冒頭先行公開! 知念実希人『十字架のカルテ』特別書き下ろし短編「震え」

震え

 あの影山司と弓削凛のコンビが帰ってきた!
 精神鑑定というテーマを扱い、著者の新境地を切り開いたミステリー『十字架のカルテ』。「続編希望!」の熱い要望に応え、特別書き下ろし短編を期間限定公開します! その証言は、真か嘘か。心の闇に光を当て、浮かび上がる真実とは――!? 11月20日の全文公開の前に、冒頭部分のみ先行公開いたします!


 

 1

「えっとね……さる。次はパパの番だよ。『る』ね」

「また『る』かぁ。ルビーはさっき使ったしなぁ」  

 右手に小さな掌の感触をおぼえながら、町田壮介(まちだそうすけ)は『る』ではじまる単語を頭の中で必死に探す。  

 時刻は九時頃、壮介は四歳になる娘の茉里奈(まりな)としりとりをしながら保育園へと向かっていた。

「る、る……、ルッコラ」

「ラクダ!」  

 茉里奈はスキップするように軽い足取りで歩きながら言う。

「今度は『だ』か……。じゃあ、だいこん!」

「あ、『ん』がついた。パパの負け」  

 茉里奈が無邪気な笑みを浮かべながら壮介の顔を指さした。

「あー、負けちゃったか。茉里奈は強いなあ。パパ、かなわないよ」  

 細めた目で一人娘を見つめる。出勤前、茉里奈を保育園へと連れて行く十五分ほどの道のり、それは壮介にはかけがえのない時間だった。

「じゃあね、もう一回しりとりやろう。今度はね、えっと……」  

 茉里奈が視線を落として考え込みはじめたとき、前方から白いセダンが走ってきた。

「茉里奈、ちゃんと前を見なさい」  

 たしなめながら、壮介は娘を守るように少し前に出る。車がなんとかすれ違えるほどの幅しかなく、両側にブロック塀が連なっているこの道には、歩道と車道を分けるガードレールもない。ときどき接触事故が起きているらしいので、壮介は常に自分が車道側を歩くように気をつけていた。  

 茉里奈が「はーい」と不満げに答えるのと同時に、セダンがやや乱暴な運転ですぐわきを通り過ぎていった。  

 少し遠回りになるけれど、もっと広い道を通った方がいいかもな。壮介がそんなことを考えていると、「パパ、パパ」と言う声とともに右手が引かれた。

「どうした、茉里奈」

「シマウマ」

「え?」

「パパの番。シマウマだから『ま』だよ」

「あ、ごめんごめん。ぼーっとしてた」  

 しりとりをしていたことを思い出し、謝った壮介が「マントヒヒ」と言おうと口を開いたとき、大きな衝突音が響いた。視線を上げた壮介は目を見開く。黒いSUVが大きく蛇行しつつ、すさまじい速度でこちらへと向かってきていた。両側のブロック塀に何度も衝突しながら、巨大な車体が迫ってくる。

「茉里奈!」  

 壮介はとっさに娘を抱きしめる。次の瞬間、強い衝撃が背中に叩きつけられる。骨が砕け、内臓が破裂する音が体内から聞こえてきた。  

 痛みは感じなかった。ただ、腰から下が灼けるように熱かった。  

 ……茉里奈は? 壮介はなぜかやけに重い瞼を上げる。目の前に、蜘蛛の巣がはっているかのように細かいひびが走り、赤黒い液体で濡れたフロントガラスが見えた。頬にやすりのようなざらざらとした感触をおぼえる。眼球だけ動かして確認すると、ブロック塀に顔が押し付けられていた。  

 車に轢かれ、塀との間に挟まれたんだ。霞がかかったかのように思考が回らない頭を必死に動かして状況を把握した壮介は、大きく息を呑む。  

 茉里奈は!? 茉里奈は無事なのか!?  

 娘の名前を叫ぼうとするが、なぜか声が出なかった。咳き込んだ壮介の口から、赤い飛沫が漏れる。口の中に、生臭い鉄の味が広がった。

「……パパ」  

 鼓膜を揺らすか細い声。頸椎が錆びついたかのような首を必死に動かした壮介の目に、アスファルトに座り込む一人娘の姿が飛び込んでくる。その顔は恐怖に引きつり、青ざめているが、大きな怪我はなさそうだった。もはや感覚がなくなっている壮介の胸が、あたたかい安堵で満たされる。  

 大丈夫だよ、茉里奈。パパが守ってあげるからな。  

 微笑んでそう言おうとするが、舌がこわばって声が出なかった。自らの意思とは関係なく、口から生温かい液体が溢れ出す。  

 ふと壮介は、スカートから覗く茉里奈の膝からわずかに血が滲んでいることに気づく。  

 ああ、転んだ拍子に擦りむいたのか。かわいそうに。早く消毒してあげないと。

「ま……りな……」  

 喉の奥から愛しい一人娘の名を絞り出すと同時に、壮介の意識は白い光に呑み込まれていった。

 

