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  島本理生『波打ち際の蛍』
  少しでも恋愛できる相手はどういう人かと考えたら






 恋愛小説の若き書き手、とくれば、誰もが真っ先に島本理生さんを思い浮かべる。実際には恋愛が絡むものの、テーマは別のところにある著作も多数。そんな彼女が、久々に王道のラブストーリーを上梓した。
波打ち際の蛍』は、心に傷を負った二人が、少しずつ関係性を築いていく様子を、丁寧に、実に丁寧に描き出す。



心に傷を抱いた男女の出会い


「ここ最近いろんなテイストの小説を書いてきたので、今回は初心にかえって、恋愛や、人と人との関係性をじっくり書こうと思いました。それにテーマが重い中で軽さを出すには、私にとって恋愛が一番書きやすくて。恋をしている主人公の気持ちを沢山書くことができたので、楽しかったです(笑)

 重いテーマとは“心の病”のこと。主人公の麻由は元恋人の暴力が原因で精神的なダメージを受け、マッサージ施術師の仕事も辞め、カウンセリングに通っている。暴力や性の問題は島本さんがずっと書きたいと思っているテーマ。だが、ここで描かれるのは暴力に至る過程でもその瞬間でもなく、その後の、深い暗闇に落ちて苦しむ麻由の姿だ。

「よく事件が起きると、出来事が起きた瞬間に焦点が当てられますが、それだけでなくその後、その人の中の変質した部分を元に戻すのに、すごく時間がかかると思う。そこから人がどう生きていくのかを書きたい」

 過去の恋を含めて、何かと自分を責めてしまう麻由の描写がつらい。ズケズケと物を言う母親など、人との会話の中で抱く痛みなど、微妙な心の揺れが繊細に描かれる。

「麻由はどこか無防備なんです。マッサージの仕事もそうですが、自然に人に対して尽くす、献身的な女の子。彼女には大きな出来事があったわけですが、自分も日常の中で似た感覚を抱くことがある。そういう感情を拡大して書いた部分もありました

 また、執筆にあたって、実際にカウンセラーに話を聞きにいったという。

「カウンセリングって、先生がいろいろと話してくれて癒してくるイメージがあったんですが、そうではないんですね。先生は質問をするだけで、答えは自分自身に出させる。結局は自分の作業なんだなと思いました。でも一人で再生するのは難しい。自力で立とうとすると同時に、人の助けも借りる、その両方が必要だと思います



恋の始まりを、ゆっくり丁寧に描く


 麻由は現在、男性が怖い状態。恋愛に積極的になれるわけがない。そんな時期に相談室で出会ったのが、蛍という年上の男性。彼も何かしらの心の事情を抱えている事実が、麻由にとって、ハードルを低くさせている。

「こういう状態にいる時に、少しでも恋愛できる相手はどういう人かと考えたら、蛍のような男性になりました」

 声をかけてきた蛍を、最初は拒絶する麻由。だが、穏やかに接してくる彼に次第に惹かれていく。新宿御苑でピクニックをしたり、寿司屋で食事をしたり。内田百間やキリンジ、タイトルは出てこないがフリオ・リャマサーレスの小説『黄色い雨』など、実在の場所、作家やアーティストなども登場。

「普通の読者に届くよう、日常の場面を多く入れました。食事のシーンが多いのは、気持ちよく食べられるというのは、相手を信頼している証拠だなと思ったので。本や音楽に関しては、今時の若い人とはちょっと違う、ということを表してみました(笑)

 二人の非常に丁寧な口調の会話も印象的。そこに麻由の相手への距離感、そして蛍の優しさがにじみ出る。ただし蛍は聖人君子とはいかず、元彼女の影が見えたりする一面も。

「いい意味でも悪い意味でも、普通の男の人にしようと思いました。それに彼は辛抱強いし優しいけれど、彼女を引っ張って、ラクにさせてくれるわけじゃない。“君がよくなるのを見ている”というイメージ。海辺を歩く時に波打ち際にいて、危なくないかどうかを見守っている人なんです」

 他にも鍵となる男性が二人登場。一人は回想場面に現れる元恋人の関口。暴力を振るうだけでなく、さりげなく毒を含んだ言葉を口にする。例えば麻由の仕事に関して「よく見ず知らずの相手にいきなり触れるね」と言い放つ。この嫌な感じの描写が、実にうまい。

「確かに、他の男性を書いている時とはまた違う気持ちの盛り上がりがありましたね(笑)。いきなり殴られるだけだったら、いくらなんでも“なんだろうこの人は”と思うはず。でも精神的に侵食されて、弱っている時に並行して暴力を受けたら、人間は立てなくなる。そしてだんだん混乱していくと思うんです

 そんな状態から助けてくれたのが、もう一人の男性、従兄弟のさとる。気さくで明るく、言葉はぞんざいだが、気遣いを感じさせる。

「大人になる前の自分を知っている人ってすごく安心感がある。でも、それが恋愛に直結するかというと、どうかなと思う。変わらない場所にいる人ではなく、一緒に変わってくれる可能性を秘めている人と関係を築く。それが新しい恋というものなんだと思う



変わっていく二人だからこそ、恋ができる


 麻由と蛍、自分を変えていきたいと思う二人だからこそ、始まることがある。島本さんが好きなのは、彼らが会っている場面より、麻由が一人で静かに蛍のことを想うシーン。

「相手は今何をしているんだろうって考えている時って切ない。お互いに想っているからといって、目の前の問題が消えるわけでもないし、すべてを分かりあえるわけでもない。お互いに相手を想っているのに、片想いでもあるんですよね

 そうして、受動的だった麻由も少しずつ、能動的になっていく。

「ラストは決めていました。慎重に言葉を選んで自分のことを打ち明けても、相手が、同じ距離の関係性のまま、そこにいてくれる。それが何よりの希望だと思うから」

 痛みと励ましを与えてくれる、大切にそばに置いておきたい一冊となった。



(文・取材/瀧井朝世)



島本理生(しまもと・りお)
 1983年、東京生まれ。98年、「ヨル」で『鳩よ!』掌編小説コンクール当選、年間NVPを受賞。2003年、高校在学中に『リトル・バイ・リトル』が芥川賞候補となり、野間文芸新人賞を最年少で受賞。主な著作に『ナラタージュ』『あなたの呼吸が止まるまで』『クローバー』など多数。