知念実希人『十字架のカルテ』特別書き下ろし短編「震え」


 恵美の眼差しから敵意が消えることはなかった。凜はどこまで説明して良いものか慎重に検討しつつ「これは一般論ですが」と前置きをして話しはじめる。

「例えば脳卒中や心筋梗塞など、本人に予測不可能な疾患により意識を失って事故を起こした場合は、罪に問うことができません。ただ、もともとてんかんの持病があり、発作が起きる可能性を自覚していたにもかかわらず運転をして事故を起こせば、それは罪に問われることになります」

「そうなんですか……」

 こわばっていた恵美の顔に、わずかに安堵の色が差すのを見て、凜は軽い罪悪感をおぼえる。たしかに怠薬によるてんかん発作で事故を起こした場合、その責任を負う必要がある。しかし、一般的な事故に比べれば罪は軽く済むことが多いだろう。もし遺族に十分な補償をしたなら、不起訴になる可能性も否定できなかった。

 そのとき、天井あたりから小さく、みしっという軋みが聞こえてきた。家鳴りだろうと凜は気にしなかったが、恵美はばね仕掛けの人形のように勢いよく立ち上がると、「ちょっと失礼します」と言ってリビングから出ていった。

 言われた通りに待っていると、二分ほどして恵美が戻ってきた。

「娘が暴れているかもと思ったんですが、そんなことありませんでした。部屋を覗いたら眠っていました」

 疲労が色濃く滲む声で言うと、恵美は倒れこむように椅子に腰かけた。

「娘さんは……よく暴れたりしているんですか?」

「……よくというわけじゃありません。ただ、一日に何回かパニックになって大声を上げて物を投げたり、部屋の隅で小さくなって震えたりするんです。それ以外の時間は、ベッドに横たわってぼーっと天井を眺めていることが多いです。私が話しかけてもほとんど返事をしないで……。元々、とっても元気な子だったのに……」

 恵美は片手で目元を覆って俯いた。

「あの、鑑定医としてではなく、精神科医としてアドバイスをしてもよろしいでしょうか?」

「精神科医として?」

 顔を上げた恵美は、涙で潤んだ瞳を向けてくる。

「そうです。娘さんは目の前で愛するお父さんを亡くすという、極めてつらい経験をしました。まだ幼い娘さんの心はその事実を受け入れることができず、現在のような症状を呈しているんだと思います。それを治すためには、専門的な治療を受けることが望ましいと思います」

「治療⁉ 茉里奈は治るんですか⁉」

 掴みかからんばかりの勢いで恵美が訊ねてくる。

「娘さんがぼーっとしているのは、解離と言われる状態だと思います。あまりにも衝撃的な経験をそのまま受け入れては心が壊れてしまうので、『自分』と体を切り離して本能的に身を守っているんです。きっと娘さんは、自分を少し離れた位置から眺めているような感覚になっているんだと思います」

「それじゃあ、ときどきパニックになって暴れるのは」

「それは、PTSDの症状だと思います。事故のときの記憶が突然リアルに蘇るフラッシュバックと呼ばれる現象が起き、それによりパニックになっている可能性が高いです」

「じゃあ、どうすれば茉里奈は治るんですか?」

「少し時間がかかりますが、専門の医師に受診し、しっかりと治療を受けることで症状は改善していくことが多いです。私の知人にそのような症状の専門医がおりますので、もしよろしければ紹介状を書きますが」

「お願いします! ぜひお願いします!」

 身を乗り出した恵美は、テーブル越しに手を伸ばして声を張り上げる。凜の手を包み込む恵美の両手は震えていた。

 なんの前触れもなく夫を亡くし、幼い娘も自らの殻に閉じこもってしまった。恵美としては、突然足元が崩れて空中に投げ出されたかのように感じただろう。そして、事故から三週間経ったいまも、彼女はまだ落下し続けている。

「お任せください。今日中に専門のドクターに連絡を取って、娘さんが受診できるように手配しますので」

 凜が力強く言うと、恵美は倒れこむように再び椅子に腰かけた。出口の見えない漆黒のトンネルに差した一条の光に、張り詰めていた緊張の糸が解けたのだろう。この三週間、恵美がどれだけのストレスを受けてきたかを想像し、胸が痛む。

