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  片山恭一「遠ざかる家」
  死者との語らいを復活させるのは、文学の仕事でもある






 人生の円熟期にさしかかった時、人の心に去来するものは何か。これまでに自分が手に入れてきたものを見つめ直し、残りの人生へ思いをはせる。そこでもし、無意識下に押しやっていた記憶が甦り、新たな感情が動かされたとしたら……? 片山恭一さんの2年ぶりの書き下ろし小説『遠ざかる家』は記憶の死角に直面した兄弟の物語だ。





夫婦にはリセットせねばならない時が来る


主人公は47歳の歯科医、和也。息子たちはすでに家を出ており、妻は親の介護のために実家に戻っていて、現在は飼い猫と自由気ままな生活を送っている。彼が一人暮らしを楽しんでいる様子が描かれるほどに、この家庭が現在、距離も心もバラバラであるという事実が浮かび上がってくる。

「家族というのは、見えない風景をどんどんつくっていく装置だなと思うんです。恋愛中は、相手の表情やしぐさをつぶさに見ていたのに、家族になって一緒にいることが日常となってくると、次第に相手を見なくなる。連れあいだけでなく、子供に対しても、見ていない風景が増えていってしまう

 そこに、家族という集合体がはらんでいる落とし穴がある、と片山さん。

「自分を振り返ってみても、これまで無意識に家族を営んできた気がするんです。若い頃に結婚して、子供が生まれたら世話のために毎日やることがいっぱいで、子供中心に家族が形成されていった。でも彼らが成長して就職すると、かすがいがなくなるんですよね。夫婦の関係がむき出しになる。この先も一緒にいる必然性があるのかどうかという問題が立ち現れて、家族を再構築する必要性が出てくるんです。そこで意識してリセットしなければ、たぶん壊れてしまうんでしょう

 和也はまさに、リセットせねばならない状態にあるわけだが、なかなか本人は気づかない様子。そんな折、アルコール依存症で入院した兄の靖彦から頻繁に電話がかかってくるようになる。心の空洞を抱えた兄の相手をするうちに、彼らは自分たちの家族二代にわたる悲劇を思い出す。二人には、戦争中に5歳で亡くなった、叔母になったはずの女性と、同じく5歳で命を落とした、彼ら自身の姉であり妹である身内がいたのだ……。

「幼い頃に母方の祖父母の家にはよく行っていて、実際に空襲で亡くなった、叔母になるはずの人がいたという話を聞いていたんです。そのことは一度書いておきたくて、短編にしたことはあったのですが、今回はそれを大幅に再構築したわけです」



人間を人間たらしめるのは死者との語らい


 人生の折り返し地点を過ぎ、それぞれに問題を抱える兄弟、その家族。そんな生きている者たちの向こうに、死んだ人々の姿が見えてくる。この死者の存在というものは、片山さんが長年考え続けているテーマでもある。

「学生の頃から人間を人間たらしめているものは何かと考えてきましたが、それはやっぱり、死者との語らいではないかと思っているんです。本能が壊れてしまった現代の人間がどう生きたらいいのか、その善悪の判断は、死者たちに導かれるところがある。僕たちが生きる世界を見て、彼らが嘆くのか喜ぶのか。つねにそう意識することで、生き方を律していく。生きている人間同士だと互いに成長し変化するのでその関係性は相対的ですが、死者は絶対的な場所にいる存在。その定点からの問いかけは、ひとつの基準になるのでは

 だが、多くの現代人と同じように、和也や靖彦は死者たちのことを忘れていた。そして自分たちとは対照的に、亡くなった祖父母がいつも「ナンマンダブ」と唱え、向こう側へと行ってしまった人々を身近に感じようとしていたことを思い出す。

「祖母の年代は念仏を唱えることで、死者を身近に感じてきた。それに例えば、南九州には毎朝墓に花を供える習慣のある地域がありますが、毎日墓参りをするような人が、無意味に人を殺したり騙したりするとは考えにくいですよね。でも、今の社会は死者の気配をどんどん消していっている。日本人はもともと自然崇拝的な信仰を持っていたのに、自然を破壊して都市化していき、今や精神的なものが息づく空間がなくなっている。死者との語らいをどうやって復活させられるのか。いろんな方法がありますが、僕はそれは文学の仕事でもあると思う

 死者との通信回路を復活させる力が、文学にはある。それが、片山さんが執筆の際に託した思いだ。だが、斜に構えた見方をすれば、そこで死者との“絶対的な”関係性に目を向けるほどに、現世の“相対的な”人間関係が空しく感じられる可能性もありそうなのでは。

「相対的であるからこそ、手遅れということはないと思うんです。一度関係性が壊れてしまっても、修復は可能であるはず。ただ、逆にいえば、ケアをしなければ、いくら円満な家族でもたやすく壊れてしまう。それが生きている人間同士のはかなさ、危うさであり、面白さでもあるんでしょう



絶望の中に希望を見出すのが本当の知性


 だからこそ、やがて兄弟はそれぞれ、大切なものを守ろうとする行動に出る。はたして、彼らは家庭を再構築できるのか。

僕自身、どうも家族を諦められないところがある。シングルで生きていくという人がいてもいいけれど、僕の場合はそれでは寂しいなと思ってしまうんです

 そう語る片山さんが用意するラストは、やはり読み手を絶望の底に突き落とすことはしない。未来へ向けての光を感じさせる余韻は、これまでのどの作品にも通じている。

「絶望的な状況の中で絶望するなら、サルにでもできるというか(笑)。絶望の中で希望や可能性を見出していくのが、本当の知性だと思うんです。僕も、読んだ人が前向きな気持ちを見出せる小説を書きたいと思っています

 そんな思いをこめているからこそ、一行一行が重く、心に染みてくる。そして祈るような思いで、本を閉じることとなるのだ。



(文・取材/瀧井朝世)



片山恭一(かたやま・きょういち)
 1959年、愛媛県生まれ。86年、「気配」で文學界新人賞受賞。おもな著書に『世界の中心で、愛をさけぶ』(小学館文庫)『最後に咲く花』(小学館)『壊れた光、雲の影』(文藝春秋)など多数。