自分の頭の中に完成品の映像がある
岡田……第1回本屋大賞を受賞した『博士の愛した数式』は、初期の小川さんの作品が持つ清潔な病室のようなクールなイメージから一転して、木造の一軒家に舞台が移った、あたたかみのようなものを感じました。
小川……もともと「病院」や「標本」や「博物館」といったひんやりとした手触りのものに心惹かれていたのですが、これも自分が慣れ親しんだ素材のひとつだと思っていた「数字」に近寄ってみたら、実は人間臭いあたたかいものを隠し持っていることがわかったんです。素材自体を生かそうとした結果、いままで自分が書いてきたものと違う展開の小説になったと思います。
朝加.……『博士の愛した数式』では、数学が文学と融合していることにまず驚かされました。博士は天才数学者ですが、僕もすっかり影響を受けて、この作品の参考文献を読んだりしました(笑)。
小川……「天才と呼ばれる人が普通の人は絶対持ち得ない能力を神様から与えられ、その代わりになにかかけがえのないものを失う」という欠落感を、数学者に強く感じました。数学自体はいまでもよくわからないですし、学生のときも数学は得意ではなかったのですが、「人間に興味があれば小説は書ける」ということなんでしょうね(笑)。
朝加…….映画では博士の役を寺尾聡さんが演じられていて、とても雰囲気が出ていてよかったです。
小川……書店員の方だけに向けた試写会もあって、本屋大賞以降も、引き続き書店員さんたちにこの小説が愛されている証明のような気がしてうれしかったです。私が作品を書くときは最初から鮮明に映像があります。自分の中で、風景が動いたり人物がやりとりしている姿が言葉よりもはっきりと自覚できるので、「自分の見えている映像に言葉が負けているなあ」と敗北感を重ねていくと小説になる感じなんです。ですから、自分の小説を監督さんが映像にしたらどうなるのかとても興味があります。
きらら……文庫化にあたり加筆はされましたか?
小川……ほとんど直しませんね。小説を書くことは編み物に近くて、ここの段のここだけ直したいと思っても、直したいところまで全てほどかないといけない。一度編んでしまったものは、編み間違いがあってももう直せないんです。
岡田……では、書き進めるときは何度も書き直しながら時間をかけられるタイプですか? それとも瞬発力で一気に仕上げられますか?
小川……映像が浮かんでくるのは瞬間的ですが、それを言葉に置き換えていくのはとても時間がかかるので、書くのは遅いですね。ただ一度書いてしまうと、次の場面がすぐ浮かぶので、次に行かなくちゃいけないという感じですね。ゲラでもあまり直しませんし、第5章を書いた段階で、「これは第1章を直さなくちゃ」とかそういうこともないです。自分の中にはっきりとした完成品の映像があるんですよ。だから言葉にするとどうしてうまくいかないんだろうなと余計に思います。
職業が決まれば小説が書けると思っていた
朝加……『薬指の標本』では「標本技術士」という異色の職業が、違和感なく作品世界に収まっていました。自分だったらどんな標本を頼もうか考えたりしましたね(笑)。
小川……登場人物の職業さえ決まれば小説が書けると思っていた時期があって、ちょうどそのころに書いたものですね。「標本技術士」という仕事が本当にあるのかどうかはわかりませんが、山階鳥類研究所の映像をテレビで観て、引き出しに剥製の鳥が入っていたんです。「なにかの標本をつくる仕事をしている」というイメージから、その人のキャラクターまでその時点で全部見えてくるんですよね。
岡田……標本技術士の男性が女の子にプレゼントした靴のことが気になりました。ラストが印象的なシーンで終わりますが、小川さんのなかにはその先のイメージはあるのですか?
