【SM小説】美咲凌介の連載掌編「どことなくSM劇場」第51話 ハスカイ家の大蜘蛛――どえむ探偵秋月涼子の遁走

人気SM作家・美咲凌介による、書き下ろし掌編小説・第51回目は「ハスカイ家の大蜘蛛」。8ヶ月ぶりの“どえむ探偵”シリーズ。Sのお姉さま・真琴さんと、どえむ探偵・涼子が今回調査するのは“巨大な人喰い蜘蛛”の噂。目が緑に光り、人よりも速く走るという現実離れした“それ”は生きていて……⁉︎

プロローグ

声に突然、恐怖が混じった。

「お姉さま。これ……生きてます!」

くるりとこちらを振り返る。数歩の距離しかない。ヘルメットのシールドの向こうで、涼子の二つの目が大きく見開かれている。それが暗がりの中でもはっきりとわかった。

立ち上がり、こちらに駆け出そうとする。次の瞬間、涼子はぱったりとうつぶせに倒れた。

「早く戻れ」

引きずられているのか、涼子の身体がわずかに後ろへ下がっていく。その背後に大蜘蛛の二つの目が緑色に光っていた。かすれた声が聞こえた。

「ああ、お姉さ、ま……」

真琴さんは駆け出した。

クモ――雲?

だが、すぐに「八本脚」という単語が聞こえてきたので、蜘蛛のことだとわかった。

「とても信じられません」と言ったのは、涼子の声。ということは、ここは涼子のマンションなのかな? いや、ちがう。たしか部室で待ち合わせをしていたんだ。そして――

蜘蛛? まさか、涼子、あの話を――

だが、それは杞憂だった。切れ切れに頭に入ってくる会話の様子では、SMの話をしているわけではないようだ。

数秒後、いくつかの歯車がカチッと嚙み合って回り始めるように、真琴さんの脳が活動を開始した。瞬く間に自分の今の状況を把握していく。一つ年下の可愛い後輩、秋月涼子と、このミステリー研究会(略してミス研)の部室で待ち合わせをしていたこと。自分のほうが早く来たこと。待っているあいだに本でも読もうと思ったが、このところ睡眠不足だったせいか、猛烈な睡魔に襲われたこと。声から察するに、眠っているあいだに涼子もやってきたこと。涼子だけでなく、四年生の加賀美蘭子さんと、二年生の萩原和人くんも室内にいるらしいこと。ほかにもう一人、声に聞き覚えのない男子学生が――

そしてヨダレ――これが大問題だ。どうやら居眠りをしているあいだに、みっともないくらいの量のヨダレを垂らしてしまっているらしい。なんてことだ!

新宮真琴さんは、聖風学園文化大学文学部国文科の三年生。ミステリー研究会所属。そのどこか冷たさを感じさせる美貌と長身のせいもあって、ミス研の女王というあだ名を頂戴している。もっとも、「美貌と長身のせい」というのは真琴さんがそう思っているだけのことで、本当のところは、単に態度がでかいからなのかもしれない。

が、仮にも女王と呼ばれる存在。ヨダレ塗れの顔を周囲にさらけ出すわけにはいかない。

真琴さんは顔をテーブルの上に突っ伏したまま、右腕をじりじりと動かして、ジャケットのポケットを探り、ティッシュを取り出した。そして、できるだけ音を立てないようにテーブルと自分の口元をふき取った。次はその濡れたティッシュを、再び布バッグの中に戻さなければならない。真琴さんは、再び右腕をじりじりと動かし始めた。

そのあいだも、耳は周囲の声を聞いている。なんともくだらない話が展開されているようだ。もっとも、話している当人たちは皆、ずいぶん真剣そうなのである。

「若さま? 人喰い蜘蛛が出るなんていう無責任な噂は、早く鎮めてしまう必要があります。聖風学園の名誉に関わることですから」

――という声は、加賀美蘭子さん。「若さま」と呼ばれているのは、二年生の萩原和人くんである。この二人は婚約している。蘭子さんが聖風学園の名誉とやらにこだわるのには、理由があって、実はこの和風美女は学園の理事長の孫娘なのだ。ゆくゆくは蘭子さん自身も、そしてそのパートナーである和人くんも学園の理事の一人になるというのが、もうだいたい決定した路線であるらしい。

和人くんのところの萩原家は、昔々このあたりを治めていた殿様の家柄で、蘭子さんの加賀美家は代々その世話になってきたのだという。だから、蘭子さんは二つ年下の和人くんのことを「若さま、若さま」と呼んで大切にしているわけ。一般庶民の娘である真琴さんから見ると、なんだかバカらしいような関係だ。

蘭子さんの声に答えたのは、和人くんではなかった。さっきから気になっている、声に聞き覚えのない誰かだ。

「無責任な噂と決めつけられたら、ちょっと立つ瀬がないなあ。こっちは真剣に調査をやってきたんですよ」

「でも」と、今度は和人くん。

「その調査期間は終わったわけですから、これ以上無理を言われても困ります。自治会としては、既に十分に便宜を図ったと思いますよ」

「そこをなんとかもう一押し、理事長のお孫さんであらせられる加賀美さんの力と、自治会長の君の力でだね……」

和人くんはいつもニコニコヘラヘラしていて、一見するとはなはだ頼りないようだが、実は聖風学園文化大学の、れっきとした自治会長なのである。この五月に冗談のような理由で立候補して、なぜか当選してしまったのだ。(第11話「どえむ探偵秋月涼子の観察」参照)真琴さんは、あんなのを自治会長にして大丈夫か、と思っていたのだが、案外真面目にやっているらしい。

「そんな権力の乱用のような真似は、ぼくにはできませんよ。ただでさえ、二年生のくせに生意気だって言われてるんですから」

ヨダレの始末を終えた真琴さんがテーブルから顔を上げたのは、そんな会話が交わされているときだった。

「あっ。お姉さま、お目覚めですね」

涼子は隣の椅子に腰かけていた。振り返った途端に素早くハンカチを取り出して、真琴さんの頬のあたりをそっと拭い、おや? という顔をした。案外に頬がきれいなことに驚いたらしい。ということは、真琴さんがヨダレを垂らしていたことを知っていて、あらかじめハンカチを用意していたのか。そういえば涼子は、他の人たちから真琴さんの寝顔を隠す位置に腰かけている。

秋月涼子は、真琴さんのことを「お姉さま、お姉さま」と呼んで慕ってくれる可愛い後輩――というだけではない。バイセクシャルを自認する真琴さんにとって、今のところ唯一の性愛のパートナーであり、しかも「あたしって、実はドMなんですの」と主張して、真琴さんにSM遊びの実践を迫ってくる自称「お姉さまの唯一のM奴隷」でもあるのだ。

部室をぐるりと見渡すと、見慣れない男子学生の姿があった。ひょろりと背が高く、顔も面長で、どこか吞気そうな表情をしている。

「こちらは?」

「宗像(むなかた)さん。経済学部の三年生で、オカルト研究会の幹事さんです。お姉さま? 今、宗像さんからとってもおもしろいお話をうかがっていましたの」

「うん。だいたい聞いてた。なんか……巨大な蜘蛛が出現したとかいう……」

「そうなんです。お姉さま、どう思われますか」

「どう思うかって……バカバカしいっていうか……ただ、もう少し詳しい話を聞いてみないと……」

涼子が水を向けると、宗像くんは少し早口で話し出した。のんびりした顔つきからは、ちょっと意外な話しぶりだ。

「ぼくたちの調査によると、その噂が流れ始めたのは、後期授業が始まって以降。もう少し詳しく言うと、九月の半ばくらいからだね。どんな噂かって? うん。この巨大蜘蛛出現の噂には二系統あって、一つは深夜に花火をやって盛り上がっていた学生たちが見たっていう話。そしてもう一つは、別れ話で揉めていたペアが見たっていう話。この二種類だね。どちらも、人の身体くらいの大蜘蛛に襲われかけたっていうことなんだ。場所? 場所はどちらも同じで、三号棟の先にある……ほら、金網の柵の向こうに、不気味な一軒家がぽつんと残っている……」

