知念実希人『十字架のカルテ』特別書き下ろし短編「震え」


「そうです。奥さんを会社まで送り、帰宅したあと、あなたはどのように過ごしていましたか?」

「それは……、研究用の資料を読んだり、論文をまとめたり……」

「どこでですか?」

 間髪容れずに影山が訊ねる。積木は一瞬答えに詰まった。

「それは、書斎とかリビングとか色々な場所で……」

「先日、あなたの家にうかがった弓削君の話では、書斎のデスクには埃が厚く溜まっていたそうです。まるで長期間使っていなかったかのように」

 影山の指摘に、積木は唇を噛んで黙り込んだ。

「あなたはこの約二ヶ月、奥さんが不在のときも決して書斎には入らなかったのではないですか? だとしたら、書斎以外の場所で仕事をするようになった理由は、奥さんとの時間を大切にしたいからではなくなる」

「さっきから、あなたはなにが言いたいんだ⁉ まどろっこしいことはやめてくれ!」

 積木は乱暴に手を振る。

「では言いましょう。二ヶ月前からあなたが取った不可解な行動、それは奥さんとの時間を大切にするためでなく、全て一つの理由で説明ができるんです」

「……一つの理由ってなんですか?」

「『安全』ですよ」

「安全……」

 凜は首を傾げた。

「あの、新車を買うのと高速道路を使わないのが安全のためというのは分かるんですけど、書斎に行かないのが『安全』になるんですか?」

「弓削君、積木さんの家の書斎はどこにあった?」

「え、どこって、二階ですけどそれが……」

 そこまで言ったところで、凜は大きく目を見開いた。

「もしかして、階段ですか⁉」

「そうだ」影山は首を縦に振る。「書斎に行くためには階段を使わなくてはいけない。積木さんはそれを避けたかった」

 たしかに積木家の階段はかなり急だった。あそこから転落すれば、大怪我をする可能性が高い。けれど……。

「けれど、そうだとすると積木さんは……」

 凜がかすれ声を上げると、影山はわずかにあごを引いた。

「そう、積木さんは知っていたんだ。いつ自分がてんかん発作を起こしてもおかしくないことを」

 炎に炙られた蝋のように、積木の表情がぐにゃりと歪んだ。

「発作が起きるかもしれないと分かっていた……?」

 凜が呆然とつぶやく。

「そう考えれば、書斎に決して行かなくなったのも、新車に乗り換えたのも、高速道路を避けたのも説明がつく。すべては自分の身を守るための行為だ」

「いえ、それはおかしいんじゃないですか」

 影山のセリフに被せるように凜は反論する。

「もし、てんかん発作が起きることが分かっていたなら、そもそも車に乗るわけがないですよ。新車だろうが、高速道路を走らないようにしようが、運転中に発作が起きれば大事故になる。それ以前に、怠薬によって発作が誘発されることを理解していたら、薬を止めたりしないはずです」

「弓削君、君の疑問はもっともだ。それに答えるためには、前に言ったように、この件を俯瞰的に眺める必要がある。まずは、事故前の積木さんの状況を考えてみるんだ」

「積木さんの……」

 凜はデスクの向こう側に座る積木に視線を向ける。彼は細かく震えながら、口を真一文字に結んでいた。

「半年ほど前から積木さんはうつ病を発症していた。ご本人がおっしゃるように、大学教授に就任して環境が変わったのも一因だろうが、最も大きなストレス源は奥さんからのプレッシャーであったことは想像に難くない」

 俯いた積木は無反応だった。影山はかまわず説明を続ける。

「うつ病により苦しんでいた積木さんに対し、奥さんは励まし、急かし、ときには叱りつけた。本人は良かれと思っての行動だったのだろうが、それらの行為はうつ病患者に対しては禁忌だ。患者を追い詰め、逃げ場をなくし、病状を急速に悪化させる。このままでは近いうちに自分の心は壊れてしまうと積木さんは気づいた。さて、弓削君。君が積木さんの立場なら、その後どうする?」

 唐突に水を向けられた凜は、「え?」と戸惑いの声をあげると、頭の中で必死にシミュレーションを走らせる。

「私なら……離婚すると思います」

「そう、それが適切な対応だ。ストレス源から距離を取るのがうつ病の基本だからな。しかし、積木さんにはそれができなかった」

「できなかったって、どうして?」

「積木さんにとって考古学は人生そのものだった。その分野で教授となるまでの実績を上げられたのは、積木建設の、つまりは奥さんの厚いサポートがあったからだ。考古学には金がかかるからね」

