知念実希人『十字架のカルテ』特別書き下ろし短編「震え」


 4

「よく分かった。ご苦労だった」  

 話を聞き終えた影山が、低い声で言う。  

 週が明けた月曜日の夕方、凜は雑司ヶ谷病院の院長室で、積木家と町田家で集めた情報を影山に報告していた。

「先日の面接で積木さんが言っていたことはほぼ正しかったということだな。彼は教授就任を機にうつ病を発症し、強い抑うつ状態にあった」

「はい、そうです。ただ、てんかんの発作についての情報はなにも聞き出せませんでした。奥さんの知る限り、積木さんが最近、発作を起こしたということはなさそうです」

「ところで弓削君、君は積木さんが故意に被害者を轢いたと思っているのかな?」

 影山が視線を投げかけてくる。授業中、教師に指名された生徒のような心地になり、凜は背筋を伸ばす。

「その可能性は否定できないと思います。被害者の奥さんの話では、積木さんは車にいたずらされた際、かなり感情的になっていたということです。表面上は被害者と和解したとしても、そのときの怒りは消えていなかったのかも」

「だからと言って、諍いから一年も経って急に、幼い子供ごと轢き殺すなどという極端な行動にでるものかな」

 問いかけるような影山の口調。精神鑑定医として正しい判断ができるか試されている。凜の口腔内から急速に水分が奪われていく。

「どれだけ強い怒りを胸に秘めていたとしても、正常な状態ならそのような行動はとらないでしょう。大学教授という社会的地位と、十分な資産、それらを捨ててまで町田さんを殺そうとするなんて、あまりにも割に合いません」

 凜は口の中を舐めて湿らすと「ただし」と続ける。

「事故当時、積木さんは『正常な状態』ではありませんでした。強いストレスによりうつ病を患っていた。抑うつ症状がひどく思考がうまくまとまっていなかったら、まともな損得勘定ができず、唐突に胸に湧いた怒りに身を任せて町田さんを轢こうとしてもおかしくありません」

「事故当時、積木さんはうつ状態で判断力が衰えた状態、つまりは心神耗弱だったということか?」

「はい、その可能性は否定できないと思います。ただ、積木さんが強い抑うつ状態だったと考えると、他の可能性も考えられます」

「他の可能性とは?」

 影山はあごを撫でた。

「影山先生のおっしゃっていた、積木さんが自殺をしようとしていたというものです」

 凜は緊張しながら、この週末必死に考えた説を口にする。影山は無言のまま、視線で先を促した。

「うつ病を患っていた積木さんに希死念慮が生じていたということは十分に考えられます。自殺を考えていた彼が車を運転していると、フロントガラスの向こうに一年前に口論をした町田さんの姿が見えた。自殺を考えながらも踏ん切りがつかずにいた積木さんにとって、町田さんこそが『きっかけ』になった」

「復讐するという名目で自らを奮い立たせ、町田さんもろとも死のうとした。つまり、あの事故は無理心中だったと?」

「それもあり得ると私は考えました」

 頷いた凜は、影山の反応をうかがう。

「影山先生、私の仮説はおかしいでしょうか?」

 影山はすぐには答えることなく、デスクの端に畳まれていたノートパソコンを開いて、凜を手招きした。

 デスクを回り込んだ凜が隣に立つと、影山はマウスを操作する。液晶画面に動画のウィンドウが表示された。

「いま君が述べた二つの仮説は決しておかしなものではない。これまでの情報では、精神鑑定医としてその可能性は十分に検討するべきだ。君は適切な判断をした」

 安堵と喜びをおぼえる凜に向かい、影山は「ただし」と告げた。

「状況が大きく変わった」

「え? どういうことですか?」

 凜がまばたきをすると、影山はマウスをクリックして動画を再生する。

「昨夜、検察から届いた新しい資料だ」

「新しい資料……」

 つぶやきながら凜はディスプレイに視線を注ぐ。映像は大きくぶれていて、なにを映したものか分からない。怒号のような声が聞こえてくる。

 映像のぶれがいくらか収まる。凜は目を剥く。画面にはフロント部分が大きく損傷した黒いSUVが映っていた。

「これって、もしかして……」

「事故直後の映像だ。スマートフォンで撮影していた野次馬が、いまごろになって提出したものらしい」

 はっきりとは見えないが、画面の端にSUVとブロック塀に挟まれた人影がわずかに映っている。それが町田壮介なのだろう。その人物はピクリとも動くことがなかった。

『おい、なにやってんだ! さっさとバックしろよ! 助けられないだろ!』

 通行人らしき男性が、怒鳴りながらサイドウィンドウが砕けているフロントドアを開ける。次の瞬間、画面に映し出された映像を見て、凜の体が震えた。

 エアバッグが作動し、サイドウィンドウの破片が散らばる運転席に積木がいた。見開かれたその瞳は焦点を失って虚空を睨み、食いしばった歯の隙間からは白い泡が溢れている。そして、その全身は電流でも流れているかのように、大きく痙攣していた。

