『アンの愛情』(モンゴメリ)――ルビー・ギリスは若くして死んだ|SM小説家美咲凌介の名著・名作ねじれ読み<第12回>

大好評連載の第12回目。SM小説家の美咲凌介が、名だたる名著を独自の視点でねじれ読み! 今回はモンゴメリの『アンの愛情』に注目。「小説家がサディスティックになるとき」というテーマで名作を読み解きます!

お利口さんになったアン

今回は、『アンの愛情』を素材にして「小説家がサディスティックになるとき」というテーマで語りたい。

『アンの青春』は『赤毛のアン』シリーズの第三作目にあたる作品。この本のラストで、アンは、長年の腐れ縁だった(失礼)ギルバート・プライスと、ついに結ばれることになる。アンの幼友達であるダイアナやジェーンも、それぞれ結婚する。

実を言うと、『赤毛のアン』でわたしに衝撃を与えたアンの魅力は、次作の『アンの青春』でやや薄らぎ、そしてこの『アンの愛情』に至ると、ずいぶん精彩を欠いてしまっているように感じられる。もちろん、面白いエピソードがないわけではない。むしろふんだんに用意されてはいる。

だが、『アンの青春』に描かれているアンには、やはり何かが決定的に欠けているように感じられるのだ。その「決定的に欠けているもの」とは何か。端的に言うと、それは一種の「愚かさ」ではないか。アンは、この本で思慮深いお利口さんになってしまった。『赤毛のアン』のころのアンは、愚かな少女(つまりおバカさん)だったのに。その愚かさが期せずして(あるいは作者モンゴメリの狙い通りに?)世間の良識なるものへの痛烈な批判となって炸裂していたのだが、『アンの青春』から『アンの愛情』へと成長するにつれ、アンも次第に分別を身につけて、考え深くなっていく。その分だけ、以前は持っていた魅力を失ってしまったように(わたしには)感じられるのである。

もっとも、作者のモンゴメリもそのあたりはちゃんと承知していて、『アンの青春』においても、アンにいろいろとバカなことをさせてみようという部分も少なくない。作中、アンの書いた小説の話なども、その一つと言えるだろうか。以下は、アンの小説『アビリルのあがない』を、隣人のハリソン氏が批評する部分。

「筋の運びにはなんの関係もないじゃないかね」と、ハリソン氏が言った。「それに場面を金持の都会人のなかに置くべきじゃなかったよ。そんな連中についてあんたがなにを知っているというのかね? なぜ、このアヴォンリーにしなかったものかな――もちろん、名前は変えてね。さもないと、レイチェル・リンド夫人が自分こそ女主人公だと思いこむだろうからね」
「あら、そんなことはできないわ。アヴォンリーは世界じゅうで一ばん好きな場所だけど、物語の舞台にするほどロマンチックじゃないんですもの」
「アヴォンリーにだってロマンスはたくさんあったし――悲劇もたくさんあったことだろうよ」と、ハリソン氏はすげなく言いきった。「君の人物はどれを見たって実在の人物らしくないよ。あまり喋りすぎるし、しかも大袈裟な言葉づかいをしすぎている。ダリンプルの奴が二ページにもわたって喋りつづけ、娘が横から口を出すこともできなかった場所が一カ所あるが、現実の生活でああしてみなさい、娘はダリンプルを取って投げたことだろうよ」
「そんなことないわ」
 アンはきっぱりと反対した。心の中ではアビリルに向かって語られたような美しい、詩的な文句を言われたら、どんな乙女の心も完全に征服されるだろうと考えていた。
(『アンの愛情』 村岡花子 訳 ただしルビは省略。以下の引用部も同様。)

ここでモンゴメリは、アンが未だ幼いロマンティシズムから抜け出ていないことを――その愚かしさとそこから感じられるおかしみを、写実主義者である(らしい)ハリソン氏との対比によってあぶり出そうとしている。だが、『アンの愛情』の終盤では、アンはロイ・ガードナーという美青年からの「ロマンチック 」な求婚を退け、幼いときからの知り合いであったギルバートを選ぶ。人生は小説とはちがう、という平凡な真実に従ってしまうのである。

ルビー・ギリス

『アンの青春』におけるアン・シャーリーは、もはやわたしの心を揺さぶり、はらはらさせる魅力――いたたまれないほど落ち着かなくさせる魅力は持っていない。だが、それでもこの本はわたしにとって、容易には捨て去ることのできない一冊である。なぜか。そこに、ルビー・ギリスの死が描かれているからだ。

アンの友だちと言えば、「腹心の友」ダイアナが真っ先に思い浮かぶが、ルビー・ギリスもなかなか印象深い存在である。『赤毛のアン』時代から頻繁に登場し、アンの幼友達の一群の中では最も美しい金髪の美少女として描かれている。(そしてもちろん、わたしは金髪の美少女が大好きです。)