「ああ、あそこね」

三号棟には、真琴さんも去年までよく通っていた。教養課程の英語の講義がそこであったのだ。

「あの一軒家は、別に不気味ってことはないと思うけど。ただ古いだけで。それに、あの家の犬と私は、けっこう仲よしだったよ」

ミス研の女王と呼ばれるだけあって――そして、M奴隷を自称する涼子から慕われるだけあって、真琴さんはなかなかのS気質の持ち主。だからというわけでもないが、犬が大好きだ。今、話題にあがった柵の向こうの一軒家には、広い庭――というより雑草だらけの荒れ地?――があって、ときどき犬が一匹、鎖もつけずに遊びまわっていた。耳の垂れた茶色の中型犬で、たぶん雑種だろう。パンに挟んであったソーセージを金網の隙間からくれてやったこともある。

「その深夜の花火の件ですけどね」と、和人くんが口を挟む。

「学生課から自治会に申し入れがあったんですよ。午後九時以降には構内から出てもらうよう、自治会からも学生に徹底してくれって」

県下の富裕層の子女が集まるこの聖風学園は、学業よりもお行儀を重んじるところがあって、学生への締め付けが厳しい。(庶民の娘である真琴さんがこの大学に通っていられるのは、授業料全額免除の特待生だからである。)セキュリティも厳重なほうだ。正門と通用門には警備員が立っていて目を光らせている――ことになっているし、原則として午後九時以降、学生は構内に留まってはいけないことになっている。

「どうも、その家……ハスカイさんっていうんですけど……その家から学生課に苦情があったらしいんです」

「ハスカイって、あまり聞かない苗字だな。どんな字書くんだ?」と尋ねた真琴さんに、和人くんは――

「蓮の花のハスに、貝塚のカイです。で、とにかくそういう次第ですから、あの家の近くで深夜までウロチョロして騒ぎまわるのを、許可するわけにはいかないんですよ」

「わがオカルト研究会は、騒ぎまわったりしていない。カメラと録音機を携え、ひっそりと見張っていただけだよ」

オカルト研究会は既に三日間の調査とやらを終えたが、なんの成果もあげられなかった。そこで、再度の調査実施のため、自治会長の和人くんや、理事長の孫娘である蘭子さんに根回しをしようと、このミス研の部室まで押しかけてきたらしい。

「お姉さま? 今のお話を聞いて、どう思われます?」

「まだバカバカしいって感じしかしないけど……ちょっと話は戻るけどさ、その噂っていうのは、どこで流れてるのかな。私はまったく聞いたことがないよ。それに、実際の目撃者――つまりさ、花火遊びをしていた連中とか、別れ話をしていた男女とか、そういう人たちから直接、なにか話は聞けたの?」

「まず、噂の規模についてだけど」と、宗像くんがまたしゃべり始めた。

「経済学部ではかなり浸透してるね。サンプル調査の結果では、六割を超える人たちが知っていた。商学部や法学部では五割超え。でも、文学部では、まだあまり知られていないみたいだね。次に目撃証言についてだが、実は不思議なことに、これがどうしてもとれないんだ。花火で騒いでいたのは経済学部の人たちだっていう説が主流だけど……そうじゃない、商学部の連中だ、いや、法学部だって、錯綜していて。別れ話をしていた二人についても同じ。正体ははっきりしない。それなのに、みんな変に具体的に知っているんだよ。別れ話のほうでいうと、二人とも大声でののしりあっているときに、突然女のほうが悲鳴をあげたんだって。例のハスカイさんのところの庭っていうか、あの野っ原みたいなところね……その一角を指さしてさ。それで、男が見ると、人の身体より大きな蜘蛛が、すごい勢いで近づいてきたっていう話なんだ。もちろん二人とも一目散に逃げ出した。まあ、おかげで別れ話はうやむやになって、今でも仲よくつきあっているという、つまらんオチまでついているんだけど。ね? 妙に具体的で詳しいだろ? でも、当の二人が誰なのか、いくら調べても、どうしてもわからないんだ。花火の連中についても、同じことがいえる。これもまた、オカルトだよ」

「詳しいっていうと、その蜘蛛の姿についてはどうなんです?」と、真琴さん。「そっちも、具体的な話が出てるのかな」

「うん。話だけなら、かなりはっきりしてる。脚を広げると、直径二メートルくらい。それがものすごい速さで移動するらしい。ササササッ……て、八本の脚がめまぐるしく動いて、人が走るよりずっと速いって。腹や脚には黄色や赤の毒々しい縞模様があるそうだ。それから、二つの目は緑色に光っていたっていう話もある」

「どうも、ますます現実離れしてきたなあ」

真琴さんは、涼子のほうを向いて言った。

「今のところ、私としてはただのデマの可能性が高いって……まあ、そんなところかな」

「そうでしょうか。涼子、その蜘蛛の姿が変に具体的に語られているっていうところが、ちょっと気になります」

「どんなふうに?」

「お姉さま、少しお待ちください。和人くんや蘭子先輩のお話もうかがってみたいですわ」

「ぼくは、単なる実体のない噂にすぎないって思いますね」と、和人くんが語り始めた。

「昆虫や蜘蛛がそんなに巨大になったら、まずほとんど動けないと思いますよ。呼吸ができないはずです。ほら……何億年か前には巨大な昆虫が存在していたって話がありますけど、その時代は酸素濃度が今よりずっと高かったんですね。だから昆虫も巨大化できたんです。よって、現代では巨大蜘蛛なんて存在しようがない……と。たぶん誰かがちょっと大きい、五センチくらいの蜘蛛でも見かけて、それがだんだん大げさな話になっていっただけじゃないでしょうか」

悪戯好きな和人くんにしては、まっとうな意見だ。

「それよりも、ぼくとしては、その噂がどんなふうに広がっていったのか、そのほうに興味がありますね。これって、一種の都市伝説ですから。まあ、このあたりは都市じゃなくて、田舎ですけど。だから学校の怪談って呼んだほうがいいのかな。目撃者不在のまま、噂だけがどんどん広がっていく。オカルト云々じゃなく、これは社会学のテーマになりますよ。ぼくは社会学を専攻するつもりですから、そういう意味ではこの件には興味がそそられます。実際、ついさっき、噂が改変される現場を目撃しましたしね」

「それって、どういうことですの?」と涼子。

「ほら、さっき、加賀美先輩が……」

和人くんは、婚約者の加賀美蘭子さんのことを、加賀美先輩とか、蘭子さんとか、ちゃんと年上の相手らしく呼ぶ。そんな礼儀正しいところには、真琴さんはかねてからちょっとだけ敬意を感じている。

「加賀美先輩は、人喰い蜘蛛っていう単語を口に出したじゃない? それまで宗像先輩は巨大な蜘蛛としか言ってなかったのに、いつのまにか人喰い蜘蛛になっちゃったわけです。ああ、噂話って、こんな具合に尾ひれがついていくんだなあって実感しましたね」

「まあ、若さま。二メートルもある蜘蛛っていわれたら、ついそんな気になるじゃありませんか」

「もちろん加賀美先輩が悪いってことじゃありませんよ。ただ、そんな具合に噂が大きくなる過程を見せてくれたっていうことで……むしろ感謝しています」

蘭子さんは、口の端にほのかな微笑を浮かべたようだ。

「それで、蘭子先輩は、どう考えていらっしゃいますの?」

涼子の問いに、今度は蘭子さんが静かに口を開いた。

「そうね。私は、若さまとは別の視点から、この話の不合理さを指摘させていただくわ。というのは、その人喰い蜘蛛……失礼、巨大蜘蛛とやらの姿のことなの。腹に黄色や赤の縞模様があったっていう話ですけど、その点がずいぶんおかしいんです」