 2  

 光沢を孕むほどに磨き上げられた白い廊下を進みつつ、弓削凜(ゆげりん)は横目で隣を見る。この病院の院長であり、凜の指導医でもある影山司(かげやまつかさ)が普段通りの無表情で歩いていた。  

 光陵(こうりょう)医大附属雑司ヶ谷(ぞうしがや)病院。豊島区雑司ヶ谷に建つこの病院は、医大の附属としては珍しい精神疾患専門の医療施設だ。その閉鎖病棟に凜は影山とともにいた。  

 三ヶ月ほど前、凜は精神鑑定を学ぶため、国内でも指折りの精神鑑定医である影山に弟子入りした。それ以来、影山の助手としていくつもの精神鑑定に立ち会っている。今日もこれから、検察から依頼された被疑者の面接を行う予定だった。  

 精神鑑定には、留置所や拘置所に鑑定医がおもむき、一時間ほど面接をして判断する簡易鑑定と、被疑者を専門施設へと移送し、そこで二ヶ月ほど面接や検査を行う本鑑定がある。精神鑑定の大部分は簡易鑑定だが、世間的に注目される重大事案では本鑑定が行われる傾向にある。そして、これから面接する人物が起こした事故も、大きなニュースとして全国的に報道されたものだった。  

 閉鎖病棟の最も奥にある面接室にたどり着く。扉の脇には体格の良い男性看護師が控えていた。影山が目配せすると看護師が扉を開ける。  

 四畳半ほどの空間に、テーブルとパイプ椅子だけが置かれた殺風景な部屋。そこに、線の細い男性が俯いて座っていた。凜と影山が室内に入ると、男性はゆるゆると顔を上げる。その顔は蒼白で、眼窩が落ちくぼんで眼球がわずかに飛び出ているように見える。肌はひび割れそうなほどに乾燥し、あごは無精ひげに覆われていた。まだ四十二歳のはずだが、生気のない姿は老人のようだ。この男性こそが、今回精神鑑定をする対象である積木義久(つみきよしひさ)だった。  

 まあ、当然か。あんな事故を起こしたんだから。内心でつぶやきながら、凜は積木が起こした事故の概要を思い起こす。  

 三週間ほど前、大田区平和島にある東葉(とうよう)大学という新興私立大学で考古学の教授を務めている積木は、妻を会社まで送った帰りに交通事故を起こした。被害者は三十代の会社員で、娘を保育園へ連れて行く途中、積木の車に撥ねられた。  

 車とブロック塀の間に挟まれた被害者は胸腹部の臓器を激しく損傷し、ほぼ即死だった。資料によると、みぞおち辺りをバンパーに挟まれ、上半身と下半身が切断されたような状態だったということだ。  

 事故直前、被害者が身を挺して守ったおかげで娘は軽傷で済んだが、目の前で父親が無残な死を遂げたことで精神的に大きなダメージを受け、治療を受けているらしい。  

 子煩悩な父の凄惨な死、残された家族の悲嘆。さらに加害者である積木が大学教授という社会的地位にある人物であり、たびたびテレビなどにも出演していたことから、この悲劇はマスコミに大々的に取り上げられることになった。  

 ただ、それだけなら悲惨な事故ではあるものの、過失運転致死で逮捕・起訴されて終了となるはずだった。しかし、二つのある事情によって積木はこの病院で精神鑑定されることになった。

「今日もよろしくお願いします、積木さん」  

 影山はいつも通りの平板な声で言う。

「こちらは当院の精神科医、弓削凜です。本日から事故についての話をするので、助手として彼女も立ち会いますが、よろしいでしょうか」  

 積木は一週間ほど前に検察庁から身柄を移送されてきた。鑑定のためやってきた被疑者は多くの場合、環境が変わったことにストレスをおぼえる。そのため最初のうちは突っ込んだ話をしない方が良いという方針のもと、これまでは影山が一人で面接を行い、積木が専門としている古代メソポタミア文明の話題などを中心に話をしていた。そして、ある程度の信頼関係が築けたと判断し、今日から本格的な精神鑑定をはじめることになった。  


【好評発売中】
十字架のカルテ

『十字架のカルテ』
知念実希人

▼著者インタビューも掲載中!

chinensan-banar

知念実希人(ちねん・みきと)
1978年沖縄県生まれ。東京慈恵医科大学卒業。医師として勤務する傍ら、2011年「レゾン・デートル」で島田荘司選  ばらのまち福山ミステリー文学新人賞を受賞。翌年同作を『誰がための刃  レゾンデートル』と改題しデビュー。『崩れる脳を抱きしめて』『ひとつむぎの手』『ムゲンのi』で3年連続本屋大賞ノミネート。

◎編集者コラム◎ 『大正野球娘。3 帝都たこ焼き娘。』神楽坂 淳
◎編集者コラム◎ 『銀しゃり 新装版』山本一力