今月のイチオシ本 【エンタメ小説】

『ひぐまのキッチン』
石井睦美
中公文庫

 大学で応用化学を学んだ樋口まりあは、就活で人生初めての挫折を味わう。それまでは、試験という試験を優秀な成績でクリアして来たまりあだったが、三十数社に及ぶ就職試験には悉く失敗したのだ。すべての会社に「面接」で落とされたことは、人見知りでコミュ力が高くないことを自覚しているとはいえ、やはり、相当に辛い体験だった。

 就職が決まらないまま卒業し、アルバイト生活をして半年を過ぎた頃、まりあは祖母の百合から小さな食品商社を紹介される。百合の高校時代の友人が起業した、というその会社「コメヘン」に赴いたまりあは、社長の米田との面接後、無事採用が決まる。ただ一つ、まりあの思惑違いだったのは、自分が学んだ応用化学が生かせる部署ではなく、米田の秘書としての採用だったこと。寿退社をする米田の秘書・吉沢の後任に選ばれたのだ。

 果たして自分に秘書が務まるのか。不安を抱えつつも、スーパー秘書・吉沢(これがもう、正真正銘のスーパーっぷり!)の教えを吸収していくまりあだったが、事務仕事とは別に、「コメヘン」ならではの仕事──社長の米田に会いに来るお客さまのお昼をお出しすることが間々ある──も覚えなくてはならず、家事に不慣れだったまりあは、迷いながら、悩みながらも、一つずつこなしていく。

 読んでいて何よりも気持ちがいいのは、「コメヘン」という会社のあり方だ。ブラック企業という言葉が社会に定着してしまった今、せめて物語のなかだけでも、こんなふうなホワイトで温かい会社はあって欲しい、と思う。そして、そんな「コメヘン」だからこそ、不器用な性格のまりあが、ゆっくりとそこに自分の居場所を作っていける、というのがいい。

 加えて、本書で描かれる食べ物たち──歓迎会や送別会の時に焼かれるお好み焼きや、オムライスや鬼まんじゅう!──が美味しそうなのもいいし、卵は産みたてよりも、産んでから五日目の方が美味しい、というようなミニ知識が詰まっているのもいい。読後、お腹が空くこと間違いなし!

(文/吉田伸子)
〈「STORY BOX」2018年12月号掲載〉
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