「大丈夫ですか。もしよろしければ、後日あらためてお話をうかがいますが」

「……いいえ、大丈夫です」恵美は弱々しく首を横に振る。

「事故以来、胸の中に色々な感情が溢れかえってつらかった。誰かに話を聞いて欲しかったんです。けれど、親しい人には心配をかけるから言えない。ずっと耐えているうちに、体が破裂しそうだった。けど、……先生になら言えそうなんです」

「どうぞ、なんでもおっしゃってください」

 凜が促すと、恵美は少し視線を彷徨わせたあと、自虐的な笑みを浮かべた。

「いざ話していいとなると、なにから言えばいいのか分からなくなっちゃいますね。あの、よろしければ先生が訊きたいことに答える形でもいいですか? その方がスムーズに話せそうなんで」

 凜は「分かりました」と頷く。

「それではまず、壮介さんと積木さんの間に以前、トラブルがあったとうかがっていますが、そのことについてご存じですか?」

「……はい、知っています。私も現場におりましたから」

「具体的にはどのようなことが起きたんですか?」

「休日、私と夫は茉里奈を近くの公園へと連れて行きました。その帰り道、積木さんの家の前を通ったんです。そこには、車が停めてありました。珍しい車だったので茉里奈が興味を惹かれて、手にしていた人形をその車のフロント部分に載せたんです。慌ててやめさせようとしたんですが、ちょうどそのとき積木さんが家から出てきて、車に人形が載っているのを見て激高しました」

「え? そんなことで?」

「とても貴重で、大切にしていた車らしくて」

「けど普通のSUVだったんじゃ……」

 事故現場の写真を思い出しながら凜がつぶやくと、恵美は首を振った。

「いえ、SUVではありません。私もあまり詳しくないんですが、アメリカの古い車だということです」

 クラシックカーというわけか。となると、事故を起こしたのとは別の車ということになる。積木家くらい裕福な暮らしをしていると、車を複数台所有していてもおかしくはない。

「そのとき、壮介さんはどのような反応をしましたか」

「積木さんの剣幕に茉里奈が怯えたので、いたずらしたことには謝罪するが、子供に対して怒鳴らないでほしいと反論しました。それが気に障ったらしく、積木さんは夫の胸倉を掴みました。夫もそれに反撃して掴み合いになりました。それ以上エスカレートするとよくないと思って、私が必死に間に入って二人を引き剥がしました」

「それでおさまったんですか?」

「一応は……。夫の手を強引に引いて、娘と一緒にその場を離れましたが、最後まで二人は睨み合ったままでした」

「それ以来、ずっと壮介さんと積木さんはいがみ合っていたと?」

「いえ、そんなことはありません」

 恵美は手を振る。

「さすがにこのままで終わらすのはよくないと思ったので、後日、菓子折りを持って積木さんを訪ねました。冷静になった夫も謝罪したいということでついてきました」

「積木さんの反応は?」

「とても恐縮なさっていました。いくら大切な車にいたずらされたとはいえ、傷がついたわけでもないのに子供に対して大声を上げるなんて本当に恥ずかしい。どうか許して欲しい。何度も頭を下げながら、そうおっしゃいました」

「和解したというわけですね」

 少なくとも表面上は。凜は心の中で付け加える。

 大学教授という社会的地位を持つ積木が、子供のいたずらで近所の住人ともめ続けるのは、さすがに世間体が悪すぎるだろう。内心の怒りを必死に押し殺し、大人の対応をしたという可能性は十分にある。

 しかし、うつ病で精神的に不安定になり、運転中にふと町田壮介が娘と歩いているのを見て、怒りの炎が再び燃え上がった。そして、衝動的にアクセルを踏み込んで二人を轢こうとした。

「あの……、弓削先生、どうかなさいましたか?」

 頭の中で仮説を組み立てていた凜は、恵美に声をかけられて我に返る。

「いえ、なんでもありません」

「あの……、こちらから質問してもよろしいでしょうか?」

 躊躇いがちに恵美が言った。凜は「もちろんです」と頷く。

「もし、私が慰謝料を受け取った場合、積木さんの罪が軽くなるということはあるのでしょうか?」

「え? 慰謝料ですか?」

「……はい。先日、積木さんの弁護士の方から慰謝料の提示がありました。具体的には申せませんが、とても大きな金額でした」

 恵美の顔に、痛みをこらえるかのような表情が浮かんだ。

「夫はまだ若かったので、少額の生命保険しか入っていませんでした。これから夫の収入がなくなりますし、茉里奈があんな状態では、私も当分はフルタイムの仕事はできそうにありません。この家のローンも残っていて、金銭的にはかなり厳しい状態です」