「なぜです?」と真琴さん。

「赤や黄色の縞模様があるのは、ジョロウグモやコガネグモといった種類なの。そして、その種の蜘蛛は、糸で巣を作って獲物を待ち構えるタイプの蜘蛛なのよ。でも、宗像くんのお話では、その巨大蜘蛛というのは、地面をすごい勢いで走り回るっていうんでしょう? もちろんそういうタイプの蜘蛛もいます。でも、そのタイプは、たいてい黒っぽい、地味な色をしているわ。代表はアシダカグモ。ゴキブリを捕えるっていう、日本最大級のクモね。といっても、せいぜい人のてのひらを広げたくらいの大きさですけど。そのアシダカグモは、黒っぽい地味な……まあ、茶色というか灰色というか……そんな色合いで、派手な縞模様なんてありません。だから、腹に黄色や赤の縞がある巨大な蜘蛛が、地面を走り回るっていうのは、とにかく不自然なの。どこかに巨大な巣を張っているというのなら、まだ少しは理屈が通るのだけれど」

「どうして、そんなに蜘蛛に詳しいんです?」

真琴さんが尋ねると――

「小学校三年生のときに、夏休みの自由研究で、コガネグモの観察をしたの。私、小学校低学年のころは昆虫やなにかに、とっても興味があったのよ。我が家の庭に、それは立派なコガネグモが巣を張ったので、毎日時間を決めて観察したんです。図鑑や百科事典であれこれ調べたりして、ずいぶん詳しいノートも作ったわ。先生からもたいへん褒めていただいて――いい思い出ね」

あまりいい思い出でもないような気がしたが、真琴さんはとりあえず黙っておくことにした。

「でも、そのとき、人の身勝手さというものについても学びました」

蘭子さんは、ゆっくりと言葉を継いだ。

「私ね、その一年前の夏には、何匹かアゲハ蝶の幼虫を育てていたんです。ほとんどの幼虫はサナギになって、羽化をして、無事に成虫になったんだけれど、一匹だけサナギのまま死んでしまった子がいたの。どうやら寄生虫にやられていたらしいんだけど。その子のために、私、ずいぶん泣いたわ。ああ、この子はせっかくここまで大きくなって、でもついに一度もはばたくことなく死んでしまった。なんてかわいそうなんだろうって。でもね――」

声が少し小さくなる。

「でも、次の年、コガネグモの観察をしているときにはね、こう思ったの。……この巣には、小さな羽虫しかかかっていない。コガネグモは、お腹がすいているんじゃないかしら。アゲハ蝶のような大きな獲物がかかればいいのに。そう思っていたら……ある日、本当にアゲハ蝶が巣に飛びこんできたんです。この私が見ている前で。私、アゲハ蝶が糸にくるまれ、喰われていくのを、じっと見ていたわ。嬉しかった。これでこのコガネグモは飢えずに済むって思ったら、なんだかとても安心して……でも、それだけじゃない。正直に言えば、もっと残酷な喜びも、たしかに感じていました。そして心に思ったの。私は去年、あんなにアゲハ蝶を愛していた、成虫になれなかった一匹のために、たくさんの涙を流すくらいに。その私が今は、アゲハ蝶が喰われていくのをこんなに嬉しく見つめている。ああ、人ってなんて身勝手で残酷なんだろう」

語り終えると、蘭子さんは頭を上げて、周囲を見回すような仕草をした。宗像くんと涼子は、ポカンとした表情をしている。たしかに、ちょっと返答に困るような話だ。和人くんはというと、例によってニコニコしている。最後に蘭子さんが真琴さんの顔をじっと見たので、なんとなく自分が感想を述べなくてはならないような気持ちになってしまった。

「ええ、まあ、その……加賀美先輩は、そのときどきの愛情が、非常に豊かってことでしょうかね」

蘭子さんは、唇の端にまたほのかな微笑を浮かべたようだ。ただしそれは、真琴さんの無理解を憐れんでいるようにも感じられた

「つまり、和人くんも加賀美先輩も、巨大蜘蛛の存在には否定的っていうことだね。実体のない噂が広まっただけだ、というのが和人くんの意見。加賀美先輩は、その噂自体にも非合理な点があるという考え。私は……そうだなあ。私もその意見に賛成かな。宗像くんには悪いけど、やっぱりバカバカしい話のように感じる」

「まあ、お姉さままで、そんなふうにおっしゃいますの?」

「ということは、涼子は巨大蜘蛛が実在するって考えているのか」

宗像くんが、うんうんと満足そうにうなずいている。その様子にちらりと視線を走らせながら、涼子は高らかに言った。

「この件には、なにか涼子の探偵的本能に、強く訴えかけてくるものがありますの」

探偵? そうなのだ。涼子は常日頃から、大学卒業後には私立探偵になると言っている。しかも、SM行為をすると途端に推理力が跳ね上がる、世界初の「ドM探偵」とやらになると主張しているのだ。バカなのか? バカなのだろう。

だが、涼子の実家の秋月家は、蘭子さんの加賀美家とともに県下の二大富豪として知られている存在。探偵事務所の一つくらい、道楽でやっていけるのだ。それに、涼子が時に明敏な推理力を発揮することがあるというのも、否定できない事実ではある。もっとも、その推理がまるで的外れに終わることもないわけではないのだが。

「まず、噂が妙に具体性を帯びているということ。これは、噂の元になったなんらかの事実があるということを示唆しています」

そうだろうか。

「次に、噂だけが流れて、実際にその巨大蜘蛛を目撃した人物が見つからないという点ですが、これはその人たちが事実を隠しているという可能性がありますわ。だって、大学構内での深夜の花火遊びにしても、別れ話にしても、自分たちがその当人でしたって名乗り出るには、ちょっと恥ずかしいことですものね。ですから、宗像先輩たちが調査した人たちの中に、実はその当人たちがいたのかもしれません。ただ、名乗り出なかったというだけで――本当は自分が目撃者なのに、噂を聞いただけってことにした可能性もありますわ」

「なるほど」と、宗像くんが勢いづく。

「実は巨大蜘蛛を実際に見ていたけど、そのことを言い出せなかったってわけか。そう考えると、噂に具体性があるというのも納得だね。――すると、秋月さんは巨大蜘蛛の実在を信じるってこと?」

「それが――そうでもありませんの」

涼子は、気の毒そうな顔をして、宗像くんのほうを見た。

「さすがの涼子も、そんな荒唐無稽な話は信じられませんわ」

「でも、たった今……」

「これから説明いたします。涼子、こう考えるんです。二メートルもあるような蜘蛛が走り回る、なんてことは実際にあり得ません。でも、そんなふうに見えるなにかを、誰かが見た。そのこと自体は事実と考えることもできるって、そう思いますの。そして、そのなにかというのは――」

「つまり?」と、真琴さんが先を促す。

「つまり、それは――なにかの仕掛けで動く、作り物の蜘蛛だと思うんです。ほら、ラジコンっていうんですか――無線で操縦する玩具の大きなもの。そんなものを作って、人を脅かしてるんですわ。さっき、目が緑に光っていたというお話が出ましたけれど、それも小さなライトかなにかだと考えられます」

