巨大でいびつな建築物を目指して
青森の名家・狗塚家に生まれた長男・牛一郎と次男・羊二郎、そして彼らの妹である長女のカナリア。孫たちに語りかけるばば様、歴史を記録しようとする父親。彼らを軸に、東北各地の時空を移動しながら物語は紡がれていく。本書の構想がスタートしたのは3年前の2005年。古川さんが『ベルカ、吠えないのか?』、『LOVE』、『ロックンロール七部作』と、力作を3作も発表した年だ。
「その3冊は自分にとって、大きな挑戦だった。だから書き終えた時、その次に挑戦するならば、その3作を合わせたものよりも巨大なものを用意しなくちゃいけないと思って。1年計画じゃ無理だし、ひとつの媒体での連載でも無理。それで3年計画で、いろんなところに発表しながら巨大なものを作っていこう、と思ったんです」
巨大、というのはまずその分量。と同時に、作品内の広がりや世界観、そしてそこに含まれる熱量も尋常でなく“巨大”。それを古川さんは、建築物に喩える。
「タイトルを思いついた時に、スペインの東北にあるバルセロナの、聖家族贖罪教会、つまりガウディのサグラダ・ファミリアを思い出して。あれはガウディの死後80年以上たってもまだ建築し続けている、巨大な建築物。これまではずっと音楽作品と比較するように小説を作ってきたけれど、音楽に唯一弱点があるとすれば目に見えないということ。今回は目に見える、巨大でいびつなものを作ろうと思ったので、ならば音楽作品というよりもそうした建築物を目指そう、と。いろんな媒体に掲載するのは、建築の過程をみんなに見せているようなイメージでしたね。作品の中に入って住んだり、この中で跪いて祈ってもらえるようなものを作りたかった」
あえて東北を舞台にした理由
建物の中に大小さまざまな部屋があるように、本書の中の各章の長さもさまざま。そして部屋それぞれに異なる内装が施されているのと同じく、ここには青春小説、クライムノベル、歴史モノ、詩などさまざまなジャンルが詰まっている。ただ、舞台はつねに東北。実は古川さんは福島の郡山出身。だが、これまで故郷のことを書いたことはなかった。
「自分のことをアピールするのが嫌で。出身地を書けばリアルだ≠ニ言われるのも嫌だった。ただ、今回は挑戦なんだから、書かないで逃げているものがあったとするなら、それをあえて書かなくてはと思った。書かずにいることが、書けずにいることだと思われるのも癪だったし(笑)。そして、単なるお国自慢でないことを主張するために、東北6県というまとまりを選びました」
そこには、このエリアに対する古川さんらしいフェアな思いもあった。
「東北っていう呼び名からしてひどいなと思うんです。それって北と東にある、という方位を表しているだけでしょう。そんなものは地球上のどこにだってある。この名前からして、僻地として虐げられているという感じがする。それに関西弁で文学は成り立つけれど、東北弁って、ユーモアとかギャグに使われることが圧倒的に多い。オレは言語に貴賤ナシ、と思っているから、あえて使いたかったんです。イントネーションやアクセントは誌面では表せないし、地域によって方言もそれぞれなので、文章内では分かりやすくしています。東北弁の部分だけを全部ゴチック体にしたのは、それが建物の中の、音の反響みたいなものになればいいと思って」
執筆にあたり、まず半月をかけて東北各地を取材した。そしてその後も、数え切れないほど足を運んだという。
「最初の取材では、青森から秋田、山形、福島に下り、宮城、岩手、青森と北上したんです。はじめて行く場所もあったけれど、町でも自然の中でも、感動的なランドスケープをたくさん見ることができた。ある土地では あ、空気が存在している≠ニ思い、ある場所ではこの光、何かおかしい≠ニ感じた。人と土地の関わり具合も見えました。青森から下って、朝、郡山に着いた時、通勤通学する人たちの顔に共通性が見えたんですよ。ああ、郡山の人ってこういう顔をしているのか、オレもそうなのかなって思った(笑)。東北を細かく見て回ることでセンサーが働いて、差異に敏感になっていたのかもしれない」
