知念実希人『十字架のカルテ』特別書き下ろし短編「震え」


 3

「どうぞ」

 紅茶で満たされたマイセンのカップが、硝子製のローテーブルに置かれる。

「いただきます」

 凜はカップを取って一口紅茶を含む。かすかにオレンジの香りを含んだ上品な風味が、口腔内から鼻へと抜けた。食道から胃へと、優しいぬくもりが落ちていく。

「本日はお時間をとってくださり、ありがとうございます」

 カップをソーサーに戻して会釈をすると、積木義久の妻である昌子(まさこ)は、ローテーブルをはさんで向かいのソファーに腰かける。

「当然じゃないですか。主人のためですから」

 昌子は哀しげに微笑んだ。

 積木の面談にはじめて立ち会ってから三日後の土曜日、凜は三軒茶屋にある積木の自宅を訪ねていた。駅から徒歩で二十分ほどのところにある広々とした敷地に建つ、二階建ての白亜の洋館。かなり年季が入っているものの、その外観から滲みだしてくる豪奢な雰囲気に圧倒された。室内も吹き抜けの天井からつるされたシャンデリアや、アンティーク調の調度品など高級感を醸し出している。  大学教授ってそんなに給料がいいの? 凜がリビングに視線を彷徨わせていると、昌子が「あの……」と声をかけてくる。

「精神鑑定のために話を聞きたいということでしたが、どういうことなんですか? 主人はてんかんの発作で事故を起こしたのでしょ?」

「それも含めて鑑定を行っています。てんかんによる精神症状も私たち精神科医の専門分野ですので」

 凜が曖昧に答えると、昌子は胸を撫でおろしたようだった。

「そうなんですね。精神鑑定と聞いたので、事故のショックで主人の頭がおかしくなったのかと思って驚いたんです。うちの主人に限ってそんなことあるわけないのに」

 差別的な昌子のセリフに、凜の頬が引きつる。

「あの、頭がおかしくなるというのは正確な表現ではありません。精神疾患は強いストレスなどを機に、脳内のホルモンバランスが崩れることが原因で起こることが多く、どんな方にもありうるものなんです。義久さんが患っていたうつ病も、その一つです」

「いやだ、主人のは別に、精神病ってほどのものじゃありませんよ。ただ、ちょっと疲れがたまって調子が悪くなっていただけですって」

「……そうですか」

 これ以上の説明をしても無駄だと、凜は諦める。昌子のように精神疾患に対して強い偏見を持っている人物の認識をあらためさせるのは容易ではない。彼女から訊き出さなくてはならない情報はたくさんある。説明に労力を使うわけにはいかなかった。

「半年ほど前から、ご主人は調子を崩されていたんですよね」

「そうです。その頃、帝都大の准教授から、東葉大学の教授に就任していろいろと仕事が増えましたから。それで疲れ果てたんだと思います。ほら、教授っていえば学部の代表みたいなものじゃないですか。大変な責任がのしかかってくるものなんですよ。あの人は、ちょっと張り切りすぎて無理をしちゃったんです」

 顔をしかめてはいるものの、昌子の口調はどこか得意げだった。

「調子を崩されてから、ご主人は自宅でどのように過ごされていましたか」

「そうですね。二ヶ月程前、大学が夏休みに入ってから、ずっとそこで専門書を読んでいましたね」

 昌子は窓際に置かれていた安楽椅子を指さした。そのわきには、英字の専門書が山積みになっている。

「調子が悪いのにあんなに難しい本を読めるなんて、本当に考古学が好きなんですね」

「主人にとっては考古学の研究をしている時間が、一番心が休まるみたいなんですよ」

 昌子は夫の姿を探すかのように、安楽椅子に視線を送る。先日の面接で積木が言っていたことは本当らしい。

「調子を崩される前から、いつもあそこで研究をされていたんですか」

「いえいえ」昌子は苦笑しながら手を振る。「それまではもっとひどかったんですよ。二階にある書斎に閉じこもって、食事のときくらいしか降りてこなかったんです」

「書斎……ですか」

「書斎というか、本で埋め尽くされてほとんど倉庫みたいになっていますけどね。ひどいときには、そこで一晩中、専門書を読みふけっていましたよ」

 そこで言葉を切った昌子は、哀しげに微笑んだ。

「夫が調子を崩して最初は動揺しましたけど、そのおかげで夫婦の距離が縮まった気がしたんです。夫は私がそばにいないと安心できないらしく、二ヶ月前からずっとこのリビングと寝室で過ごすようになりましたから」

「ずっとですか?」

「ええ、昼はこのリビングで研究して、一緒に帰宅して食事を済ませたあとは、寝室で資料を読むようになりました。本当はここに一緒にいたいみたいですけど、私は夜にテレビドラマを見るんで、集中できないらしいんです。そして私が寝るために寝室に行くと、邪魔をしないようにって気を使って、またこのリビングに移動して夜更けまで夢中で本を読んでいるんです」

「はぁ、なるほど」

 凜は曖昧に相槌を打つ。

「十数年前、お見合いで結婚してからこれまで、お互いに仕事が忙しく夫婦の時間はほとんど取れませんでした。けれど、事故が起きるまでの一ヶ月はゆっくりと話す時間を取ることができたんです」

「それに職場まで、奥さんを送り迎えしはじめたんですよね」

 凜が言うと、昌子は哀しげに首を縦に振った。

「ええ、そうです。それだけじゃなくて、私が病院を受診するときも送迎してくれました。いま思えば断ればよかったんです。けれど、主人が少しでも私との時間を取りたいと言ってくれたので、甘えちゃったんですよ。これまでのように、ハイヤーで私の会社まで通っていたら、あんな事故が起きなかったのに……」