「でもね、涼子ちゃん。作り物っていうけど、そう簡単にはできないよ」

――と、和人くんが口を挟んだ。絵や工作が得意なので、こういうことについては一家言あるのだろう。

「涼子ちゃんが言うのは、一種のロボットのようなものだね。でも噂によると、八本の脚がちゃんと動いていたって話だよ。八本脚で動くロボットなんて、制御がものすごく難しい。ちょっと遊びで作ってみましたってわけにはいかないんだ。それから、動力はモーターだとして、動いているあいだ、かなり音がすると思う。でも、噂にはモーター音の話なんて出てこないしね。最後に、動機。だいたい、誰がなんの理由で、そんなものを作って人を脅かさなければならないわけ?」

「八本脚のことですけど、それこそ噂にくっついた尾ひれだと思います。和人くんは、そもそもこの話を、根拠のない噂に尾ひれがついただけだって言っていたでしょう? それなのに、蜘蛛の脚についてだけ、噂を信じるのは不合理です。涼子、その蜘蛛の作り物は、もっとずっと簡単にできているんだと思います。八本脚がめまぐるしく動いていたなんていうのは、あとからついた尾ひれにすぎませんわ」

「じゃあ、動機は?」

「騒音対策です」

「騒音対策? どういうこと?」

真琴さんの問いかけに――

「そうです。騒音対策です。涼子、ズバリと言わせていただきますけど、犯人はその一軒家に住む蓮貝さんに決まってますわ! 蓮貝さんは、学生たちが深夜にたてる騒音に、長年苦しめられてきたにちがいありません。苦情が自治会にまで届くっていうのは、たいへんなことですもの。そこで、苦肉の策として、巨大蜘蛛のロボットを作って学生たちを追い払うことにした。たぶん蓮貝さんは、電子工学とかなんとか、そういう技術を持った人なんでしょう。ひょっとしたら、人づきあいが苦手な引っ込み思案な人なのかも――それで、いちいち苦情を言ったりするより、自分の持つ技術を使って、迷惑な学生たちを追い払おうと決意した。真相はそんなところだと思います。それにしても――蓮貝さんって、どんなかたなのかしら。お年寄り? そうですねえ。涼子の推理では、独身。一流企業に勤めていらしたエンジニアが、退職なさって、孤独な日々を送っていらっしゃるのではないでしょうか」

「それは推理じゃなく、単なる想像では?」と、真琴さんはつぶやいた。

「でも、一概に外れてるとは言えないな」と助け船を出したのは、宗像くん。

「さっき言い忘れていたけど、怪しい老人の話もあるんだ。ほら、例の別れ話をしていた男女の話だけどさ……二人で逃げたとき、視界の隅にその老人の姿がちらりと入ったんだって。白衣を着た怪しい老人で、ものすごく背が高かったっていう話だ。二メートルを超えるくらいの――」

「また二メートル? なんでも二メートルだな」と、真琴さんはもう一度、つぶやいた。

宗像くんは、めげない男だった。今の涼子の話を聞いて、「それもまたオカルトだ」と言い出したのだ。

「まるでマッド・サイエンティストみたいじゃないか。白衣の老人が作り出した巨大蜘蛛型ロボット。やはり、調査を継続する必要があるね。萩原くん、自治会の力添えでなんとかならないか」

「自治会としては、なんともなりません。でも」

――と、宗像くんの粘り強さに、和人くんも妥協の必要性を感じたようだ。連日ミス研の部室にまで陳情に来られてはたまらない、というところか。

「調査を続行する方法はありますよ。つまりですね――大学の構内に残っているから、いけないわけです。だから、大学から出て、調査をする」

「どういうことだい?」

「ですから、あの柵を乗り越えて、蓮貝さんの敷地に入って、調査をするってことですよ。大学内にいるわけじゃないから、学生課から文句は出ない。それに、蓮貝さんのところの敷地は広いし、あれだけ背の高い草が繁っているから、かがんでいれば見つからないでしょう」

「でも、万が一見つかったら? 不法侵入ってことだからね。大学内に残っていましたってことより、問題が大きくなるんじゃないか」

「宗像先輩も心配性だなあ。もし見つかったら、山に逃げこめばいいんですよ。ほら、柵から正面に、蓮貝さんの家があるじゃないですか。でも、左右は山につながってるでしょう?」

そうなのだ。聖風学園は山裾に建っていて、今でこそ少し街並みもできているが、四十数年前の開校当時は、周囲には山と畑しかなかったと聞いている。

「その山のほうに逃げれば、もう不法侵入じゃありません」

「どうして? 山にだって、だれか持ち主はいるだろう」

和人くんはにっこり笑った。

「あの山は、うちの山なんです。だから問題なし。で、調査当日は、念のためぼくも同行しますよ。それで安心でしょう」

「若さまがいらっしゃるなら、私もまいります」と蘭子さん。

「とにかく変な噂の正体を確かめなければ。わが聖風学園文化大学の名誉にも関わることですから」

「涼子も行きますわ」と、ひときわ元気な声。

「その巨大蜘蛛とやらの正体が、作り物にすぎないってこと、この涼子が証明してみせます! 一度つかまえてしまえば、すぐにわかることですわ。もちろん、そのあとで蓮貝さんに、ちゃんとお返しいたしますけど。――あっ。それから、宗像先輩? さっき調査のあいだはじっと静かにしていたっていうふうにおっしゃっていましたけど、そのやり方は間違っています」

「どうして?」

「だって、申し上げたじゃありませんか。蜘蛛型ロボットは、騒音対策のために作られたんです。ですから、盛大に騒ぎ立てなければ、出てくるはずがありません。こちらがじっと身をひそめているだけだと、次の調査も空振りに終わると思います。大声を出すとか、歌を歌うとか――なにかそういったことをしてみなければいけませんわ。それも九時くらいの時間ではダメです。明らかに迷惑だと感じられるような――そうですね。たとえば深夜の十二時あたり」

「なるほど。それも試してみよう」

――とすると、どういうことになるのだろう。数人の大学生が、深夜に他人の敷地内に忍びこみ、ひと騒ぎやらかす。もし住民にばれたら、山に逃げこんで、この山は自分たちの山だと言い張って、謝罪もしない。そういうことか?

イカレてる――と、真琴さんは心にそっとつぶやいた。だが、最愛の涼子が乗り気になっている以上、ただ傍観しているわけにもいかない。涼子は、「あたし、お姉さまのM奴隷です」などと可愛いことを言ったりもするが、一度こうと決めたらとても頑固なのだ。

再度の調査は、三日後の金曜日、夜の九時から決行ということになった。

10

「お姉さまは、どうなさいます? 涼子、できたらお姉さまにも――」

「まあ、私もいっしょに行ってあげてもいいけど、ただね」

「なんでしょう?」

「服装というか、装備というか、そういうものを整えていたほうがいいかもね。その巨大蜘蛛とやらに襲われたら、たいへんだもの。オカルト研究会は調査のとき、どんな格好していたの?」

「ぼくたちもそれなりに、汚れてもいいような恰好はしていたけど。言われてみたら、そうだな。もっと装備を整えたほうがいいかもしれない」

さっき涼子の意見に対して、推理ではなく想像では? と指摘したが、その真琴さん自身にも変に想像力が暴走するところがある。

「お姉さまったら。涼子の推理を少しも信頼してくださらないんですね。申し上げたじゃありませんか。作り物に決まってるって」

「いや、だからこそだよ。作り物だとしたら、どんな仕掛けがしてあるか、わからないじゃないか。空気銃かなにかが仕込まれているかもしれないし、毒針が飛び出すかもしれない。用心にこしたことはないよ。そもそも、あんな草だらけの場所だからね。変なダニなんかに喰いつかれる心配だってあるぞ。とにかく、そんなヒラヒラした服じゃダメ」

涼子は今、薄紫のワンピースを着ている。真琴さんの目には、涼子はいつだって特別な美少女に見えるのだが、今日の服は特に似合っているようだ。でも、蜘蛛の化け物(あるいはロボット)と対決するのに向いている格好とはいえない。