最初から計算されていた緻密な構成
物語は、牛一郎ら三きょうだいの祖母にあたる「狗塚らいてうによる『おばあちゃんの歴史』」に始まり、「狗塚カナリアによる『三きょうだいの歴史』」で終わる。実は、執筆開始早々からこうした展開は決めていたという。
「最初のおばあちゃんの語る歴史が全体のプロトタイプとなっていて、そこから物語が全方位に発生し、最終的にカナリアの語りで収束されていく、という構造は先にあった」
その間に繰り広げられる物語は、作品ごとにみな異なる個性を持つ。ストーリーも幻惑的だが、畳みかけるように短文が連なったり、我ら≠ニいう人称が使われたり、時には土地そのものが意志を持ったりと、その語り口も魔術的だ。では、それらはどのように生み出されたのか。例えば「地獄の図書館」というシリーズでは、白石や大潟や郡山を舞台に、異なる人々の物語が展開するが、どれも狗塚きょうだいの両親である狗塚真大・有里夫妻が現れ、時に破滅的な結末を迎えることに。
「ここでは、あえて東北でノワールをやりたかったんです。南が舞台で沖縄コネクション≠ネんていうとそれっぽく聞こえるけれど、東北って、ノワールというイメージが湧かない。あえて雪に埋もれた町に血が飛び散って、それがモノクロ映画のように白黒に見えるようなものが書きたかった」
暴力を描こうという衝動
軸となる三きょうだいの物語でも、牛一郎と羊二郎は地面を這うように移動しながら、暴力を重ねていく。古川作品の中でも『gift』や『LOVE』といったピュアな優しさに満ちた作品を読んできた人にとっては、このバイオレンスのイメージは意外かも。
「『gift』の頃は、自分の中の柔らかい部分を出していた。けれど、それだけじゃ嫌になって。自分がいい人として振る舞っていれば、物事はすべてうまくいくと思っていた。でもせっかく美しいものだけで世界を生きようとしているのに、自分の周りにいる人間は欲得ばかり。声がでかい奴ばかりが勝っていると気づいて、そういう世界をよりよくするためには、いったん自分も醜いところまでいかざるを得ないのか、と思った。自分の中に釣り糸を垂らして暴力的なものを釣り上げて書きたい。そういう衝動が生まれてきたんです」
そんな彼らのことが綴られるのは「聖兄弟」シリーズ。人を殺していく兄弟に、聖≠フ文字がつけられているわけだが、
「あの兄と弟は美しいなと思う。血みどろになって、殺すとか殺されるといったことに圧倒的に向き合うと、狂気に陥らざるをえない。そこまでいってはじめてホーリーな兄弟になるんじゃないかと。読者でも、暴力も何もかもありながら、あの2人のシーンが好きだ、あの兄弟が愛おしい、という人がいる。その気持ちが聖なるものだと思う。『gift』などのテーマと真逆なんだけれど、そこまでボロボロズタズタになって、はじめて見えてくるものだってあるはず」
近代の歴史を辿る「『見えない』大学附属図書館」という章もある。ここでは、三きょうだいの父・真大がひたすら歴史を記録しようとしている。
「祖母やカナリアら、女性たちは自分たちの耳で聞き、口で語っていくものを聖なるものとして大切にしている。でも現実の世界では、口で伝えられるだけの記憶は、ほとんど価値がないと思われている。正しいとされているのは記録されたものだけで、それは母や祖母たちの系譜ではなく、父や祖父の系譜が作っているもの。図書館というのは、まさにおばあちゃんの語りの、逆の装置。人間の脳味噌は本来、その両方をミックスしたものだけど」
男は歴史を記録し、女は記憶を口伝えに残していく。奇しくもそんな対照性が生まれた。
