知念実希人『十字架のカルテ』特別書き下ろし短編「震え」


 6

 積木義久の自殺未遂から十日ほど経った平日の昼下がり、凜は影山とともに面接室にいた。テーブルを挟んで向こう側に置かれた椅子には、まだ誰も座っていない。これから、看護師が積木を連れてくることになっていた。

 影山が抗うつ薬を追加したこともあって、積木の精神状態はこの一週間ほどでだいぶ改善されたということだった。先週の月曜以来、自殺を図るようなそぶりは見せていないらしい。

 積木の症状が落ち着いたのを見計らって、影山は今日、再び面接をすることに決めた。しかし、影山がこれから積木とどのような話をするつもりなのか、凜には見当もつかなかった。

「あの、影山先生……」

 隣の席で目を閉じている影山に、凜はおずおずと声をかける。影山の瞼がゆっくりと上がった。

「なんだ?」

「今日はなんのために面接をするのでしょうか?」

「なぜ事故が起きたのか、そのとき積木さんがどのような状態だったのかを解明するためだ」

「てんかん発作で意識消失したことが原因で、事故が起きたわけじゃないとおっしゃるんですか?」

「君はどう思っている」

 横目で視線を送ってきながら、影山が質問を返してくる。背筋を伸ばした凜は、先週見せてもらった事故後の動画を思い起こした。

「事故のとき、積木さんは発作を起こしていたはずです。痙攣により全身が硬直した結果、アクセルを思い切り踏み込んでしまい、猛スピードで車が被害者に突っ込んだのだと思います」

 運転席で全身を激しく痙攣させ、口から泡を吹いていた積木の姿が脳裏に蘇る。

「怠薬が原因でてんかん発作が生じ、それによって事故が起きた。それに対する罪悪感で積木さんは自殺を図った。今回の件がそんな単純なものだと?」

 影山から鋭い視線を投げかけられた凜は、「それは……」と言葉に詰まる。

 違うというのだろうか? 事故の際、積木が発作を起こしていたのは間違いないだろうし、あの自殺未遂だって本当に死ぬ気だったはずだ。そうでなければ、頸部にあれほどくっきりと皮下出血が認められるわけがない。

「精神鑑定では事件という『点』に注目するのではなく、そこにいたるまでの『線』を俯瞰的に眺めることが大切だ。それをおぼえていなさい」

 言葉の意味が分からず凜が首を傾げたとき、出入り口の扉が開き男性看護師が積木を連れて室内に入ってきた。看護師に促されて席に着いた積木を、凜は観察する。先週の面接の際と同じように覇気のない表情だが、ほとんど感情が浮かんでいなかった虚ろな瞳に、いくらか光が戻っているように見えた。おそらくは、追加した抗うつ薬の効果だろう。

「ご体調はいかがですか、積木さん」

 看護師が部屋から出るのを見計らって、影山が声をかける。

「はい、だいぶ楽になりました。影山先生のおかげです」

 テーブルを挟んで対面の席に腰掛けた積木は力ない声で言った。

「それは良かった。いまは、死にたいと思うことはありませんか」

「……いえ」

 積木は弱々しく首を横に振る。

「まだ、死んだ方がいいんじゃないかと思うときはあります。発作で意識がなかったとはいえ、人の命を奪ってしまった私に生きている権利なんかないんじゃないかと。ただ、先週のように一刻も早く死んで責任を取りたいというような焦燥感はありません」

「死ぬことは責任を取ることにはなりません。加害者であるあなたが死ねば、遺族が事故の真相を知ることはできなくなり、さらに苦しむことになります」

 影山が淡々と告げると、積木は唇を噛んだ。

「それでは、私はどうやって責任をとればいいって言うんですか? 私のせいで、まだ幼い女の子が、父親を喪ったんですよ!」

「責任の取り方についてはあとで話し合うとして、まずは精神鑑定のためのお話をさせてください」

「精神鑑定のための? いまさらなんの話をする必要があるんですか? たしか、事故後の私の様子を撮影した動画が見つかったんですよね。それなら、発作が原因で事故が起きたことは明らかでしょ」

 不満げに言う積木を、影山はまっすぐに見つめる。積木の顔に緊張が走った。

「事故当時のあなたの状態に対して、可能な限り正確で詳細な情報を検察に提供するのが私の使命です。どうかご協力ください」

 言葉面こそ慇懃(いんぎん)だが、影山の口調は拒むことを許さない厳しさを帯びていた。積木はおずおずと頷く。

「それでは、まずはうつ病についてうかがいましょう。うつ病は主に、強いストレスによって引き起こされます。あなたにとって、なにがそれほどのストレスになっていたのでしょうか?」

「それは……」

 躊躇いがちに積木は話しはじめる。

「教授になったことだと思います。もちろん、それ自体は嬉しかったのですが、講座の代表になって研究を進め、さらに学生も指導しなければならないのはかなりの負担でした」

「本当にそれが一番の原因でしょうか?」

「どういう意味ですか?」

 積木の眉根が寄った。

「あなたが自殺未遂をした日、奥さんを呼んで状況を説明しました。その際、奥さんから色々と話を聞くことができました。積木家の名誉のために、国立大学の教授になることをあなたに期待していること。そのために、あなたに強いプレッシャーをかけ続けていることを」

「……妻が夫を応援してくれるのは当然じゃないですか」

「そうかもしれません。けれど、その応援にこたえなくてはという義務感は強いストレスになり得ます。あなたにとって、奥さんからのプレッシャーは大きな負担だったのではないですか?」