「わかりました。じゃあ、涼子、お姉さまの分まで、しっかり用意いたします」

11

部室を出た後、涼子は真琴さんの部屋まで遊びに来た。もともと今夜は、SM遊びをする予定だったのである。

「今回の事件、ホームズのバスカヴィル家の犬にちなんで、ハスカイ家の大蜘蛛の事件って名づけようと思います」

そんなことを言っている。涼子のミステリーの好みはかなり古典的で、ドイルのホームズ物とクリスティのポアロ物が大好きなのだ。

「ほら。バスカヴィル家とハスカイ家って、少し名前の響きが似ていますし。それに、語られざる事件の一つに、スマトラの大鼠というのもありますわ」

「なんと名づけてもいいけど。それは実際に涼子の推理が当たっていたらの話だね」

「当たっているはずです。涼子、今回はなぜか自信がありますの」

それはそうだろう。真琴さんは別に驚きはしなかった。涼子にとって、自信に満ち溢れているというのが通常の状態なのだから。

「ところで、涼子。さっきの蘭子先輩の話だけどさ。ほら、蜘蛛を観察したとか、アゲハ蝶の幼虫を飼っていたとかいう、あの話」

「あのお話。びっくりしましたわ。蘭子先輩がそんな趣味をお持ちだったなんて――それに、とってもSM的で――蜘蛛の巣に捕らえられた美しいアゲハ蝶。それを残酷な喜びを胸に秘め、じっと見つめる少女時代の蘭子先輩。ああ、なんだか胸がときめいてしまいます」

「SMかどうかは置いといてさ、あの話は、愛の移ろいやすさの話でもあるよね。一年前まではアゲハ蝶に夢中だったのに、今はコガネグモを愛して、蜘蛛に喰われる蝶の姿を見つめているっていうんだから。それでね、私がちょっと驚いたのは、和人くんの反応なんだ。ヘラヘラして聞いてたけど、気にならないのかな。一年経ったら、蘭子さんの自分への愛もすっかり冷めて、誰か別の人へと移り変わっているかもしれないって」

「和人くんは、平気だと思いますわ」

「そうなのか」

「ええ。和人くんって、ああ見えてとっても自信家なんですの。特に蘭子先輩に関しては、絶対的に愛されているっていう自信があるみたいです」

「ほう」

真琴さんには、そんな自信にあふれた人間がいるというのが、ちょっと信じられない。涼子はいつも真琴さんに忠誠を尽くすと(勝手に)誓ってくれるのだが、さあ、時が経てばどうなるか、油断はできないと思っている。

作業が終わった。ベッドの脇に裸でひざまずいている涼子に声をかける。

「さあ、用意できたよ」

涼子はいそいそとベッドに這い上がってきた。買ったばかりの毛布が敷かれている。それがとんでもない代物で、黒字に白い蜘蛛の巣が張ってある、いわば蜘蛛の巣柄の毛布なのである。先日ネットで見つけて注文しておいたのが、昨日届いたばかりなのだ。

「さっき部室で居眠りしていたとき、蜘蛛っていう単語が聞こえてきて、ちょっとドキッとしたよ。涼子がこの毛布のことを言っているのかと思った」

「まさか。涼子だって、ちゃんと言っていいことと、いけないことの区別はつきますわ」

どうだろう? 真琴さんはまた少々疑わしく思った。涼子はときどき、人がいるのに大声で、しかもひどく真剣に、SMの話を語り始めたりするのだ。

「さあ、ここに仰向けに寝てごらん。ああ、可愛い。涼子――今夜のお前は、蜘蛛の巣に捕らわれた哀れな獲物だよ。そして、私は無慈悲な妖怪蜘蛛女。この可愛い子を、どんなふうに料理してあげようかしら」

「ああ、お姉さま」

涼子は、静かに目を閉じた。少し開いたその唇に、真琴さんはそっと指を伸ばした。

12

三日後の金曜日。午後十一時近く。

大学の設置した二メートルほどの高さの金網状の柵を乗り越え、蓮貝家の庭に忍びこんでから、二時間が過ぎ去ろうとしていた。

だいたいの方角でいうと、蓮貝家は大学の南隣に位置している。敷地はかなり広く、平均的な中学校のグラウンドほどもありそうだ。柵から見ると手前に雑草だらけの広い庭が広がり、ずっと向こうの敷地の端に、ぽつんと一軒の平屋が建っている。蘭子さんが学生課に尋ねて調べてくれたところによると、涼子が予想したとおり、蓮貝さんというのは高齢の男性で、一人暮らしをしているとのこと。苦情を申し入れられた経緯から、学生課もその程度のことは把握していたらしい。

一軒家の向こうには道路が走っており、その先はすぐに山の斜面である。山といえば、荒れた庭の右手も左手も山に連なっていて、その山がどれも和人くんの家のものだというのだから、大したものだ。

「うちは全然、お金持ちじゃありませんよ。山なんて、お金にならないんです」

和人くんはそんなことを言っていたが、どこまで本当なのか。

真琴さんと涼子は、まるでジャングルに出かける探検隊のような服装をしている。ここに来る前に、涼子のマンションですっかり着替えてきたのだ。約束通り、涼子が真琴さんの分までちゃんと用意してくれていた。丈夫そうなごわごわの生地のジャケットにズボン。がっちりとした脛まである靴。それに革の手袋まで。おかげで十月の初めとはいえ、かなり暑い。

それに、頭にはフルフェイスのヘルメットを被っている。こちらは和人くんが人数分用意してくれたもので、首周りを防御するために透明なビニールシートのようなものが垂れ下がっている。

「これで毒液を噴きかけられても大丈夫です」と言っていたが、ずいぶんと凝ったものである。和人くんは巨大蜘蛛、あるいは涼子説の蜘蛛型ロボットの存在を信じていないはずなのだが、こうしたものを工作すること自体が好きなのだろう。

「なにも起きないな」

「涼子の予想通りです。犬もいないので安心ですわ。繋がれているんでしょうか」

今夜の冒険に張り切っていた涼子だが、犬がいるという真琴さんの証言だけが少し気になっていたようである。涼子は犬が苦手なのだ。自分の実家で飼っている犬は平気なのだが、よその犬は怖くてたまらないとのこと。

「騒音対策という涼子の推理が正しければ、こちらが騒ぐまでは、蜘蛛は出てこないはずです」

「その騒音だけど、そろそろ鳴り出すはずじゃないのか」

「ええ。もうすぐだと思います」

十一時になると、大音量で音楽が流れることになっている。それで巨大蜘蛛――あるいは蜘蛛型ロボット――を誘い出そうという計画だ。音楽の出力源は、和人くんが持ってきたバッテリー式の携帯スピーカー。その和人くんは、蘭子さんやオカルト研究会の数人といっしょに、大学側から見て左手の木立の陰に隠れている。真琴さんと涼子は反対側、右手の端にあるこんもりとしたなにかの植物の陰にいる。その間の距離は、三百メートルほどもあるだろうか。もし蜘蛛が現れず、蓮貝氏本人か、あるいは蓮貝氏からの苦情を受けた大学の職員かだれかが登場したら、すばやく山のほうへ移動し、そこから細い道を辿って大学の通用門で待ち合わせる、という計画なのだ。

13

音楽が流れだした。かなりの爆音だ。女性アイドルグループの曲のようだ。

「趣味が悪いな」

「仕方ありません。まさかクラシックというわけにもいきませんわ」と、涼子はなかなか寛大だ。

本当に巨大蜘蛛が――あるいは蜘蛛型ロボットが現れるとは、真琴さんは思っていない。それでも、オカルト研究会の人たちが用意した動画撮影用のカメラを構えて待った。涼子は写真撮影用の小さなカメラを手にしている。