ただし、人柄のほうは、あまり好意的な描き方がされているとは言えないようだ。『赤毛のアン』からいくつか、ルビーの登場する場面を拾ってみよう。まずは、アンが罰としてギルバートの隣の席に座るよう、先生から命じられた場面。(当時、男女の生徒を隣同士に座らせるということが一種の罰であったということは、トム・ソーヤーの回で述べた通り。)

 

一瞬間アンはそれに従うまいとするかのように見えたが、どうしようもないことがわかると通路をわたって、ギルバート・ブライスのそばにすわり、机の上に腕を投げだしてつっぷした。顔を伏せようとするところを、ちらと見たルビー・ギリスは学校からの帰り道、ほかの者に向かって「ほんとにあんなのって見たことがないわ――真っ青で、その中に赤い小さな点がぽつぽつうかんでるのよ」と話して聞かせた。(『赤毛のアン』 村岡花子 訳)

「赤い小さな点」とは、アンのそばかすのことを言っているのだろう。ここでルビーは、災難に遭った友だちに同情することもなく、軽はずみで辛辣な批評をしてしまう人物として描かれている。(よくいるタイプです。)

さらに、恋愛に憧れる軽薄な少女(ぶっちゃけて言うとマセガキ)としての一面を強調した表現も多い。

「ルビー・ギリスったら、十五になったらすぐ愛人もつんだって言ってるわよ」とダイアナが言った。
「ルビー・ギリスは愛人のことばかり考えてるのよ」アンは見下げたように言った。「落書に自分の名前を出されると、猛烈におこったふりをするけど、ほんとうはよろこんでいるのよ。……略……」(『赤毛のアン』 村岡花子 訳)

この「美少女だが軽薄で男好き」という性格設定は、『アンの愛情』でも再び語られている。次は、大学で知り合った新しい友人フィル(フィリパ・ゴードン)について語り合うプリシラとアンの会話。

「あたしも好きよ」プリシラはきっぱり言った。「ルビー・ギリスに負けないくらい男の子たちのことを話すけれど、あたし、ルビーの言うことを聞いているといつも腹が立ったり、胸がむかむかしたりするのに、フィルの場合にはただ気持ちよく笑いたくなっただけですものね。さあ、いったい、これはなんとしたわけかしら?」
「そこに違いがあるのよ」と、アンは瞑想にふけるかのように言った。「ルビーのほうは、実際、男の子のことを頭においているせいだと思うのよ。恋愛をもてあそんで、恋愛ごっこをしているのよ。それにルビーが自分の崇拝者たちを吹聴する時には、こちらがその半分も持っていないのを、当てこするためのように聞こえるわね。……略……」(『アンの愛情』 村岡花子 訳)

どうも、あまりの言われようだという感じがする。ルビー・ギリスはアンと同じようにクイーン学院で学び、大学には進学しなかったものの小学校の先生として働いている。当時としては進歩的な部類に属する女性と言えないこともないのだが、評価は厳しい。もっとも、たしかにアンの言葉にも一理あって、学校の先生をしてはいるものの、アンのように理想の教育とは何かと頭を悩ませるわけでもなく、ルビーの考えることと言えば、いかに多くの崇拝者(自分に恋する男)を身の周りに侍らせるか、ということだけであり、またそれに見事に成功しているわけである。少なくとも、そのように作者モンゴメリによって描かれている。

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ルビー・ギリスの暗転

だが、この軽薄で幸福な美人の運命は、いきなり暗転する。不治の病にかかってしまうのだ。

「ルビー・ギリスは病気なの?」
 教会から戻るとアンはリンド夫人にたずねた。
「ルビー・ギリスは奔馬性肺結核で死にかかっているんですよ」リンド夫人はずけずけ言ってのけた。「当人と家族のほかはだれにもわかっていることなのだけどね、あの人たちだけは承知しないのだよ。あの人たちに訊いてみなさい、ルビーは申し分なく丈夫だと言うから。この冬、喀血して以来、教えることができずにいるのだけれど、自分じゃ秋になったらまた教えるつもりだと言っているんだからね。ルビーはホワイト・サンド小学校へ行きたがっているのだけれどね。かわいそうに、ホワイト・サンド小学校が始まるころにゃお墓にはいっているだろうよ、まったくのところ」(『アンの愛情』 村岡花子 訳)

リンド夫人が語ったように、ルビー自身は、自分がやがて死ぬということを認めたがらない。反対に、自分がいかに健康で幸福なのかを、懸命にアンに語り聞かせるのである。以下は、ギリス家で行われたパーティに参加したアンとルビーとの会話。ルビーは自分を目当てにやってきた二人の崇拝者に注意を向けるよう、アンに言う。