「慰謝料を受け取れば、だいぶ楽になるということですね」

 恵美は硬い表情で頷いた。

「この家のローンもすべて払えますし、当面の生活費や、茉里奈の教育費の心配もしないで済むようになると思います」

 積木昌子が言っていたとおり、相場の何倍もの金額を提示されたようだ。凜は黙って恵美の言葉を聞く。

「素直に受け取った方が利口だというのは分かっています。ただ、そのことで謝罪を受け入れたと判断されて積木さんの……、あの男の罪が軽くなることは耐えられません……」

 テーブルの上で握った恵美の拳がぶるぶると震えはじめる。

「なんの罪もない夫をいきなり奪われたんです。これからずっと続くと思っていた幸せな家族の時間をあの男が破壊したんです。茉里奈はもう、父親との思い出を作ることができないんです。あんなに夫のことが大好きだったのに……」

 恵美の瞳から溢れた涙が、テーブルに染みを作っていく。彼女が落ち着くのを少し待ったあと、凜は口を開いた。

「私は医師なので、法律についての専門的なアドバイスはできません。ですが、あくまで一般論で言えば、被害者のご遺族が慰謝料を受け取っていた場合、裁判などで情状酌量されることは多いです」

「やっぱり! じゃあ、私はどうすればいいんですか⁉ お金は必要だけど、あの男を許したくはないんです。夫の命を奪って、私たちの家庭を、幸せを破壊した罪を償わせたいんです!」

 髪を振り乱しながら叫ぶ恵美の手に、凜は自分の手を重ねる。恵美ははっとした表情で顔を上げた。

「恵美さん、慰謝料のことについては、もう少し落ち着いてから考えてはいかがでしょうか?」

「……落ち着いてから?」

 恵美はたどたどしくその言葉をくり返す。

「そうです。突然、あまりにもつらい出来事があり、生活が一変してしまったことで、恵美さんはとてつもなく強いストレスを受けています。この状態で、慰謝料のことまで考えたら、あなたの心が壊れてしまいます。慰謝料を受け取るかどうかは、すぐに決めなくてもいいはずです。いまはまず、一番大切なことに意識を集中させましょう」

「一番大切なことって……なんですか?」

 恵美は虚ろな目で見つめてくる。

「茉里奈ちゃんですよ」

 凜が言うと、恵美の目が大きくなる。

「壮介さんが命をかけて守った大切な娘さん。彼女が大きな心の傷を負っていることが、あなたにとって最大のストレスになっているはずです。まずは、茉里奈ちゃんを回復させることに意識を集中させましょう。茉里奈ちゃんが元気を取り戻せば、きっと少しは落ち着くと思います。そうやって冷静になった段階で、慰謝料などもろもろのことを少しずつ判断していくのがいいと思います。いかがでしょうか」

 凜が優しく微笑みかけると、焦点を失っていた恵美の双眸に意思の光が戻ってきた。

「……そうですよね。ええ、そうです。私が茉里奈を支えてあげないと、壮介さんに怒られちゃいますもんね」

 恵美は勢いよく目元を拭った。


【好評発売中】

十字架のカルテ

『十字架のカルテ』
知念実希人

▼著者インタビューも掲載中!

chinensan-banar

知念実希人(ちねん・みきと)
1978年沖縄県生まれ。東京慈恵医科大学卒業。医師として勤務する傍ら、2011年「レゾン・デートル」で島田荘司選  ばらのまち福山ミステリー文学新人賞を受賞。翌年同作を『誰がための刃  レゾンデートル』と改題しデビュー。『崩れる脳を抱きしめて』『ひとつむぎの手』『ムゲンのi』で3年連続本屋大賞ノミネート。

真梨幸子『聖女か悪女』
深明寺商店街の事件簿〈四兄弟編〉第1話後編 井上真偽