知念実希人『十字架のカルテ』特別書き下ろし短編「震え」


 5

「どういうことなんですか!」

 狭い部屋に怒声が響きわたる。こちらを睨みつける積木昌子の迫力に、凜は思わず首をすくめた。

「いまご説明した通りです。ご主人はさきほど、上着を使って自らの首を絞めて自殺を図りました。しかし、すぐに発見されたので命に別状はありません」

 刃物のように鋭い昌子の視線を一身に浴びながら、影山はいつも通りの冷静な口調で説明する。

 積木が自殺を図ってから約二時間後、影山と凜は呼び出した昌子とともに外来診察室にいた。すでに時刻は午後八時を回っている。診療時間を終えた外来には凜たち以外に人気(ひとけ)はなかった。

 積木の自殺未遂について影山が説明すると昌子の顔から血の気が引き、その後すぐに、今度は真っ赤に変色した。

「どう責任を取るつもりなの!」

 昌子は椅子から腰を浮かすと、影山の鼻先に指を突きつける。

「責任と申しますと?」

 影山が冷静に聞き返すと、昌子の頬が引きつった。

「主人が自殺をしようとした責任に決まっているでしょ」

「我々はご主人の様子を二十四時間体制で観察していました。また、ご主人がいる病室も自殺を防ぐ造りになっています。そのおかげで、すぐに治療を施すことができ、ご主人は一切の後遺症なく意識を回復することができました。私たちの対応に問題があったとは思っていません」

 はっきりとした口調で影山は言う。昌子は歯茎が見えるほど、大きく唇を歪めた。

「担当患者が自殺しようとしたのよ。主治医としては大きな問題でしょうが!」

「誤解なさらないでください」

 影山はすっと目を細める。

「私は鑑定医であって、ご主人の主治医では決してありません。私の仕事は、三週間前に痛ましい事故が起きたとき、ご主人の心と体がどのような状態だったのか、それが事故にどう影響を及ぼしたのか、それを鑑定することです」

「で、でも……。精神科医ならしっかり治療するのが当然なんじゃ……」

 影山の迫力に圧倒された昌子は、しどろもどろにつぶやく。

「いえ、正確な鑑定をするために、あえて治療しないこともあり得ます。ご主人の場合は、事故以前のうつ病の症状がどうだったのか、そして事故の影響で精神状態がどう変化したのかを確認するため、あえて事故前から飲んでいた軽い抗うつ薬だけで経過を観察しています」

「じゃあ、もっとしっかり治療していたら、主人は自殺しようとなんてしなかったの⁉」

 拳を握り込む昌子に向かって、影山が「その可能性もあります」とあごを引いた。

「それでも医者なの! 医者なら患者を治すのが仕事なんじゃない!」

 ヒステリックな怒声が診察室に響き渡る。

「たしかに、医師の最も基本的な仕事は患者のことを第一に考え、その方が患っている疾患を治療することで苦痛から解放することです。しかし、精神鑑定医の役割はその基本とは大きく異なっています。私は積木義久さんの苦痛をとるために鑑定をしているわけではありません」

「じゃあ、誰のために鑑定しているって言うのよ!」

「しいて言うなら、今回の事故で被害に遭って命を落とした被害者、そして遺されたご家族のためです」

 迷いない口調で発せられた答えに、昌子の表情がこわばった。

「なぜ、あんな事故が起きたのか、なぜ被害者は命を落とさねばならなかったのか、それを可能な限り正確に解明する。それにより、被疑者が適切な処分を受けるようにし、そして遺族の苦しみを少しでも癒す手伝いをする。それがこの件における私の役目だと思っています」

 影山は昌子に鋭い視線を注ぐ。昌子は逃げるように目を伏せた。

「で、でも、鑑定している人に自殺されたら、それはあなた方の落ち度なんじゃないですか」

「その通りです。もし被疑者に命を絶たれたら、精神鑑定医としては最大の失敗です。ですから、そのようなことが起きないように自殺が困難な部屋で過ごしていただき、さらに二十四時間体制で監視をしているのです。そのおかげで、今回も大事にいたらずにすみました」