「……略……あんた、階下にいるあの馬鹿げた二人に気がついて? あの二人はお互いに相手より長くいようと心を決めているのよ。あたしのほうではあのどちらもなんとも思っちゃいないのにね。あたしが好きなのはハーブ・スペンサーだけなの。……略……あんたとゆっくり話し合いたかったのよ、アン。話したいことが山ほどあるの。あんたとあたしはもとから仲よしだったわね?」
 ルビーは浅い笑い声をたてながら、そっと腕をアンの腰にまわした。しかし、一瞬、二人の目があった時、ルビーのこの元気さの背後に、アンは心にずきりと痛みを覚えるものをみとめた。
……略……
「あんた、どこもわるくないの、ルビー?」
「あたしが? まあ、あたし完全な健康体よ。こんなに元気なことって今までにないほどだわ。もちろん、この冬の喀血には少し弱ったわ。でも、あたしの血色を見てごらんなさい。あまり病人とも見えないと思うわ」
 ルビーの声は尖らんばかりだった。怒ったかのようにアンから腕を引込めると、階下に駆け下りて行き、そこで一段と陽気に振舞い、見たところ、かの二人の崇拝者をひやかすのにあまり熱中しているようすなので、ダイアナとアンはやや場はずれの気分がして、まもなく立ち去った。(『アンの愛情』 村岡花子 訳)

ルビー・ギリスの愚かさ

モンゴメリは、巧みな会話でルビー・ギリスの愚かさを浮き彫りにしている。自分が病に侵されているという明白な事実から、目をそらし続けるルビー。死を目前にしていながら、はしゃぎさえすればそこから逃れることができるかのように、恋愛遊戯に興じる美しい若い女。

……略……ルビーはいつも陽気で、いつも希望に満ち、崇拝者たちのことや、彼等同士の競争や絶望などのことをいつもしゃべったり囁いたりしていた。アンがルビーを訪れるのをつらく思うのはこのためだった。もとは馬鹿馬鹿しく、あるいはおかしく思われただけだったのが今は不気味に思われてきた。生命という我儘な仮面から死が覗いているのであった。(『アンの愛情』 村岡花子 訳)

だが、そんなルビー・ギリスも、ついには自分をだましきれなくなる。

「みんなが知っているのよ」ルビーはにがにがしく言った。「あたしにもわかっているの――降参しまいとはしていたけれど、夏じゅう知っていたのよ。だけど、おお、アン」ルビーは手を差しのべ、懇願するかのように、衝動的にアンの手を掴んだ――「あたし、死にたくないの。死ぬのが怖いの」
「どうして恐れなければならないの、ルビー?」アンは静かにたずねた。
「だって――だって――ああ、天国に行くことが怖いわけじゃないのよ、アン。あたしは教会員になっているんですもの。でも――なにもかもあんまり変わってしまうんですもの。……略……もちろん、天国はたいへん美しいにちがいないわ。聖書にそう書いてあるんですもの――でもね、アン、天国ってところはあたしが今まで慣れ親しんできたところじゃないわ」(『アンの愛情』 村岡花子 訳)

このルビーの告白に対して、アンは次のように答えている。

「あたしたちはたぶん、天国について天国のありのままの状態や、あたしたちのためにそなえてあるものにたいして、たいへん間違った考えかたをしているんじゃないかと思うのよ。……略……あたしたちはただそのままの生活を、この世の生活をほとんどそのまま続けるので――自分であることは変わりないのよ――ただ、良いおこないをすることと――最高の理想にしたがうことが、今よりずっとらくにできるにちがいないと思うの。……略……」(『アンの愛情』 村岡花子 訳)

モンゴメリの頭の中

この会話を書いたとき、作者モンゴメリの頭の中には、次のような構図ができていたのではないか、とわたしは思っている。

――「教会員になっている」から「天国に行く」と信じることのできる無邪気さ。そして、「天国はたいへん美しいにちがいない」と言いながら、「あたしが今まで慣れ親しんできたところじゃない」と言ってうろたえ、怯える愚かしさ。そうしたルビー・ギリスは、形式的な信仰しか持たず、生と死について真面目に考えることもせず、ただこの世の楽しみだけを追い求める俗世間的な人生観の持ち主を代表している。それに対して、アンのほうは、まだ不確かではあるけれども、自分なりに思索を巡らせた上で真実の信仰を持ちたいと望み、愛を求めるならば真実の愛をこそ求めなければならないと考えているのだ――と。

このことは、今引用した部分の少し後に、次のような記述があることからも察せられる。ルビーの家から帰宅する途中、アンが心の中で独白する場面である。

……略……自分はみじめな、ルビーのようであってはならない。一つの生涯の終わりに到達し、次の世と向き合う時全然異ったものに立ち向かう恐ろしさで――尻込みするのではいけない――平生の思想や観念や抱負とかけはなれたあるものへの恐怖で身もだえするのであってはならない。そのときどき、その場その場では美しく、すぐれたものであっても一生の目標とする値打のない、小さなことに生涯を賭けるべきではない。最高のものを求め、それに従わなくてはならない。天上の生活はこの地上から始めねばならぬ。(『アンの愛情』 村岡花子 訳)

アンのお説教は響かない!