「え、ハイヤー? 私の会社?」

 凜が聞き返すと、昌子は「はい」と頷いた。

「八丁堀にある積木建築という建設会社です。十年ほど前に亡くなった父が興したもので、いまは私が社長を務めています」

 ああ、なるほど。資産家である妻の実家に婿入りしたということか。どうりでこんな豪邸に住めるはずだ。凜が納得していると、昌子が唐突に「先生にお願いがあるんですが」と前のめりになった。

「主人は先生の病院に入院しているんですよね。主人に会わせていただくわけにはいきませんでしょうか? あの人はいま、心細いと思います。私がいないとあの人はダメなんです」

「申し訳ありませんが、精神鑑定中は基本的に面会できないことになっています」

「そこをなんとか。もしよろしければ、病院に十分な寄付などをさせていただきますから」

 ソファーから腰を浮かした昌子は、ローテーブルに両手をつき、どこかいやらしい笑みを浮かべる。金を積めばどんな無理でも通ると信じ切っているその態度に、凜の鼻の付け根にしわが寄った。

「寄付をされても、できないものはできません。精神鑑定の際のルールですからご理解ください。もしそのルールを破ったことが後から知られたら、義久さんにとって不利になることもあり得ますので」

 はっきりとした口調で凜が言うと、昌子は唇をゆがめてソファーに腰を戻した。

「仕方ありませんね、分かりました。それで主人の精神鑑定の結果はどうなるんです? 主人は起訴されるんですか?」

「それについては検察が決めることですので、私は答えられません」

「……そうですか」

 不満げに言う昌子に、凜は気を取り直して質問をしていく。

「奥さんは、被害者の町田さんとは面識がありましたか?」

「そりゃ、ご近所でしたから見かけたことはありますよ。けど、挨拶するぐらいでほとんど話したことはありません」

「以前、町田さんとご主人がトラブルになったことがあるとうかがったんですが?」

「なんですか、それは? 聞いたことがないですけど」

 昌子の眉間にしわが寄る。

 凜が次の質問を考えていると、昌子が大きなため息をついた。

「けど、本当に被害者の方には申し訳ないと思っているんですよ。まだ小さな娘さんがいるらしいですし。だから弁護士と話して、十分な慰謝料を提示させていただきました。相場の数倍の金額をね。それだけあれば、残されたご家族も安心して生活できるでしょうから、主人を責める気持ちもいくらかやわらぐはずです。うまくいけば、主人に寛大な処置をしてくれるように意見書を出してもらえるかも」

「……高額の慰謝料を払うことで、ご主人の罪を軽くしようとなさっているんですか?」

 口調に軽蔑が滲みそうになるのを必死にこらえながら訊ねると、昌子は不思議そうに目をしばたたいた。

「当然じゃないですか。どんな手段を使っても主人を守るのが妻の役目ですから」

「そうですか……」

 早くこの場を立ち去りたいという衝動に、凜は必死に耐える。まだ、観察するべき場所が残っていた。

「申し訳ありませんが、ご主人の書斎を拝見してもよろしいでしょうか」

「二階の書斎ですか? べつにかまいませんけど。それじゃあ、こちらにどうぞ」

 昌子に案内されてリビングをあとにした凜は、勾配の急な階段を上がっていく。

「そこが主人の書斎です」

 二階に着くと、昌子はすぐ右手にある扉を指さした。凜は「失礼します」とノブを回して扉を開く。六畳ほどの空間の中心に高級感のあるデスクが置かれ、四方の壁に沿って、天井まで届きそうな巨大な本棚がそびえ立っていた。

 考古学の専門書が置かれているその本棚には、かなり隙間がある。おそらく、リビングに山積みにされていた資料を抜き取った跡だろう。

 薄暗い部屋に入った凜は、なんとはなしにデスクの表面を撫でてみる。

 ざらりとした感触が走り、指先に埃の膜が張った。

 

「おつらいときにお邪魔して申し訳ございません」

 凜が頭を下げると、町田恵美(えみ)は「……いえ」とか細い声で答えた。

「夫の葬儀も済みましたし、もう三週間も経っているので少しは落ち着きました」

「そうですか。本当にこのたびはご愁傷さまでした」

「ありがとうございます」

 恵美はハンカチで目元を拭う。

 積木家をあとにした凜は、徒歩で三分ほどのところにある町田壮介の家へと向かった。三日前に話を聞きたいと連絡を取った際は、壮介の妻である恵美は気が乗らない様子だった。しかし、なぜ事故が起きたのか解明するためだと説明すると、渋々ながら面談に同意してくれた。

「積木さんの精神鑑定をなさっているとおっしゃっていましたね」

 頷いた凜に、恵美は鋭い視線を向けてくる。

「ということは、積木さんを無罪にしようとしているんですか? 責任能力がないからって」

「いえ、そうではありません。あくまで、当時の積木さんの状態を明らかにすることで、なぜあんな事故が起きたのかを解明しようとしているだけです」

「でも、ニュースなんかでは、積木さんはてんかんを持っていて、発作で意識がなくなって車が暴走したと言っていました。それじゃあ、罪に問えないんじゃないですか?」


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知念実希人(ちねん・みきと)
1978年沖縄県生まれ。東京慈恵医科大学卒業。医師として勤務する傍ら、2011年「レゾン・デートル」で島田荘司選  ばらのまち福山ミステリー文学新人賞を受賞。翌年同作を『誰がための刃  レゾンデートル』と改題しデビュー。『崩れる脳を抱きしめて』『ひとつむぎの手』『ムゲンのi』で3年連続本屋大賞ノミネート。

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