小川……「どうなるのか教えてほしい」と終わり方が多少物足りないと思われる人も多いようですが、私の中の映像でもそのシーンで終わっています。
きらら.……この作品はフランスで映画化されていますね。
小川……自分の頭の中の映像と、映画がぴったりだったんですよ! 監督さんが靴もご自身でデザインしてくださって、標本を入れる試験管なども骨董品屋さんで古いガラスを集めたり、丁寧な仕事をしてくださいました。自分の想像を全部書くことはできないので、小説でぼやけていた部分はこうなっていたんだなあと興味深かったですね。
『ホテル・アイリス』の舞台はフランスのサン・マロ
きらら……今回対談で取り上げる著作について事前に小川さんにご相談しましたら『ホテル・アイリス』があがりましたが。
小川……あまり深い理由はなかったんですけれど(笑)。私の作品はいくつかフランスでも翻訳されていますが、一番売れているのが『ホテル・アイリス』なんです。以前フランスで文芸記者のインタビューを受けたときに、「『薬指の標本』の女の子のその後が、『ホテル・アイリス』ですね」と言われて、「ああ、なるほど」と思いました。『薬指の標本』の女の子も『ホテル・アイリス』の少女も、自ら男性に束縛されたいという態度を示しながらも、本当のところは彼らに哀れみの心を持っていて、単純に言いなりになっているのではない。非常に意図的に男性を受け止めている点が共通していますね。
岡田……フランスで評判がいいのは納得です。昼間からこの作品の話題をしていいのか戸惑うほど、きわどい描写がありますよね。
小川……フランスは「恋愛」の国なので(笑)。ヨーロッパだと『ホテル・アイリス』について訊かれることが一番多いですね。
朝加……『ホテル・アイリス』に出てくる老人は翻訳家ですが、さきほどうかがった「職業が決まれば小説が書ける」ということに通じていますか?
小川……そうですね。翻訳家の男性でもう「死」しか残されていないようなお年寄りにしたかったんです。この小説の舞台に想定したのは、フランスにある「サン・マロ」というリゾート地で、潮の干満の差が激しく、いままで海で隔てられていた島に歩いて渡れたりするところなのですが、サン・マロは日本でいうと子どものころに家族旅行で行くような熱海みたいな場所なんです(笑)。
岡田……熱海だと『ホテル・アイリス』じゃなくなってしまいますね(笑)。
朝加……尾崎紅葉『金色夜叉』の貫一お宮ですね(笑)。
小川……舞台のイメージがサン・マロだと話すとフランス人はショックを受けるみたいです。
朝加……街と島を行き来することで、現実世界と非現実世界を移動するイメージがあります。小川さんの作品では「欠落」を書かれていることが多いのですが、健康で若いのに一部欠落がある甥と老人の対比が印象的でした。
小川……はい。老人と少女が島とホテルを行き来するだけではなく、風変わりな甥を登場させて二人をかき回すことで、物語に違う種類の風を入れました。
初めてのことをいろいろと試みた『ミーナの行進』
きらら……『ミーナの行進』は今回の本屋大賞にノミネートされましたね。
小川……1年間に刊行される本の数を考えると、ノミネートされる10冊に選ばれるだけでも光栄なことです。回を重ねるごとに本屋大賞自体がどんどん注目され成長していく姿を見るのはうれしいです。
岡田……この作品は芦屋のお屋敷を舞台に、とてもあたたかな家庭がでてきますね。
小川……私自身、岡山から芦屋に引っ越してきて、あまりにも現実離れしたお屋敷があるので、子どものようにめらめらと想像力と好奇心が湧いてきました。この『ミーナの行進』は初めての新聞連載でしたし、まとまったひとつの家族を描くのも初めて。現実に起こった社会的な事件を書くこともいままでなくて、いろいろと初めてのことを試みた小説ですね。それだけに書き終わったあとはがっくりきました。
朝加……すごく幸せな気持ちにさせてくれる小説ですね。家族はたくさんの問題を抱えていますが、朋子さんの視点から見た家族の姿なので、深刻になりすぎず、うまく距離を置いて描かれていました。