 影山は小さく肩をすくめた。

「もし離婚を切り出せば、積木建設からの資金は完全にストップする。考古学者として、今後十分に研究することはかなわないだろう。そもそも、簡単に離婚がまとまるとも限らない。下手をすれば裁判になるだろう。奥さんは資金力に任せて優秀な弁護士を雇い、無一文で積木さんを追い出そうとするかもしれない。うつ病を患っている積木さんに、奥さんと正面切って戦うほどの余力は残されていなかった。そうして袋小路に追い詰められていた積木さんは、一つの計画を思いつく」

「それが、抗てんかん薬の内服を止めて、いつ発作が起きるか分からない状態で運転して、奥さんを送り迎えすることですか」

「その通りだ」

 影山は大きく頷いた。

「つまり、積木さんは奥さんと一緒に事故で死のうとしていたということですか? 一種の無理心中だったと?」

「たしかに、うつ病による希死念慮により、自分が死んでもいいとも思っていたかもしれない。しかし、たんなる無理心中だとしたら、新車を買い、高速道路を使わないようした理由が説明できない」

 いつ意識消失してもおかしくない状況で運転をするという危険極まりない行為をしながら、事故が起きたときの安全に気を配る。その矛盾に混乱した凜は、額に手を当てる。

「これらの状況から導き出せる解は一つ。積木さんはできるだけ自らの安全を確保しつつ、事故を起こしたかったんだ」

「安全に事故を? なんでそんなことを?」

 頭痛をおぼえる凜が問うと、影山はゆっくりと首を横に振った。

「ちがう、積木さんが確保したかったのはあくまで『自分の安全』だけだ。『同乗者の安全』については考えていなかった」

「同乗者って、もしかして……」

 影山の言葉の意味を理解した凜は唖然とする。

「そう、奥さんだ。てんかん発作によって事故を起こし、助手席の奥さんだけが死亡する。それが積木さんの計画だったんだ。そうですよね?」

 影山は積木に問いかける。しかし、積木は口をつぐんだまま、濁った双眸で影山を見つめるだけだった。影山は気にするそぶりを見せず、説明を再開する。

「事故により奥さんだけが命を落とせば、遺産は配偶者である積木さんのものになる。てんかん発作による事故だったら、重い責任を追及される可能性は低いし、ましてや計画された殺人だと気づかれるわけもない。最大のストレス源である奥さんを排除し、今後研究をするための十分な資金を手に入れることができる。まさに一石二鳥だ」

「けれど、計画はうまくいかなかった……」

 凜が震える声でつぶやくと、影山は小さくため息をついた。

「そうだ。ターゲットである奥さんが乗っているときでなく、彼女を会社に送り届けて帰宅する際、自宅近くで発作が起きて車が暴走した。そして、不幸にも一人の男性が命を落としたんだ」

 言葉を切った影山は、膝に置いた拳を握りしめている積木を見つめる。

「普通の状態なら当然、自らの計画に他人が巻き込まれてしまうかもしれないと考えるはずだ。けれど、うつ病で視野が狭くなっていたあなたは、その可能性に気づいていなかったのではないですか? だからこそ、関係のない被害者の命を奪ってしまったことを強く後悔し、自らの命を絶とうとした。違いますか?」

 影山が再び声をかけると、この数分間ずっと俯いて黙り込んでいた積木が、ゆっくりと顔を上げた。血の気が引いた唇がゆっくりと開いていく。

「ふざけたことを言わないでください。わざと事故を起こして妻を殺すなんて、どう考えても成功するわけがない。妻が死ぬほどの事故に遭えば、当然私も命を落とす可能性が高い。いくらうつ病で頭が回らなくなっていたとしたって、そんな分の悪い賭けをするわけがないでしょう」

 積木は両手を大きく広げる。その様子はどこまでも芝居じみ、その声には感情がこもっていなかった。精巧に作られたロボットを見ているかのような錯覚に、凜はとらわれる。

「いえ、分の悪い賭けなどではありません。あなたには十分な勝算があった」

「……なんのことですか?」

 どこまでも空っぽな声で積木は聞き返した。

「奥さんの疾患のことですよ。奥さんは先日の人間ドックで異状が発見され、まもなく手術をする予定だった。そして、それまでは血圧を上げないように強く指示されていた。そのような疾患は一つしかありません」

 影山は顔の前で人差し指を立てる。

「脳動脈瘤です」

 積木の口から、小さなうめき声が零れた。

「先週、奥さんに直接うかがって、脳動脈瘤で手術予定であることは確認しています。脳動脈瘤は特に症状がないことが多いですが、ある程度の大きさになると破裂してくも膜下出血を引き起こすリスクが高くなる。そして、破裂の危険性を高めるのが高血圧、そして……頭部への衝撃です」

