「推してけ! 推してけ!」第5回 ◆『鳴かずのカッコウ』(手嶋龍一・著)

評者・後藤謙次
(ジャーナリスト)
近未来の国際社会に於ける日本の見取り図
著者との初めての出会いは今から約四十年前に遡る。首相官邸記者クラブでNHKと共同通信の政治部記者同士で、ともに時の鈴木善幸首相のいわゆる総理番だった。著者の前任地はNHK横須賀支局。通称「番小屋」と呼ばれた小部屋で雑談していた時のことだ。著者がさりげなく漏らしたエピソードが今も忘れられない。
「横須賀ではニュースはなかなか取れない。そこで時間をつくっては東京の六本木に出向いていた」
理由は米軍横須賀基地に所属する米軍オフィサーが息抜きに訪れる六本木で接触を図るためだったという。著者は後にNHKのワシントン支局長を経て、『ウルトラ・ダラー』『スギハラ・サバイバル』を世に問い、日本のインテリジェンス小説のジャンルに新しい地平を切り拓いた。その原点は横須賀時代にあったように思えてならない。
当時のメディア内のスタンダードからすると横須賀を離れて米軍を取材する発想は・規格外・だった。著者のニュースに向かう姿勢はその後も一貫して変わらず、むしろ俯瞰的な取材は一層磨きがかかってきた印象を受ける。
著者の頭の中には地球儀がすっぽりと収まっているのだろう。しかし、それは単なる国境線が引かれた単純な地球儀ではない。目には見えない国境を越えて蠢き続ける国際社会の冷厳な事実が刷り込まれている特別な地球儀だ。本書はその地球の内側に精通した著者が描く近未来の国際社会に於ける日本の見取り図と言っていい。
物語はウクライナのポーランド国境に近いリヴィウから始まる。
「なぜかトイレット・ペーパーがうずたかく積まれていた。ロシアのプーチン大統領の顔が黒いインクで印刷されている」
なぜウクライナなのか──そんな疑問符とともに一気にスリリングな世界に引きずり込まれる。その後、舞台は北海道の根室を経て主人公が勤務する公安調査庁(公調)の神戸公安調査事務所に移る。公調は破壊活動防止法や団体規制法に基づいて調査対象組織の監視を続ける日本の情報機関の一つだが、内情はベールに包まれている。
その公調が人知れず静かな変質を遂げている。二〇二〇年七月、短いニュースが流れた。中国でスパイ罪に問われ、服役した日本人男性が刑期満了で出所し、帰国したというものだった。記事の中にこんな記述があった。
「日本政府はスパイ行為を否定しているが、中国は男性を公安調査庁の協力者だとみなしている」
明らかに従来の公調のイメージとは異なる役割が顔をのぞかせた。変転する国際情勢とインテリジェンスの世界を知り尽くす著者が公調を取り上げること自体に強いメッセージを感じる。本書にも著者の思いが滲む。
「(公調は)『最小にして最弱の諜報機関』とみなされているが、いつの日か意外に有効な手札として使えるかもしれない」
公調の機能強化の背景には日本政府部内の強い危機感がある。中国の台頭とともに国際社会のパワーバランスは大きく変わり、インテリジェンスの重要性はますます強まっている。
「台湾は香港から北京政府に反発する人たちを受け入れている。当然、北京の意を受けたエージェントが台湾に入っていることは常識だ」(政府高官)
本書で霞が関の公安調査庁の本庁からの調査要請を「情報関心」と呼ぶことを初めて知った。国家にとって何が重要な情報なのかを決めるのは国のリーダーの大きな責任と言っていい。
もちろん本書は単なるスパイ小説でもなければ公調の内情を描いた潜入ルポでもない。若きインテリジェンス・オフィサーの成長と重ねながらインテリジェンスにあまりに無頓着な日本社会に対する「警告の書」でもある。
後藤謙次(ごとう・けんじ)
政治コラムニスト。1973年早稲田大学法学部卒業、共同通信社入社。政治部記者、論説委員、政治部長、編集局長を歴任。2007年10月同社を退社後はテレビの報道番組でも活躍。

〈「STORY BOX」2021年4月号掲載〉