 青筋を立てながらドアを開けた男性も、その迫力に硬直する。それは凜も同じだった。まばたきをすることも忘れ、凜は画面のなかで痙攣を続ける積木を凝視する。やがて、映像が停止した。

「いまの映像をどう見る?」

 影山はノートパソコンを閉じると、立ち尽くしている凜に訊ねる。

「……発作を起こしていました。おそらくはてんかんによる強直間代性痙攣発作です」

 呆然と立ち尽くしたまま、凜は声を絞り出した。

「演技の可能性は?」

 影山が質問を重ねる。

「演技では……ないと思います。特徴的な四肢の動き、首の筋が浮き上がるほど力を込めて食いしばった歯、口から零れた泡、演技でそこまでリアルに再現するのは困難だと思います」

「私も同意見だ」

 影山はノートパソコンをデスクの隅に移動させた。

「それじゃあ、今回の事故が怠薬によるてんかん発作によって起こされたのは間違いないんですか。町田さんが被害に遭ったのはたんなる偶然だったんですか?」

「いまの映像を合わせ、これまで集まった情報から総合的に考えると、そう考えるのが妥当だろうな」

「そう……ですか」

 憔悴した町田恵美の姿を思い出し、凜は肩を落とす。故意に積木が事故を起こしたと証明したところで被害者が生き返るわけではない。しかし、ただ運が悪かっただけで命を落としたのだとしたら、遺族はその怒りを誰に向ければいいというのだろう。

「それじゃあ、積木さんが重い罰を受けることはないんですね。ただ、発作が起きる可能性があるにもかかわらず、怠薬して車を運転したという道義的責任を負うだけなんですね」

 沈んだ声でつぶやくと、影山はあごを撫でた。

「怠薬による痙攣発作によって事故が起きたことは間違いないだろう。ただ、君の報告を聞いて少し気になることがあった」

「気になること? なんですか?」

 凜が訊ねたとき、デスクに置かれた内線電話が着信音をたてた。影山が受話器を取る。

「はい、影山」

 通話をはじめると、普段はほとんど感情が浮かぶことのない影山の顔に、明らかな驚きが走った。

 叩きつけるように受話器を置いた影山は、白衣を纏うこともせずに立ち上がって出入り口に向かう。

「どうしたんですか、影山先生⁉」

 戸惑った凜が訊ねると、扉を開いた影山は振り返ることもせずに答えた。

「積木さんが自殺を図った。君も来なさい」

 院長室をあとにした凜と影山は非常階段を駆け下り、入院病棟がある二階へと到着する。閉鎖病棟の廊下を駆け抜け、その奥にある扉を開いて隔離スペースへと入る。短い廊下の右側に等間隔に並んだ隔離病室の、一番奥の扉が開いていた。

 凜と影山はその中に飛び込む。一人の医師と、三人の看護師が室内にいた。

「どんな状態だ?」

 軽く息を乱しながら影山が訊ねると、床に膝をついていた若い精神科医が振り返った。

「大丈夫です。意識は失っていますけど、バイタルは安定しています。命に別状はありません」

 大きく安堵の息を吐きながら、凜は医師の向こう側に横たわっている積木を見る。その上半身は裸で、わきには捩った入院着が放置されていた。

「首に上着を巻きつけて、裾を両手で持って思い切り両側に引っ張ったみたいです。脳への血流が遮断されて失神したけど、その拍子に力が抜けたから大事にはいたらなかったようですね。看護師もすぐに気づいて駆けつけましたし」

 主に精神症状が強い患者を収容する隔離病室は、自殺防止のために二十四時間体制で監視されている。また、首を吊れないように、ほとんど突起のない作りになっていた。

 目を凝らした凜は、積木の首に赤い痣が浮き出ていることに気づく。それはまるで、太い首輪を巻いているかのようだった。


【好評発売中】

十字架のカルテ

『十字架のカルテ』
知念実希人

▼著者インタビューも掲載中!

chinensan-banar

知念実希人(ちねん・みきと)
1978年沖縄県生まれ。東京慈恵医科大学卒業。医師として勤務する傍ら、2011年「レゾン・デートル」で島田荘司選  ばらのまち福山ミステリー文学新人賞を受賞。翌年同作を『誰がための刃  レゾンデートル』と改題しデビュー。『崩れる脳を抱きしめて』『ひとつむぎの手』『ムゲンのi』で3年連続本屋大賞ノミネート。

真梨幸子『聖女か悪女』
深明寺商店街の事件簿〈四兄弟編〉第1話後編 井上真偽