「おかしなことを言わないでください。妻は私をずっと支えてくれたんです」

 積木は大きくかぶりを振った。

「たしかに奥さんはあなたを支えているつもりだったんでしょう。けれど、うつ病を患っている方に対して、頑張れと励まし、強引に前を向かせようとするのは逆効果です。ただでさえ落ち込んでいる精神状態をさらに追い込み、病状を悪化させます。うつ病に苦しんでいるあなたにとって、尻を叩いてくる奥さんの存在は耐えがたいものだったのではないですか? それどころか、うつ病を発症した直接の原因も、奥さんからのストレスだったのではないですか?」

 抑揚のない影山の口調が、じわじわと積木を追い詰めていく。

「適当なことを言わないでください!」

 蒼白かった積木の顔が紅潮した。

「妻は私にとって何よりの支えでした。私が研究に打ち込めたのも彼女がいたからです。私にとって自分の研究の時間と、彼女と一緒にいる時間だけが心穏やかに過ごすことができたんです。特にこの病気になってからは」

「なるほど。だからこそ、奥さんの送り迎えをして少しでも一緒にいる時間を作るようにしたんですね」

「そうですよ」

 積木は苛立たしげに答えた。

「奥さんの送り迎えをはじめるにあたり、安全性を考えて車を新しくしたと聞きましたが、それは本当ですか」

「本当です。いまの私には妻しかいませんから。彼女の安全のためには安いものです」

「クラシックカーではエアバッグもついていませんからね。もし以前の車で事故を起こしていたら、あなたも脳震盪ぐらいでは済まなかったかもしれない」

「……なにが言いたいんです?」

 積木の声に警戒の色が滲む。

「いえ、気になさらないでください。さて、奥さんの送り迎えの話を聞いたとき、一つひっかかることがありました。あなたは前回の面接の際、片道約一時間、奥さんとお話をされながら運転をしていたと説明なさいましたね」

「そうですけど」

「一方で、あなたは勤めている大学まで片道三十分で着くとおっしゃった」

 積木の顔に動揺が走る。影山は指先で軽くデスクを叩いた。

「積木建設がある八丁堀と、東葉大学がある平和島。あなたが住んでいる三軒茶屋からの距離は大差ありません。いえ、どちらかというと平和島の方が遠いくらいだ。それにもかかわらず、八丁堀に行く方が倍の時間がかかっている。これはなぜですか?」

 積木は口を固く結んで答えない。

 同じ程度の距離なのに、倍の時間がかかる……。そこまで考えた凜は、はっと顔を上げた。

「もしかして、高速道路ですか?」

「その通りだ」

 影山はゆっくりと頷いた。

「三軒茶屋出入り口から首都高にのって、平和島出入り口で降りれば三十分ほどで東葉大学に着くことができる。同様に首都高を使って京橋出入り口で降りれば、八丁堀にある積木建設まではさらに早く到着することも可能だ」

「じゃあ、奥さんの送り迎えでは高速道路を使わなかったってことですか。どうして……?」

「それを積木さんに説明していただきたいんだ」

 影山は口角をわずかに上げると、促すように積木を見る。

「……首都高は荒い運転をするドライバーも多いので、事故が起こりやすい。妻の安全を考えて、一般道で行くことにしたんです。その方が、妻との時間も取れますし」

「なるほど、奥さんの安全と、ともに過ごす時間のためですか。たしかにこれまでの疑問点に対しては、それで説明がつきます。ただ、最後にもう一つだけ気になることがあります」

「なんですか、もったいつけないでください」

 積木は声を荒らげる。

「あなたが書斎ではなく、リビングや寝室で仕事をするようになったことです」

「なにがおかしいっていうんですか? 仕事中も妻の近くにいたいと思っただけです」

「それなら、なぜ食事のあとリビングで過ごさず、寝室に籠っていたのですか?」

「……彼女はテレビでドラマを見るので集中できなかっただけです」

 先日、昌子から聞いたのと同じ内容だ。凜にはその回答が筋が通っているように感じられた。影山はいったいなにが気になるというのだろう。

「ではなぜ、寝室だったのですか?」

「え? なんですか?」

 積木が聞き返すと、影山は再び指でデスクを叩いた。コンッという軽い音が面接室に響く。

「なぜ、机もない寝室で資料を読んでいたのか、うかがっているんです。高級なデスクと無数の資料が詰まった本棚、まさに研究をするために最高の環境である書斎ではなく」

 積木の顔がこわばっていく。あごを引いた彼は、押し殺すような声で答えた。

「寝室の方が、妻との距離が近かったからですよ。同じ空間でなくても、できるだけ妻と近い場所にいたい。そう思っただけです」

「なるほど、これも奥さんとの時間のためですか。やや強引ではありますが、百歩譲って納得しましょう。では、奥さんが仕事に出ている日中についてはどうですか?」

「日中……」

 積木は硬い表情でその言葉をくり返す。


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知念実希人

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知念実希人(ちねん・みきと)
1978年沖縄県生まれ。東京慈恵医科大学卒業。医師として勤務する傍ら、2011年「レゾン・デートル」で島田荘司選  ばらのまち福山ミステリー文学新人賞を受賞。翌年同作を『誰がための刃  レゾンデートル』と改題しデビュー。『崩れる脳を抱きしめて』『ひとつむぎの手』『ムゲンのi』で3年連続本屋大賞ノミネート。

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