「推してけ! 推してけ!」第1回 ◆『アンダークラス』(相場英雄・著)

「推してけ! 推してけ!」第1回 ◆『アンダークラス』(相場英雄・著)

評者・藻谷浩介 
(地域エコノミスト)

金がないか、心がないか。
本当の下層(アンダークラス)はどっちだ?


 寒風吹きすさぶ、初冬の秋田県能代市郊外。凍てつく水路に、車椅子ごと落ちて死亡した、末期がんの老女。介護職員の若いベトナム人女性が、自殺幇助容疑で逮捕される。

 貧しき者の間に起きたこの悲劇を見て、ただ一人「どこかおかしい」と直感した、警視庁の初老のノンキャリ刑事。本来担当外のこの事案に巻き込まれ、地味な30代独身のキャリア警視の女性と、二人三脚で真相究明に奔走する。

 能代、神戸、それに東京の高層オフィスを舞台に、話は渦を巻くように進む。能代ほどには寒くはない神戸や東京にも、心の凍てついた人たちがいた。犯罪の背景に、国際競争の中で国ごと 下層階級に落ちていきかねない日本の現実と、そこから自分だけ這い上がろうとする者たちのあさましさとが浮かび上がる。

 真犯人の男と、共犯者の女の目論見は、TVシリーズ「刑事コロンボ」の第一作、「殺人処方箋」のラストを思い出させる、緊迫のトリックプレーによって潰える。しかし本件の共犯者はコロンボの話とは違い、真犯人以上の冷血漢だった。彼女の逃げ切りをみすみす許してしまうのかが、最後の山場となる。

 というようなアウトラインを持つ本書は、本格推理小説としてはもちろん、時間との戦いを描くサスペンスとしても、県警の事案に警視庁が入れる横槍をどう収めていくのかという組織小説としても面白い。能代と東京、神戸の山側と海側の対比を、情景が浮かび上がるように活写する、旅行小説としても秀逸だ。

 だが何より本書は、アジア人研修生の低賃金労働に依存しつつGAFAなどの外国企業に席捲されつつある、日本の今を描く経済小説である。読了後も苦い余韻として残るのが、アンダークラスという言葉だ。どこまでがそう分類されるのか。そして、アンダークラスの上に君臨する上層階級は、どこの誰なのだろうか。被害者女性やベトナム人のアインは、知性や人間性は優れているのに、貧しい生まれ育ちゆえ、人としての尊厳を蹂躙されてきた。アインを虐待した神戸の女事業主も、国際経済競争の渦中で揉みくちゃにされており、実は下層にいる。

 それに対して真犯人はどうか。外資系企業のエグゼクティブながら、終始その地位を剥奪される恐怖感に取り憑かれていた。もし逮捕・服役後に余生があるなら、待っているのは実際にも最下層の暮らしだろう。彼こそは「上層になれる」という幻想に踊らされた下層民、言うなれば「アウシュビッツ収容所のユダヤ人看守」だったのではないだろうか。

 それでは、主人公の田川刑事はどうか。ノンキャリの窓際ながら夫婦仲良く静かに暮らす彼は、アンダークラスなのか。仕事人間として彼の忠実な相棒を務めるキャリア警視の樫山はどうか。キャリアと言えど国家公務員の給与は高くはないし、描かれない彼女の私生活には、描くべき華もなかろう。彼女もアンダークラスなのか。

 そうだとするならつまるところ、日本人はみなアンダークラスなのか。

 だとすれば上層階級は誰なのだろう。GAFAの米国本社にいる幹部たちなのか。いや彼らも実のところ、真犯人と同じくいつ地位を失うとも知れない、アウシュビッツの看守に過ぎないのではないか。それでは、何とか大金をせしめて悠々自適の生活に入ることのできた、GAFAの創業者たちやその相続人たちはどうか。彼らも結局、「財産をいつどこで失うか」と生涯怯える、上層階級の皮を被ったお金の奴隷なのではないだろうか。

「誰が下層なのか。決めるのは金か。いや、人としての矜持だ」。これは、本書に評者が提供した帯文である。迷った別案は、「金がないか、心がないか。本当の下層(アンダークラス)はどっちだ?」だった。だが主人公の刑事のつぶやきのように、「日本も捨てたもんじゃない」と言い続けられるのは、いつまでだろうか。実は事態は瀬戸際で、「これから、日本人が景気の良いアジアに出て、仕送りする日がくるね」と吐き捨てたアインの予言が、静かに成就しつつあるのだろうか。

 僅かな救いは、エピローグの被害者女性の言葉にある。ただし、一字一句飛ばさずに全編を読んでからでないと、その文意は伝わらないだろう。彼女の心はアンダークラスではなかった。どんなに貧しくて、汚辱にまみれた人生を送ってきても、身を賭した最後の思い遣りを、人は持つことができるのだ。評者も、著者ともども、そのように信じて生きていきたい。
 

【好評発売中】

アンダークラス

『アンダークラス』
著/相場英雄



藻谷浩介(もたに・こうすけ)
1964年、山口県生まれ。地域エコノミスト。日本総合研究所主席研究員。平成合併前3200市町村のすべて、海外114カ国を自費で訪問。地域振興や人口問題に関して精力的に研究・執筆・講演を行う。著書に『デフレの正体』『里山資本主義』『世界まちかど地政学』など。

〈「STORY BOX」2020年12月号掲載〉

TOPへ戻る
「推してけ! 推してけ!」番外編 ◆『スクリーンが待っている』(西川美和・著)