「女の人は自分の中から子供を産むように自分の口から記億を生み出し、男の人は手に剣を持つように、手を使って記録を書き留めていく。そんな役割分担があるのかもしれない。この小説を書きながら思っていたのは、男の自分は子供を産めないんだ、ということ。産むという行為は永久に体験できないんだという感覚があって、それが通奏低音として流れていた。この本の中の男たちが悲惨な道を辿るのも、自分の中で切実に感じていたことが表れていたのかもしれない。……書いている時はあまり分からなかったけれど」
他には、鳥居や天狗をモチーフとした短編から成る「記録シリーズ」も。これは完全に独立した作品として楽しめる作品群。
「必要なパーツ、こぼれ落ちてはならない主題をここに入れました。この部分は連載ではなく書き下ろしだったので、何でもアリな文体と構成にできた。建築物でいうと、外からは塔しか見えないけれど、中に入ると見える、内側にある泉のようなもの。それは一見不要なものに見えるけれど、実はそれがないとその建物の核心が証せないものだったりする。だからその泉が一日に何回も湧くようにしてみたり、トパーズを埋め込んでみたり、あまりに自由にできるので、自制しなくちゃいけないくらいだった(笑)」
人々の記憶と記録が生み出すマジカル
中編連作から短編まで、バリエーション豊かな作品が有機的に絡まり合って作られた巨大な建造物。時間をかけたとはいえ、たった一人で、ここまで作り上げるとは。
「オレは一人で書いたとは思っていません。今まで人が書いたもの、作ったものを見聞きしてきて、それらすべてをインプットした上で表現をしているのだから。漢字ひとつ使うにしたって、中国大陸でどれくらいの人がこの一文字に関わってオレの脳味噌に届いたのか分からないでしょう」
脈々と受け継がれる記憶と記録が生み出したともいえる一冊。そう思うと、作品の存在自体が実に奇跡的なものに思えてくる。ただ、本人にとって、ミラクルは日常的なもの。
「誰だって、見ようとすれば、1日に1個か2個はマジカルな何かを発見できるんです。それをみんな存在しないもの≠ニ思いこんでいるから、見えていないだけ。昨日だってフェンスに囲まれた空き地で、猫4匹、幸せそうに集会していた。そういうことがマジックなのに、通る人は誰も気づかない。それどころか、フェンスのそばに立って猫たちに口笛を吹いているオレは、異常な人だと思われていたと思う(笑)」
古川さんの活動は、この世界にあふれている記録&記憶されないマジックの数々を、拾い上げていく作業といえるのかもしれない。
「自分がすくい取ったものを、世の中に還元するのが自分の役目といえるのかも。オレの本を読んだ後、町を見渡す目が変わったと言う人がいるけれど、そう聞くと少しは還元できているのかなと思う」
一時的な感動や涙ではなく、潜在意識に潜り込むような変化を読者にもたらす。それは、古川作品の魅力のひとつだ。
「読むと進化するような本が作りたい。でもそれは、読み終えた時に背中に翼が生えているような進化というよりは、指が二本生えてくるとか、耳たぶの後ろから角が生えてくるような、ちょっと訳の分からないものであってほしいんですよね(笑)」
(文・取材/瀧井朝世)
古川日出男(ふるかわ・ひでお)
1966年、福島県郡山市出身。早稲田大学第一文学部中退後、編集プロダクション勤務。1998年『13』で小説家としてデビュー。2002年『アラビアの夜の種族』で第55回日本推理作家協会賞、および第23回日本SF大賞をダブル受賞。2006年『LOVE』で第19回三島由紀夫賞受賞。ほかの著作に『ベルカ、吠えないのか?』(文春文庫)『サマーバケーションEP』(文藝春秋)『ハル、ハル、ハル』(河出書房新社)『ゴッドスター』(新潮社)などがある。
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