知念実希人『十字架のカルテ』特別書き下ろし短編「震え」


「そのころ、どのような生活を送っていましたか」

「朝、妻を会社まで車で送っていったあと、自宅に戻って研究している古代メソポタミア文明の文献や論文に目を通して過ごしました。夕方にまた妻を会社まで迎えに行き、帰宅後、一緒に食事をしたあとまた資料を読むような生活です」

「研究の資料を見るのはつらくはなかったんですか?」  

 影山が訊ねると、積木の表情がほんのわずかにやわらいだ。

「いえ、症状がひどいときも研究のことを考えているときだけは穏やかでいられました。私にとって、一人で研究に打ち込む時間がなによりも癒しだったんです」

「なるほど、分かりました」  

 頷いた影山は、わずかに上体を前傾させた。

「それでは、そろそろ事故の話にいきましょう」  

 積木の顔に緊張が走る。その細身の体に、細かい震えが走った。

「その日も、奥さんを会社まで送って行ったんですね」

「はい、そうです。八丁堀にある会社に、午前八時に彼女を送り届けてから自宅に向かっていました」

「以前から、奥さんを送っていたんですか?」

「いえ、私がうつ病になってからです。家で鬱々とこもっているより、自宅のある三軒茶屋から八丁堀までの約一時間、夫婦で話をしながらドライブをした方がいいと思いまして、大学が休みになった先月からはじめました」

「車の運転はよくしていたんですか?」

「はい、平和島にある大学まで車なら三十分もかからずに着きますので、車で通勤していました。もともと、ドライブは好きだったので」  

 影山は「そうですか」と低い声でつぶやくと、積木の顔を見つめた。

「あの日も奥さんを八丁堀まで送って行って、帰宅しようとした。そして、自宅の近くまで来たところで事故が起きてしまった」  

 積木の表情がこわばっていく。

「そのとき、なにがあったのか説明していただけますか」

「……分かりません」  

 青ざめた積木の唇の隙間から、蚊の鳴くような声が漏れた。

「なにも覚えていないんです」

「では、どこまで記憶があるんですか?」  

 影山は淡々と質問を続ける。

「妻を会社に送り届けて、自宅の近くの路地に入ったところまでは覚えています。ただ、次に気がついたら救急車の中でした。パニックになってなにが起きたのか救急隊員に訊くと、交通事故を起こしたって……、私が人を轢いたって……」  

 積木は両手で顔を覆った。

「事故の記憶が完全に抜け落ちているということですね。そのようなことは、これまでありましたか」

「……ありました。……てんかんの発作を起こしたとき、意識を失って、そのときになにがあったのか全く覚えていないということがありました」  

 顔を覆ったままかすれ声で言う積木を凜は無言で見つめる。てんかんの持病、それこそが積木が精神鑑定を受けることになったもう一つの『事情』だった。

「おっしゃる通り、あなたには強直間代性(きょうちょくかんだいせい)てんかんの既往歴がありますね」  

 影山が資料に視線を落とす。てんかんにも多くの種類がある。強直間代性てんかんは意識を失って全身が激しく痙攣(けいれん)するタイプの病型だった。

「これまで、なんど痙攣発作を経験しましたか?」

「子供時代を入れたら、十回ほどです」

「最後に痙攣を起こしたのは?」

「十年以上前です。一時ほとんど発作が起こらなくなったので主治医と相談して、抗けいれん薬を減量していました。けど、その際に……」

「それ以来、また抗けいれん薬をもとの量に戻して内服を続けていたおかげで、発作を起こすことはなかった。そうですね?」

「はい、そうです」

「では、なぜ検査で、あなたの血液から抗けいれん薬が検出されなかったんですか?」  

 影山は机の上に開いた資料を指さす。そのページには、事故後に積木が運び込まれた救命センターで行われた血液検査の結果が載っていた。

「……最近、抗けいれん薬を止めていました」

「それはなぜですか?」

「うつ病で気持ちが沈んで、受診するのが億劫だったんです。それに……、十年以上も発作が起きていないから、もう大丈夫だと思っていました」  

 凜は唇を噛む。怠薬、自己判断で薬を止めること。それが原因で疾患が再発・悪化するのを何度も見てきた。  

 てんかんの既往歴がある者でも、二年以上発作が起きていなければ自動車の運転は許可される。しかし、それはあくまでも主治医の指示に従っていればという条件付きだ。今回の事故の原因がてんかん発作によるものだとしたなら、積木の自分勝手な判断によって、人の命が奪われてしまったことになる。

「被害者の町田壮介さんとは、面識はありましたか」  

 膝の上で拳を握りしめる凜の隣で、影山は質問を重ねていく。

「はい、ありました。近所ですから。町内会で顔を合わせたり、ときどきすれ違ったときに挨拶をしたりするくらいでしたが」

「警察の調べによると、町田さんとトラブルになったことがあったとか」

「トラブルってほどのものじゃありません」  

 積木は勢いよく顔を上げた。

「一年ほど前、ちょっとしたことで言い争ったことがあっただけです。すぐに和解しました」

「そうですか」  

 影山が頷くと、積木が両手をテーブルに置いた。

「まさか、私がわざと町田さんを轢いたとでも疑っているんですか⁉」

「いまは、なぜ事故が起きたのかを解明するために情報を集めているところです。まだ仮説を立てる段階にはありません」

「けれど、わざと事故を起こした可能性も考えているんでしょ⁉ 警察や検察もそうでした。何度もしつこく町田さんとの関係を訊いてきたんです」  

 それまでの緩慢な口調が嘘のように、積木は早口でまくし立てる。青ざめていたその顔は紅潮していた。  

 影山が「落ち着いてください」とたしなめる。積木はヒステリックに首を横に振った。

「わざと轢いたりするわけがないじゃないですか! 町田さんには娘さんがいたんです。私のせいで、娘さんは父親を喪ったんだ! それどころか、下手をすれば娘さんまで死んでいたかもしれない。私はどうお詫びをすれば……、いや、私はどうやって償えば……」  