なるほど。たしかにそうかもしれません。だが、しかし――しかしですよ。この俗っぽいお説教くささは、どうにかならないのか――と、わたしなどは思うのである。もちろん、モンゴメリとしては、俗っぽい世間をアンに批判させているつもりなのだろう。そもそもアンは世間から軽蔑されがちな孤児であり、そのうえ当時(今から約百年前)としては珍しく女性として大学教育を受けている立場でもある。アンに注がれる世間の冷ややかな視線――というのは、この『アンの愛情』においても基調として流れている。だから、当時の読者の目には、このときのアンもまた、幼少期のアンと同様に、頑迷な社会、嘘で固められた形式的な信仰に果敢に挑戦する者として映ったのかもしれない。そして、崇拝者たちにちやほやされるという「一生の目標とする値打のない、小さなこと」ばかりに短い一生を費やし、死を目前にして怯えることしかできないルビー・ギリスは、生と死、そして信仰の本当の意味を考えようともしない俗人を象徴する存在でしかなかったのかもしれない。

けれども、わたしとしては、ここでもう一度はっきり言っておこう。この場面でのアンのお説教は退屈で、わたしの心に響かない。なんだかよそよそしい感じ――いや、この際、勇気を出して言いましょう。アンさんや、あなたのお説教は上滑りしていませんか?

反対に胸に切々と迫ってくるのは、ルビー・ギリスのこんな言葉である。(決してルビーが金髪美人だからというわけではありません。)

「あたしもほかのひとたちと同じように生きていたいの。あたしは、結婚したいのよ、アン――そして――そして子供を生みたいのよ。……かわいそうにハーブは――あの人はあたしを愛しているし、あたしもあの人を愛しているのよ。」(『アンの愛情』 村岡花子 訳)

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モンゴメリのサディスティックな筆致

そして、ルビー・ギリスは死んでいく。彼女の死を描くモンゴメリの筆致は、妙にサディスティックだ。以下は、ルビーの亡骸の描写。

ルビーはもとから美しかったが、その美は地上的であり、俗っぽかった。あたかも見る者の目に見せびらかすような傲慢なものを含んでいた、精神的な輝きもなく、理知の洗練も経ていなかった。しかし、死がそれに触れ、清め、優雅な肉づきとこれまで見られなかった清純な輪郭を残した。(『アンの愛情』 村岡花子 訳)

だが、真に「清純」だったのは、死を目前に怯えていたルビー・ギリスのほうであり、「俗っぽい」のは、自分がより神に近い位置にあると思いこんでいるアンのほうではなかったか。「傲慢」なのは、生きていたころのルビー・ギリスの美貌ではなく、「ほかの人たちと同じように生きていたい」という彼女の願いを断罪するモンゴメリのほうではないのか?

暴走する才能と技術

それにしても、ここに不思議なことが一つある。これまで述べてきたように、わたしが読む限りにおいて、作者モンゴメリの狙いははずれ、アンの思索の深まりという(たぶん彼女が読者に感じてほしかった)テーマは、あまり説得力を持って迫ってはこない。要するに、モンゴメリは失敗している。それなのに、ルビー・ギリスの死をめぐる叙述は、やはり名文としか言いようがないのだ。これは翻訳者が巧いという理由(もちろん村岡花子の翻訳は巧いのだが)だけではないだろう。他の翻訳者の版で読んでも、やはり素晴らしいのだから。

この部分のモンゴメリの筆は、『アンの青春』の中で最も冴えている。そして、彼女の意図したところとは全く別の美――ルビー・ギリスの無邪気な愚かさが放つ、この世ならぬイノセンス――を描き出している。

作者の意図を超えて――いや裏切りさえして、才能と技術が暴走しているのだ。だが、たしかに美しい。傲慢でサディスティックであっても、やはり美しい。わたしが『アンの愛情』を名作と認定する所以である。

プロフィール

美咲凌介(みさきりょうすけ)

1961年生まれ。福岡大学人文学部文化学科卒業。在学中、文芸部に所属し、小説や寓話の執筆を始める。1998年に「第四回フランス書院文庫新人賞」受賞。SMを題材とした代表作に『美少女とM奴隷女教師』『Sの放課後・Mの教室』(フランス書院)など。他に別名義で教育関連書、エッセイ集、寓話集など著書多数。
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初出:P+D MAGAZINE(2018/03/27)

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