三分、五分、七分――。特段の変化はない。

「なにも起きないぞ」

「まだ、時間はあります。これからですわ」

音楽は二十分間、鳴らす計画だ。それでなにも現れなければ解散することになっている。

――と、八分が過ぎるころ、左手から声があがった。

「来た!」

「うあ。動いてる」

「撮れ、撮れ! ちゃんと撮ってるか」と叫んだのは、宗像くんのようだ。スピーカーのスイッチを切ったのだろう、音楽が止まった。その少し後、「そっちに行ったぞおっ」という声が聞こえた。たしかに、なにか黒っぽい影が、こちらに向かってくる。小さな緑色をした二つの光が見える。真琴さんは、カメラを構えた。

14

「これ……かなり不気味だな」

たしかに、太い腹に毒々しい黄色と赤の縞模様がある。二つの目が明るい緑色に光っている。

「大丈夫です、お姉さま。ほら、よくご覧になって。明らかに作り物ですわ。だって、あの目……どう見たって人工のライトじゃありませんか。LEDなんとかっていう奴です」

「そう言われれば、たしかに。でも、あの動き……」

速い。それも前後左右に、不規則に動いている。八本の脚がめまぐるしく前後する。大学内に設置してある街灯の光が届くので、蜘蛛の姿はかなりはっきりと見て取れた。

囁き声。

「つかまえてみます」

「気をつけろよ」

「大丈夫です。ただの玩具に決まってます。涼子がそれを証明して見せますわ。お姉さまは、その証拠のビデオをしっかり撮ってください」

15

思ったよりずっと大胆に、涼子は蜘蛛に近づいていった。蜘蛛はいったん後ろに下がると、左右に何度か移動を繰り返し、再び前へ出てきた。涼子は地面に膝をつき、両手を伸ばして蜘蛛の胸のあたりを掴もうとした。いや、掴んだ――次の瞬間。

「ああっ」

声に突然、恐怖が混じった。

「お姉さま。これ……生きてます!」

くるりとこちらを振り返る。数歩の距離しかない。ヘルメットのシールドの向こうで、涼子の二つの目が大きく見開かれている。それが暗がりの中でもはっきりとわかった。

立ち上がり、こちらに駆け出そうとする。次の瞬間、涼子はぱったりとうつぶせに倒れた。

「早く戻れ」

引きずられているのか、涼子の身体がわずかに後ろへ下がっていく。その背後に大蜘蛛の二つの目が緑色に光っている。かすれた声が聞こえた。

「ああ、お姉さ、ま……」

真琴さんは駆け出した。

16

カメラを地面に放り出すと、うずくまっていた涼子の身体を抱きあげる。そのまま右足の踵を軸に反転し、後ろへ放り出した。

「逃げろ。走れ!」

足に生温かい息の感触。蜘蛛の脚が何本か、絡みついている。

「どけ!」

途端に、ずるりと足が滑った。そのまま滑り落ちていく。よく見えなかったが、短い傾斜になっていたらしい。仰向けに倒れた腹の上に、蜘蛛が乗ってきた。湿った匂い。そしてまた、生温かい息が――

いや、おかしいだろ?

蜘蛛がこんなふうにハアハアフウフウ息をするはずがない。これは蜘蛛じゃない。ロボットでもない。

両腕を蜘蛛の――いや、蜘蛛のはずはないのだが――背に回す。手触りが妙に硬い。金属か、それともプラスチックか――とにかく人工物の手触りだ。甲羅の縁のような細い部分に指が引っかかったので、それを掴んで腕を振った。ズルっと剝がれる感触がし、なにかが甲羅の下から飛び出した。視界の隅に黒い影のようなものが見えた。

遠くで口笛の音が鳴ったようだ。

17

真琴さんは、ゆっくりと立ち上がった。そして、まだ自分が片手に持っているものを見た。甲羅状になった、蜘蛛の残骸だ。八本の脚がだらしなく垂れて、頭の部分にはまだ二つの緑色の目が光っている。どこかに電池が仕掛けてあるのだろう。

く、くだらん!

真琴さんはそれを放り投げると、代わりに草の上に転がっていたビデオカメラを手に取った。

涼子は?

興奮から醒めると、それまで消えていた声が聞こえ始めた。涼子が叫んでいる。

「早く! 早くきてくださあい! 誰か早く! お姉さまが……」

「涼子、黙って!」

よほど恐かったのだろう。見ると、涼子はもう柵を乗り越えて、大学の構内にまで戻っている。二メートルもある柵を、あの短時間で――と考えると、真琴さんは無性におかしくなって、短い笑い声をたてた。

「私は大丈夫だよ」

涼子の手助けを受けて、真琴さんも柵を乗り越えた。そして、まだ草の上に転がっている蜘蛛の――いや、本当は蜘蛛ではないものの残骸を指さした。

「涼子の推理が当たってたよ。あれは作り物だ」

「でも、でも……あれ、生きていましたわ」

「うん、その点も涼子が正しい。あれは生きてもいた」

「どういうことですの?」

「それはね……」

ちらりと見ると、和人くんたちがこちらに走ってきているようだ。

「あっ。ほら、急いでヘルメットを脱いで。今から内証話をするから」

そう言って自分もヘルメットを脱ぐと、涼子の耳元に唇を寄せた。

「こういうことなんだよ。つまりさ……」

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「皆さん、巨大蜘蛛の謎は、すべて解けましたわ」と、涼子は少しだけ声を張り上げた。間違いないはずだから、自信をもって宣言するよう、真琴さんが励ましてやったのだ。

和人くんと蘭子さん、それに宗像くん、そして他に数人のオカルト研究会のメンバーが、涼子の周りを取り囲んでいる。

「涼子の推理は、半分は当たっていました。あれは作り物だったんです」

涼子の視線につられ、みんなはまだ草むらの上で目だけを光らせている残骸に目をやった。

「薄い金属か樹脂を加工して、蜘蛛に似せた模型みたいなものです。では、その模型が、どうしてあんなに素早く、まるで生きているかのように動くことができたのか……それは……とても簡単なトリックでした」

「ちょっと待った!」と、突然声をあげたのは、宗像くんである。

「どうしましたの?」

「われわれオカルト研究会は、この先の話は聞かないことにする。いい写真が撮れたし、いい動画も撮れた。適度に不鮮明で、まさにオカルティックな映像だよ。これ以上は、われわれは望まない。謎が解けたらロマンが失われてしまうからね。では……撤収!」

そう言うと、宗像くんは機材をまとめ、他のメンバーたちといっしょにスタスタと立ち去ってしまったのである。

「まあ、あきれた」とは、蘭子さんの言葉。

「事実と向き合わずに、なにがロマンかしら。そんなものは、本当のロマンではなくってよ」

「まあ、その事実があまりにもくだらないですからねえ」と、真琴さん。

そのあいだに、和人くんは素早く柵を乗り越えると、例の残骸をざっと調べたようだ。再び構内に戻ってきて言うことには――

「あれ、なかなかうまくできてますよ。あの八本の脚には、それぞれ根もとと関節のところにバネがついているんです。それで、地面の上で引きずられると、一本一本が別々に複雑な動きをするように見えるわけです。簡単な工夫で、効果絶大。……でも、どうして動いていたか、まだわからない。涼子ちゃん、早く種明かしをしてよ」

「実は、その点はお姉さまが見破ったんですの」

「それで?」

「犬だったんです」

「犬?」と、和人くんと蘭子さんが同時に問い返した。

「ええ、犬ですわ」と、涼子はもう一度言った。

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「涼子、最初にあの蜘蛛にさわったとき、なんだか生温かい息を首筋に感じて……それに変な唸り声も聞こえて、とっても怖い思いをしましたの。機械だと思っていたのに、生きてることがわかって、すごくショックでした。でも、そのあとお姉さまがその蜘蛛と対決して、正体は犬だってこと、見破ってくださったんです。お姉さまによると、あの抜け殻に細いゴム紐が付いているんですって」