「でも……」

 さらに抗議をしようとする昌子を、影山は手を突き出して制する。

「ただ、今回のことを受けてご主人には効果の強い抗うつ薬を投与し、精神状態を落ち着けていただくつもりです。今後は、うつ病で入院されている他の患者さんと同様の治療を行いましょう」

「……そうしていただけると助かります」

 ふて腐れたように昌子が言う、影山は鼻の頭を撫でた。

「さて、せっかくいらっしゃっていただいたので、よろしければいくつか質問してもよろしいでしょうか」

「質問? でも、それならそっちの先生が……」

 昌子は凜を指さす。

「弓削先生から報告を受け、気になった点があったので、あらためて私の方からお話をうかがえればと思っています」

「今日はそんなことをしに来たわけじゃないんですけど……」

「ご主人の精神鑑定をスムーズに行うためです。ご協力いただけないでしょうか。早く精神鑑定を終えることができれば、それだけ早くご主人に対する処分が決まります」

「それは、主人が早く不起訴になって、解放されるということですか?」

 影山の言葉に、昌子が食いついた。夫が不起訴になることを疑っていないその態度に、凜は口を固く結ぶ。

「どのような処分を下すのかは、検察と裁判所が決定することです。ただ、結果が出るまでの期間を短縮できることは間違いありません」

「分かりました。で、なにが訊きたいんですか?」

「まずは、車についてです」

 影山は言うと、昌子は「車?」と眉根を寄せた。

「はい、そうです。ご主人はもともとクラシックカーを所有していたと聞いています」

「ええ、持っています。いまも車庫に保管していますよ。六〇年代のアメリカの車らしいです。主人はクラシックカーマニアなので、いつも大切に洗車したりワックスをかけたりしていました。考古学以外では、唯一の主人の趣味ですね」

「その車に乗ることはあったんですか? それとも、家に飾っておくだけのものだったんですか?」

「もちろん乗っていましたよ」

 昌子は肩をすくめる。

「通勤をはじめ、どこに行くにもあの車を使っていました。主人の体の一部みたいなものでした」

「しかし、事故が起きたときに乗っていたのは新型のSUVでしたよね」

「ええ、そうです。二ヶ月ほど前に買ったんです」

「それはなぜでしょう? もともと乗っていたクラシックカーが故障でもしたんですか?」

「いえいえ、そうじゃないんですよ。私のためなんです」

 昌子はぱたぱたと手を振った。影山は「奥さんのため?」と聞き返す。

「ええ、そうです。やっぱり昔の車ってなんだかんだ言って、安全性が低いじゃないですか。自分だけが乗るならそれでもいいけど、私を送り迎えするなら安全な車を使いたいって主人が言ったんです。だから、新車を買いました」

 そんなに簡単に新車が買えるのか。積木家の経済力に驚きつつ、凜はこの情報をどう解釈するべきなのか頭を働かせる。

 妻の安全を考え、新車に乗り換えるというのは理解できなくはない。しかし、うつ病で苦しんでいるものがわざわざ乗り慣れた車を換えようとするだろうか。

 それだけ奥さんのことを大切に思っていたってこと?

 思考を走らせながら昌子を見る。これまでの話を聞いていると、積木夫婦の絆は極めて強いようだ。少なくともうつ病が発症してからは、夫は妻に頼り切り、できるだけ彼女のそばにいようとしている。妻の方も、夫に頼られることに悦びをおぼえ、献身的に尽くしているように見える。

 一見すると理想的な関係。しかし凜にはそれがどこか歪に感じられた。手を取り合っているというより、お互いが自らの存在意義を相手に委ねているように見える。専門用語で『共依存』と呼ばれる関係に、夫婦は陥っているのではないだろうか。

「なるほど。安全のために、ですか」

 影山はひとりごつと、腕を組んで黙り込む。数十秒後、沈黙に耐えきれなくなったのか、昌子が口を開いた。

「車のことなんてどうでもいいじゃないですか。それより、いつになったら主人に会わせてくれるんですか?」

「ご主人に会うことはできません」

 腕を解いた影山が答えると、昌子は「はぁ⁉」と椅子から腰を上げた。

「本日、奥さんをお呼びしたのはご主人の状況をお伝えするためです。面会は許可できません」

「なに馬鹿なことを言っているんですか!」

 昌子は力まかせにテーブルに拳を叩き下ろした。重い音が響き、凜は思わず身を硬くする。

「馬鹿なことではありません。精神鑑定中の被疑者に、ご家族が会うことはできません。それが規則です」

「主人は自殺しようとしたんですよ! いま私と会って話をしないと、あの人は今度こそ死んでしまうかもしれないじゃないですか。そんなことになったら、あなたはどう責任をとるつもりなんですか! 主人は積木家の宝なんです! あの人にはもっと上に行ってもらわないといけないんです」