 平板な声で話していた影山の声が、わずかに低くなった。

「たとえ、エアバッグが付いている最新の車でも事故を起こせば頭部に強い衝撃を受ける場合が多い。あなたが脳震盪を起こしたように。てんかん発作によって事故を起こし、脳動脈瘤という爆弾を抱えた奥さんの頭部にエアバッグで衝撃を与えてくも膜下出血により死亡させる。それこそがあなたの計画だった。そうですね」

 影山に水を向けられた積木は、十数秒絶句したあと、かすれ声を絞り出す。

「証拠は? 私がそう仕組んだという確実な証拠はあるんですか?」

「証拠を見つけるのは警察官や検事の仕事です。精神鑑定医の役目は、彼らから与えられた情報から、事件当時の被疑者の状態をできる限り正確に導き出すことです。そして、これまで集めた情報により、あなたが奥さんの殺害に失敗し、誤って被害者を巻き込んでしまった可能性は極めて高い。それが私の判断です」

 積木は固く握った拳を震わせながら黙り込む。

「綿密に計画を立てている点から、あなたが精神疾患による混乱で心神喪失になっていたことは否定できます。しかし、うつ病と奥さんからの干渉によって精神的に追い詰められ、正常な判断能力が低下する心神耗弱であったと思われる。私はそう鑑定書を書くつもりです」

「……ぜんぶ状況証拠からあなたが推測したことに過ぎない。裁判で戦ったら、十分に覆すことができる」

 俯いたまま、積木は上目遣いに影山を睨め上げた。

「そうかもしれませんね」

 影山はあっさりと肯定する。

「しかし、あなたが起訴されることは確実です。たとえ故意でなかったとしても、怠薬による発作が原因で一人の男性の命を奪えば裁判になる。そして、あなたが否定するなら、検察は死に物狂いで証拠をかき集めるでしょう」

 歯を食いしばって黙り込む積木の前で、影山は「さて」と軽く手を合わせた。

「鑑定をくだした以上、精神鑑定医としての私の仕事は終わりました。ここからは精神科医としてあなたにアドバイスをしましょう」

「精神科医として?」

 積木は訝しげに眉根を寄せる。影山は「そうです」と頷くと、静かに語り掛ける。

「積木さん、すべてを認めることをお勧めします」

「なにを言って……」

 影山は掌を突き出し、怒鳴ろうとする積木を遮る。

「無関係だった町田壮介さんを轢き殺し、幸せな家族から夫と父親を奪ったことにあなたは強い罪悪感を抱いている。だからこそ、自殺を図るほどに苦しんだ。もし自らの罪を認めて家族に心から謝罪をしなければ、あなたは生涯、罪の意識に苛まれ続けるでしょう。いまは一時的に薬で症状を抑えていますが、時間が経てば再びうつ病が悪化し、苦しむはずです」

「そんな……。じゃあ、私はどうすれば……」

 そのセリフが影山の仮説を裏付けるものだというのにもかかわらず、積木は縋りつくように言う。

「正直に告白し、罰を受けることで罪悪感を少しでも弱くすることです。さっきも言った通り、ストレス源から離れることはうつ病では最も重要な治療です。奥さんというストレス源から離れたいま、次にあなたが向かい合うべきは自らが犯した罪だ」

 影山はゆっくりと席を立つ。凜もそれに倣った。

「待ってください。もう頭がぐちゃぐちゃで……、半年前からなにがなんだか分からなくなって……」

 溺れる者が助けを求めるかのように、積木は手を差し出す。扉のノブを掴んでいた影山は、振り返って積木を睥睨した。

「精神科医としてその混乱は責任を持って抑えましょう。しかし、どのように自らの罪と対峙するのかは、あなた自身が判断することだ。それを手伝うことは誰にもできません。……もちろん、私にも」

 感情のこもらない声で言うと、影山は扉を開けて部屋を出る。凜も慌ててその後を追った。

 振り返った凜は閉まっていく扉の隙間を覗き込む。床に崩れ落ち、土下座をするかのように両手で頭を抱え、まるで痙攣しているかのように大きく震える積木の姿が目に飛び込んできた。

───────了
(こちらのページは12月28日まで公開予定です)

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知念実希人(ちねん・みきと)
1978年沖縄県生まれ。東京慈恵医科大学卒業。医師として勤務する傍ら、2011年「レゾン・デートル」で島田荘司選  ばらのまち福山ミステリー文学新人賞を受賞。翌年同作を『誰がための刃  レゾンデートル』と改題しデビュー。『崩れる脳を抱きしめて』『ひとつむぎの手』『ムゲンのi』で3年連続本屋大賞ノミネート。

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