「うん。たしかに付いてた」と和人くん。

「そのゴム紐で……ほら、帽子を被るみたいに、犬があの殻を被っていたんです。それで……犬って、とっても動きが素早いでしょう? だからあんなに激しく動くことができっていうわけなんです。それにしても、お姉さま、さすがです。あんなにすぐに、正体を見破ってしまわれるなんて」

「今から考えると、もっと早く気づいてもよかった」

「どうしてです?」

「実は私、似たようなドッキリ動画を見たことがあったんだよ。やっぱり、犬に蜘蛛か、なにかの扮装をさせて人を脅かすっていう……今、思い出したよ」

「くだらないわねえ」と、蘭子さん。

「そう言ったじゃありませんか」と、真琴さん。

だが、和人くんだけは、妙に感心している。

「なるほどねえ。でも、初め見たときは、びっくりしたなあ。本当に蜘蛛の化け物が出たと思ったもの。あれ、実にうまくできてる。弟子入りしたいくらいだ」

「それにしても、犬にあんなものを被せて。一種の虐待だよ」

真琴さんは、だんだんと腹が立ってきた。一瞬、本当に涼子が襲われたと思ったときの怒りの感情もまだ胸の中に渦巻いていて、それが犬への同情と混じりあい、妙に収まりがつかない。

「これから、あの家に行って、一言意見してやろうかな。そこに……」と、柵の向こうに打ち捨ててある蜘蛛の残骸に視線を向けて

「ちゃんと証拠もあるわけだし」

「でも、お姉さま。もう遅いですし、別の機会になさったら? 夜遅くに押しかけて、また大学のほうに苦情を言われたら、いろいろと難しいことになりそうですわ」

「でも、どうにも腹に据えかねるというか」

「心配しなくても、あちらからお出ましのようよ」

たしかに蘭子さんの言うとおりだった。蓮貝家のほうから、白衣を着た一人の老人がこちらにゆっくりと歩いてくるのが見えた。老人は、鎖に繫いだ一匹の茶色の犬を連れていた。

20

身長二メートルというのは大げさだ。しかし、背が高いというのは事実。一八〇センチは優に超えて、一九〇センチに近いかもしれない。白髪の老人とはいえ、体格もがっちりしていて、もし殴り合いにでもなったら、和人くんに勝ち目はなさそうだ。

犬の口には、口輪のようなものが装着されている。竹ひごかなにかで作ってあるらしい。蜘蛛に化けた犬がいっさい吠えなかったことを、真琴さんは少し不思議に思っていたのだが、これでその謎も解けた。

老人は、蜘蛛の残骸を拾い上げると、ゆっくりとこちらに近づいてきた。そして、真琴さんたちと金網を挟んで、向かい合う形になった。

「困るねえ、君たち。夜中に音楽を流したり、大声で騒いだりして……大学に何度も苦情を入れているのに、少しも改善されない。近頃の学生ときたら、情けないことだ」

「蓮貝さんですね」と、真琴さんはまっすぐに相手の顔を見つめて――というより少しばかり見上げて言った。相手は軽くうなずいた。

「私は、この大学の三年生で、新宮という者です。お騒がせしたことは謝罪します。すみませんでした。ただ、こちらにも少し言いたいことがあります」

「なにかね?」

「その蜘蛛の作り物を、犬に被せていましたね。どうしてそんなことをするんです?」

「自分の家の敷地内で、自分の犬を遊ばせるのに、なにか不都合があるかな」

「犬を遊ばせるのに、そんな被り物を被せる必要はないでしょう。もし怯えた学生が、本当に蜘蛛の化け物だと思いこんで、犬に乱暴したらどうするんですか。犬がかわいそうじゃありませんか」

「それは、話が逆だな」

「逆って、どういうことですか」

「そもそも、先に学生のほうがこの犬をいじめたんだよ。今年の春のことだが、柵を乗り越えてきて、犬に石を投げつけたりしてね。いや、情けないもんだ。他人の家の敷地内に勝手に入りこんで、しかも動物をいじめる。こちらも乱暴されないよう、一日中繫いでおこうと思ったこともあったが……この犬はずっと夜は放し飼いで育ってきたものだから、繋がれるのをいやがってねえ。それで、防御策としてこの扮装をさせたわけさ。おかげで、石をぶつけられることはなくなったよ。それに、この蜘蛛の甲羅は薄くて軽いが、たいへん丈夫にできていてね、もしも石をぶつけられても、痛くないという寸法さ。それから、この口輪。なにかの拍子に人に噛みついたりしないよう、放し飼いのあいだはこうして口輪をつけている」

「そうですか」と、真琴さんはちょっと詰まったが、それでもまだ言いたいことは残っていた。

「でも蓮貝さんは、一人暮らしをされていますよね。極論ですけれど、もしあなたが夜のあいだに亡くなったら、いったいどうするんです? この犬は蜘蛛の扮装をして、口輪をつけたまま、いつまで生きていられます? 口輪をつけたままだったら、自分で餌もとれませんよ」

蓮貝氏は、少し笑ったようだった。

「君はなかなかおもしろい。私と同じような想像をするんだな。……実は私も、だいたい同じことを考えたよ。だから、この蜘蛛型の甲羅はしばらくすると、自然に脱げるようにできているんだ。実験してみたが、ずっとつけていたら、だいたい二日目でゴム紐が緩んで脱げるようになっている。ゴム紐は、だから一晩ごとに取り替えているんだ。そして、この口輪も同じ。つけっぱなしにしていると、二十四時間もたずに、外れてしまうようにできている。我が家には、これの予備が何十個も作ってあるんだよ」

「そうですか。それなら私はもう、特に苦情はありません。改めてお詫びします。夜中に騒いで申し訳ありませんでした」

「いやあ、君はおもしろい。私と全く同じような心配をする子がいたなんてね」

そのときである。和人くんが突然、変に元気な声をあげた。

「素晴らしい。感動しました。ぼくを弟子にしてください!」

「おもしろい人たちだ」と、蓮貝氏は、もう一度短く笑ったようだった。

21

それから一時間後。涼子のマンションの部屋でのこと。遅くなったので、真琴さんは涼子の部屋に泊まることにしたのである。

涼子は今、ベッドの上、毛布にくるまって真琴さんにぴったり寄り添っている。その口から、もの悲しそうに小さなため息が漏れた。真琴さんは、軽く眉をひそめた。今夜、この部屋に戻ってきてからの涼子は、なんだか少しおかしいのだ。いつも以上にベタベタするくせに、こうしてときどき悲しそうな、切なそうなため息を漏らしている。

「涼子、どうした? なにか困ったことでもあるの?」

「いいえ、お姉さま。涼子、今夜はとっても幸福な気持ちに浸っておりますの」

「その割には、さっきからため息ばかりついているけど」

「ええ、そうなんです。涼子、とてもとても幸福なんですけど、でも、つらい悲しい思いもあって、なんだか複雑な気持ちで……」

「どうしてさ」

「説明いたしますわ、お姉さま」と、まるで問われるのを待っていたかのように、ぽろぽろと言葉がこぼれ始める。

「さっき涼子が蜘蛛に襲われたとき、お姉さまがとっさに救ってくださいましたでしょう? そのことを考えると、涼子、お姉さまにとっても愛されているんだって、しみじみと幸せな気持ちになりますの。なんといっても、お姉さまは命をかけて、このあたしを……」