 額に青筋を立てながらまくし立てる昌子を、凜は呆然と眺める。その姿は、愛する夫を心配する妻というよりも、自分の玩具を取り戻そうとしている幼児のようだった。

 凜は横目で影山に視線を送る。彼は普段通り、仮面を被っているかのような無表情で昌子を見つめていた。

「なんとか言ったらどうなの! ああ、まったく。あなたたちのせいで血圧が上がるじゃない。手術までくれぐれも血圧には気をつけるように主治医に言われているのに」

 昌子はがりがりと乱暴に頭を掻く。

「手術?」

 凜がつぶやくと、昌子はじろりと睨んできた。

「そうよ。三ヶ月前の人間ドックで見つかって、本当なら二週間前に手術を受けるはずだったの。今回の事故のことで延期したけどね。それよりあんたたち、本当に主人に会わせないつもりなの?」

「ご主人に会ってどうするおつもりですか?」

「もちろん、励ますに決まっているじゃないですか。自殺なんかしたら、これまでの苦労が全て水の泡になる。私がなんとか不起訴にするから、もう事故のことなんて忘れてまた頑張ってもらわないと」

「頑張ってもらう……」

 影山はすっと目を細めた。

「奥さん、さっき『あの人にはもっと上に行ってもらないと』とおっしゃっていましたね。それはどういう意味ですか?」

「そのままの意味ですよ。主人は教授になりましたけど、所詮は新興の私立大学にすぎません。あの人にはもっと研究を重ねて、国立大学の、いえ日本の最高峰、帝都大学の教授になってもらわないといけないんです」

「なってもらわないといけないとは?」

「積木家の悲願だからです。父は一代で積木建設を立ち上げ、大会社に成長させましたが、財界では学歴がないことでずっと軽んじられてきました。だからこそ、主人と私を見合いさせたんです」

 一代で成り上がった富豪が、学歴コンプレックスを解消するために優秀な学者を娘婿にしたというわけか。前時代的な話に、凜は唇を歪める。

「ご主人を帝都大の教授にするために、あなたはずっとサポートしてきたというわけですね」

「そうです。主人の研究に対して、うちの会社を通じて大金を援助してきました。それに家でもいつも主人をサポートしてきました」

「サポートというと、具体的にはどのように」

 影山が訊ねると、昌子は得意げに鼻を鳴らした。

「あなたは帝都大の教授になるために生まれてきた。だから頑張ってといつも発破をかけていました。研究を認められるためには、いろいろな人脈を作らなくてはいけないので、主人のために政治家などを呼んでパーティーも開きました。先日の教授選の際には、投票権をもつ他学部の教授たちへ、私が手配して挨拶に行ってよろしく頼み込みました」

 この人なら菓子折りに現金ぐらい忍びこませそうだな。呆れながら凜は昌子の話に耳を傾ける。

「すべては主人のためです。私の苦労に報いるためにも、主人は必死に頑張ってくれています。その努力をこんなくだらない事故でダメにするわけにはいかないの」

「くだらない事故って……」

 声を荒らげそうになった凜の前に、影山が素早く手を差し出した。凜が唇を噛んで黙り込むと、影山は静かな声で言った。

「積木昌子さん、最後に一つだけ教えていただきたいことがあります」


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知念実希人

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知念実希人(ちねん・みきと)
1978年沖縄県生まれ。東京慈恵医科大学卒業。医師として勤務する傍ら、2011年「レゾン・デートル」で島田荘司選  ばらのまち福山ミステリー文学新人賞を受賞。翌年同作を『誰がための刃  レゾンデートル』と改題しデビュー。『崩れる脳を抱きしめて』『ひとつむぎの手』『ムゲンのi』で3年連続本屋大賞ノミネート。

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