 嗚咽交じりに言葉を吐き出しながら、積木は両手で髪をかき乱す。

「……今日はここまでにしましょう。病室でゆっくり休んでください」  

 影山はテーブルに置かれていたボタンを押すと、積木のそばへと移動し、その肩に手を置く。積木はテーブルに顔を伏せると、肩を震わせはじめた。  

 廊下に控えていた男性看護師が入ってきて、積木を促して立ち上がらせる。涙で濡れたその瞳は焦点を失い、虚ろに空中を見つめていた。  

 看護師の肩を借りるようにしながら積木が面接室をあとにする。扉の閉まる乾いた音が、狭い部屋に反響した。

「さて……」  

 影山は積木が座っていた椅子に腰かける。

「いまの面接、君はどう見る?」

「話だけを聞くと、怠薬によるてんかん発作で意識を失って事故を起こしたように思えました。あの、影山先生。今回の鑑定は積木さんが本当にてんかん発作を起こしたかどうかを判断するものなんでしょうか?」

「それが、検察が一番知りたいことだな」

「てんかんに対して精神鑑定が行われることってあるんですね」  

 凜がつぶやくと、影山は小さく頷いた。

「てんかんの中には、発作を起こしたあと一時的に精神症状を示すものもある。それらが犯行にどう影響したかを判断するのも、鑑定医の仕事だ」

「けれど、今回は強直間代性発作ですから、発作が起きていたら事故当時、意識はなかったということですよね。その場合は、罪には問われないんでしょうか?」  

 たとえ意識がなかったとしても、結果として人の命が喪われている。その罪を償わなくてもよいのだろうか? 

 凜の眉間にしわが寄る。

「いや、そうはならない」  

 影山は首を横に振った。

「しっかり服薬をしていたにもかかわらず発作が起きたとしたら、罪に問われない可能性が高い。しかし怠薬の結果、発作が起きて事故につながったとしたら、本人の大きな過失だ。責任を取る必要がある」

「ですよね」

「ただ、今回の鑑定はてんかんについてのみ調べるものではない」

「うつ病、ですね」  

 凜が低い声で言うと、影山は「そうだ」と頷いた。

「弓削君、積木さんのうつ病については、どう感じた」

「面接のときの雰囲気、話の内容から見て、強い抑うつ状態にあるのは間違いないと思います。けど、それが事故前からのものなのか、それとも事故の罪悪感で症状が悪化したのかは分かりません」  

 影山はあごを撫でる。

「うつ病が事故の発生に関係しているのか否か。それについても詳しく調べて欲しいと検察から依頼されている」

「もしかして検察は、事故のとき積木さんに意識があって、わざと被害者を轢いたかもしれないと考えているんですか」  

 凜の声が高くなる。

「その可能性も検討しているだろう。それほど多くないが、自動車で事故を起こして自殺を図るうつ病患者もいる。希死念慮が強い状態だった積木さんが、ふと被害者を見て以前の諍いを思い出し、とっさに被害者を巻き込んで死のうとしても不思議ではない」

「だとすると、さっき積木さんが見せた後悔は嘘だということですか?」  

 凜は数分前に目の当たりにした積木の様子を思い出す。涙を流しながらパニックになっているその姿が演技だったとはとても思えなかった。

「そうとは限らない」  

 影山は、積木が連れていかれた扉に視線を送る。

「事故のあと、自分がしたことを客観的に見て強い罪悪感に襲われたのかもしれないし、そもそも記憶が消えている可能性だってある」

「記憶が消えている?」  

 凜が聞き返すと、影山はテーブルに置かれている資料をめくった。そこには、前面が大きく破損しているSUVの写真が載っていた。フロントガラスには縦横無尽にひびが走り、運転席と助手席のエアバッグが飛び出している。

「救急隊が駆け付けたとき、積木さんは痙攣こそしていなかったが、意識は失っていたそうだ。シートベルトをしてエアバッグが作動していたとはいえ、かなりのスピードでブロック塀に突っ込んだんだ。頭部には強い衝撃が走っただろう。脳震盪(のうしんとう)を起こして失神するのも当然だ」

「もしかして、その衝撃で記憶が……」

「そうだ」

 影山はあごを引く。

「頭部に強い衝撃を受けた人物が、その前後の記憶を失うことは珍しくない。積木さんが本当に事故のことをおぼえていなかったとしても、事故の際に意識がなかったとは限らない」  

 凜は「はぁ」と首をすくめるように頷く。

「でもそれって、いくら面接をしても分からないんじゃないでしょうか」

「その通りだ。今回の事件は、面接だけで正しい鑑定を下すのは難しい」

 影山は薄い唇の片端をわずかに上げる。それを見て、このあとなにを言われるか凜は気づいた。

「分かりました。今度の週末、事故現場に行ったり、関係者に話を聞いたりしてくればいいんですね」

 ため息交じりに言うと、影山は目を細めながら立ち上がった。

「よろしく頼む。いい情報を期待しているよ、弓削君」

 


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知念実希人

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知念実希人(ちねん・みきと)
1978年沖縄県生まれ。東京慈恵医科大学卒業。医師として勤務する傍ら、2011年「レゾン・デートル」で島田荘司選  ばらのまち福山ミステリー文学新人賞を受賞。翌年同作を『誰がための刃  レゾンデートル』と改題しデビュー。『崩れる脳を抱きしめて』『ひとつむぎの手』『ムゲンのi』で3年連続本屋大賞ノミネート。

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