「いや、別に命はかけてないけど。ただ、涼子がすっ転んだから、起こしてあげただけじゃないか」

「いいえ、いいえ。お姉さまはそうして謙遜なさいますけど、涼子にはちゃんとわかっています。お姉さまの勇気、とっても素晴らしいと思います」

「まあ、涼子がそう考えたいのなら、それでいいけど」

「それなのにこの涼子ときたら……お姉さまを放って、自分だけ逃げ出してしまうなんて」

「ああ、あれね」と、真琴さんは思わずニヤニヤした。

「涼子、逃げるの速かったもの。あっと思ったら、もうあの高い柵を乗り越えていて……涼子って、案外運動神経いいよね。中高生のころ、体育の成績ってどうだった?」

「5段階評価で、いつも5でしたわ。涼子、国語と英語と体育が得意科目で……」

「すごいな。私は、体育はたいてい4だったよ。ガタイがあるから、いろいろと有利なはずだけど、5はめったに取れなかったなあ」

「涼子、本当に恥ずかしいです。お姉さまを置いて自分だけ逃げるなんて、M失格なんじゃないかって……とっても不安なんですの。それに、ほら……このあいだの蘭子先輩のお話のことで、お姉さま、愛は移ろいやすいっておっしゃっていましたし……」

「今の涼子の話には、いろいろと変なところがあるぞ」

「と、おっしゃいますと?」

「まず、逃げたからM失格って言ってるけど、大きな間違いだと思う。だって、あのとき私は逃げろって言ったんだから、涼子は忠実なMとして、その命令を守っただけだろ? むしろMの模範」

「そうでしょうか」

「そうだよ」

――と、真琴さんは言ったが、本当は少し怪しいと思っている。涼子が逃げ出したのは、命令を守ったからというよりも、あの蜘蛛の中身が犬だったからではないか。犬嫌いの涼子は、本能的に相手が犬であることを察知して、怯えてしまったのではないか。そう思うのだが、口には出さないことにした。

「それから、もう一つ。愛が移ろいやすいって話だけど、あれは、蘭子さんの話はそういうふうにも解釈できるというだけの話で、愛は移ろいやすいものだと私が主張したわけじゃない」

「では、お姉さまは、愛は移ろわないものだというご意見ですの?」

「いや、それもまた断言はできないけどね。でも、今のところ、涼子への気持ちは少しも移ろう気配はないなあ」

「本当ですか」

「本当だよ」

真琴さんは、そっと涼子の頬に口づけをしてやった。涼子はほんのり口もとに笑みを浮かべたが、まだ安心しきれないらしい。

「ね? お姉さま。涼子に罰をくださいませんこと? お姉さまに優しく叱られたら、涼子とっても安心できるような気がして」

「でも、今日は罰をあげるようなこと、なにひとつなかったじゃないか」

「そこをなんとか……」と、まるで宗像くんのようなことを言う。

「そうだなあ」

考えこんでいるうちに、ふと思いついた。そういえば、あのこと――

22

「さあ、涼子。罰をあげるよ。でも、今日のことについてじゃないの。三日前の、あの件について……」

「三日前って、なにか涼子、いけないことをしてしまったんでしょうか」

「そうだよ、涼子。お前は、見てはいけないものを見てしまったの」

「見てはいけないものって?」

「ヨダレ」

「え?」

「私のヨダレ。部室で居眠りしたとき、私がだらしなくヨダレを垂らしていたの、見たでしょう? だから、あんなにすぐハンカチを用意できたんでしょう?」

「あの……ハンカチを用意したの、いけなかったんでしょうか」

「ハンカチの件はいいんだよ。とってもさりげなくて、素早くて、的確な対応で、感心しちゃった。なんなら感謝もしてる」

「じゃあ、どうして?」

「いくらさりげなくて素早くて的確な対応ができても、私のヨダレを見てしまったというのは、とっても深い罪よ。だから、涼子は罰を受けなくっちゃ」

「ああ、なんだかとっても理不尽な気がします。でも、でも……」

涼子の声が次第に甘い蜜を帯びていく。

「お姉さまがお望みなら、涼子、素直に罰をお受けいたします。スバンキングの罰ですか。きっと、いつもよりずっと痛くされるんでしょう? でも、涼子、もう覚悟していますわ!」

「いや、ご期待にそむくようで悪いけど、今夜予定しているのは、痛くない罰なんだ」

23

涼子は今、裸になって椅子に腰かけている。そして、赤いタオルで両腕は首の後ろで一つに、左右の足首は椅子の脚に結ばれている。

「さあ、今きれいに洗ってきたからね。安心してくわえなさい。あっ、縦はダメ。万が一飲み込んじゃったりしたら、大変だもの。ほら、大きくお口を開けて、横向きにくわえなさい」

真琴さんが涼子にくわえさせたのは、まだ買って間もない白い消しゴム。

「歯型なんかつけないように、そっとくわえるのよ。どう? このまま五分もしたら、いったいどうなることでしょうね。結果がわかるまで、私があちこち可愛がってあげる」

そして本当に、真琴さんはたっぷり涼子の裸体を刺激してやった。消しゴムなんかをくわえさせられたことで、変に昂ってしまったのか、涼子は普段よりもさらに敏感だった。すぐに美しく上気し、うっすらと汗ばんでいく。

五分後。真琴さんは、涼子のまるいあごに指を添えた。

「あら。こんなにヨダレを垂らしちゃって。恥ずかしい子。だらしないのねえ」

瞳をのぞきこんでみると、もう涙ぐんでいた。

「そろそろ許してあげましょう」

消しゴムをそっと取り去ってやる。次に、手と脚の拘束をほどいてやった。途端に涼子は、真琴さんの胸に飛びこんできた。そして涙声で――

「お姉さまって、とっても意地悪ですわ」

胸に頬をぴったりと押しつけながら、そう訴えた。真琴さんは幸福を感じた。それはまったく欠けるところのない、実にまろやかな幸福だった。

エピローグ

蓮貝氏は、定年退職した中学の理科の先生だった。和人くんは、実際に蓮貝氏に弟子入りし、工作の腕を磨いているとのこと。また、大学と蓮貝家の境には、学生の悪戯を抑制するために防犯カメラが設置された。

オカルト研究会では、「謎の巨大蜘蛛」の写真と動画を学園祭で展示することにしたらしいが、蘭子さんからの圧力もあって、撮影場所は「県内某地」とだけ記されることになるという。蓮貝氏に迷惑がかからないように、との配慮からである。

真琴さんは相変わらず、ミス研の部室を勉強部屋代わりに利用しているが、不用意に居眠りなどしないよう、厳しく自己を律している。

◆おまけ 一言後書き◆
久しぶりの「どえむ探偵」です。このシリーズの話は、どうしても長くなりがちですな。最後まで読んでくださったかたに感謝申し上げます。オカルト研究会の宗像くんは、第31話「ポルターガイスト事件――どえむ探偵秋月涼子の緊縛願望」に出てきます。よろしければそちらもお愉しみください。時系列で見ると、この51話は、31話より前に起きたことになっております。次回も「どえむ探偵」シリーズの話にする予定です。

2022年12月18日

美咲凌介(みさきりょうすけ)

1961年生まれ。福岡大学人文学部文化学科卒業。在学中、文芸部に所属し、小説や寓話の執筆を始める。1998年に「第四回フランス書院文庫新人賞」受賞。SMを題材とした代表作に『美少女とM奴隷女教師』『Sの放課後・Mの教室』(フランス書院)など。他に別名義で教育関連書、エッセイ集、寓話集など著書多数。

SM小説家美咲凌介の連載記事一覧はこちらから>

初出:P+D MAGAZINE(2022/12/26)

ハクマン 部屋と締切(デッドエンド)と私 第98回
長谷敏司『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』