。在学中、文芸部に所属し、小説や寓話の執筆を始める。1998年に「第四回フランス書院文庫新人賞」受賞。SMを題材とした代表作に『美少女とM奴隷女教師』『Sの放課後・Mの教室』(フランス書院)など。他に別名義で教育関連書、エッセイ集、寓話集など著書多数。

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