小川……そうですね。ミーナのほうがより深くこの家族に、食い込んでいて複雑な心境のはず。小説を書くときは観察者の視点で書くほうがうまくいくので、「ミーナの家族のなかに、外からやってきた朋子」という語り手が必要でした。大人たちはいろいろな問題があっても、子どもに影響を及ぼさないように守るもので、ミーナと朋子はそういう子どもでいられる最後の年代だったようにも感じています。
岡田……朋子さんは世間とコミットできるようになって、作中でとても成長していますね。
小川……いままでの作品では、お互いの人生観が違っても、その場の環境を保てるような関係を書いてきました。家族を描いた『ミーナの行進』がほかの作品と違うのはここだと思うのですが、家族であるが故に最後のひと言を言ってしまったり、コミットしていかなければならない状況が起こったりするんですよね。
岡田……小川さんの作品を読むと、女性は底が知れないと怖くなってしまうんですが、この『ミーナの行進』では朋子さんを通して、女の子的なものの見方や感じ方がよくわかりました。
小川……少女のことはわかりすぎているところがあって、「少女はこうだよなあ」と思いながら書いています。少女の時期は許容範囲が狭いわりに、けっこう簡単に誰でも好きになれるんですよね。少年と少女を書くときは、違う人種を書いているようです。少年を書くときはどこかでこんな子がいたらいいなあと、ひとつの理想を書きます。
無意識で同じことを繰り返して書いていた
朝加……最新刊『海』はバラエティに富んだ短篇集ですね。「缶入りドロップ」が好きです。
岡田……僕が一番好きなのは、「ひよこトラック」です。年上の男性の、少女をみつめる視線がなんとなく危険なんですよね。
小川……社会的に孤独で、自分の子どもを生涯持てなかった男が、縁もゆかりもない小さい女の子を前にして、どぎまぎしてしまう態度は、ある意味健全ですよね(笑)。最後はちょっと微笑ましい話になっています。
きらら……表題作は「海」ですが、小川さん自身一番気に入っている短篇はありますか?
小川……「海」は台湾の女流作家と私で“海”という同じ題で書くことになったので、海が出てこない海の話を書きました。自分では順番はつけていませんが、最後の「ガイド」は読み返してみて、話の構造が『博士の愛した数式』と一 緒で驚きました。無意識でしたが、同じことを繰り返し書いているんだなあと思いました。
朝加……やはり本はよく読まれますか?
小川……手当たり次第いろいろ読みますが、柴田元幸さんに出会ってからは、英文翻訳が好きになりました。すごい小説を読んでその作品に引きずられることはありませんが、打ちのめされることはありますね。『ミーナの行進』では、子どもが本からなにを学ぶのかということを書いておきたかったんです。本に感謝したい想いもありますね。
岡田…….小川さんの描く少女がとても印象的なので、それに負けないくらい強い魅力のある少年の姿を読んでみたいですね。
小川……今年中に長篇をひとつ書こうといま取材をしています。盤のなかでしか動けない「チェス」を題材にして、放浪する人の話です。高校のチェス部に行ったり、大阪のチェス喫茶にも顔を出しましたが、面白いんですよ(笑)。
朝加……読んでいるとすっと入ってくるのですが、小川さんが選ぶ職業にしても、ミーナの家にカバがいることも、よく考えると不思議なことなんですよね。これからも小川さんがイメージしたものが形になった小説に、読者がさらに新しいイメージを乗せていける作品が生まれることを楽しみにしています。
小川……ありがとうございます。本屋大賞をいただいて、「自分が小説を書いているだけでは読者のもとには届かない」という当たり前のことに気付くことができました。私の作品が読者に読まれるのも書店員さんたちのおかげです。これからもよろしくお願いします。
(構成/松田美穂)
小川洋子(おがわ・ようこ)
1962年岡山市生まれ。早稲田大学第一文学部文芸学科卒業。88年『揚羽蝶が壊れる時』で海燕新人文学賞、91年『妊娠カレンダー』で芥川賞、2004年『博士の愛した数式』で読売文学賞、本屋大賞、『ブラフマンの埋葬』で泉鏡花文学賞、06年『ミーナの行進』で谷崎賞を受賞。主な著書に『冷めない紅茶』『沈黙博物館』『偶然の祝福』『まぶた』などがある。
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